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第八話 星詠みの夜祭り

 その日の朝、魔封学園「暁の境界」は、祝福の音色で目覚めた。

 いつも時を告げる厳粛な時計塔の鐘が、今日だけは、軽やかで華やかなファンファーレを奏でている。「星詠みの夜祭」の始まりを告げる、特別な鐘の音だ。


 リアンは、男子寮の窓から外を眺めた。いつもは静かな学園のメインストリートが、色とりどりのリボンや魔法の光で飾られ、生徒たちの浮き立つような喧騒に満ちている。模擬店から漂ってくる、甘い焼き菓子や香ばしい肉の匂いが、祭りの到来を告げていた。


「…すごいな」


 その光景に、リアンは思わず息を呑んだ。隣りでは、レオが「うおおお!祭りだ祭りだぁ!」と、子供のようにはしゃいでいる。


 リアンは、男子寮の談話室で、少しだけそわそわしながら、一人の少女を待っていた。昨夜、彼女と交わした約束。その温もりが、まだ胸の奥で、じんわりと熱を帯びている。

 やがて、談話室の入り口に、見慣れた銀色の髪が現れた。フィーリアだった。

 彼女は、リアンの姿を見つけると、一瞬はにかむように微笑み、そして昨夜までのぎこちなさが嘘のように、自然な足取りで彼の元へと歩み寄った。


「おはようございます、リアン」

「ああ、おはよう、フィーリア」


 交わされる、何気ない挨拶。しかし、その響きは、この数ヶ月間のそれとは全く違っていた。氷が解け、雪が消え、ようやく訪れた春の陽だまりのような、温かさと重みが宿っていた。

 フィーリアは、リアンたちのクラスがカフェのために作った、揃いの白いエプロンをつけている。彼女は少しはにかみながら、その場でくるりと一回転してみせる。


「…似合いますか?」


 普段の清楚な制服姿とは違う、その少しだけ砕けた、しかしあまりにも愛らしい姿に、リアンの思考は一瞬停止した。彼は、顔が熱くなるのを感じながら、どうにか言葉を絞り出す。


「…ああ。すごく、似合ってる」


 それが、今の彼に言える精一杯だった。フィーリアはその言葉を受けて、心の底から嬉しそうに、花が綻ぶように微笑んだ。

 後からやって来たレオとリナが、そんな二人を見て、「お、やっと元に戻ったか」「まったく、手のかかる二人ね」と、安堵とからかいの混じった表情で見守っている。四人の間に、以前と同じ、いや、以前以上の固い絆が戻ってきていた。


 リアンたちのクラスが出店したテラスカフェは、昼過ぎには、空席を見つけるのが難しいほどの大盛況となっていた。


「へい、お待ち! 特製ハーブティーとクッキーのAセット、二つな!」


 レオが、持ち前の体力と明るさで、ウェイターとして店内を縦横無尽に駆け回る。彼の豪快な接客は、店の名物となっていた。

 厨房の奥では、リナが司令塔として、その卓越した頭脳を発揮していた。


「三番テーブルの追加注文、五分後! レオ、あなたは七番テーブルの片付けを! フィーリア、ハーブの補充、急いで!」


 その的確な指示が、押し寄せる客の波を、完璧に捌いていく。

 そして、このカフェの人気の秘密は、フィーリアが淹れるハーブティーだった。

 彼女が、一杯一杯、心を込めてブレンドしたハーブティーは、「飲むと心が安らぐ」と、生徒たちの間で瞬く間に大評判となったのだ。彼女がカウンターに立つだけで、その周りには、自然と穏やかで、優しい空気が生まれる。


 リアンは、そんな仲間たちの中心で、ホールと厨房の間を動き回りながら、全体の状況を把握していた。

 アレスとの過酷な訓練で培われた観察眼と、極限状況での判断力が、今、思わぬ形で発揮されていた。


「レオ、あっちのテーブル、水が空だ! フォロー頼む!」

「リナ、Aセットのクッキー、在庫があと五つだ! Bセットに切り替える準備を!」

「フィーリア、新しい客だ! 多分、君のハーブティーが目当てだぞ!」


 彼の的確な指示が、潤滑油のように店全体を回していく。

 四人はもはや言葉を交わさずとも、互いの視線だけで、次に何をすべきかを理解し合っていた。それは、まるで一つの生命体のような完璧な連携。進級試験の時とは比べ物にならない、確かな絆がそこにはあった。


 一度だけ、カイが取り巻きを連れて、客として現れた。

 彼は見違えるように立ち回るリアンの姿を見て、面白くなさそうに眉をひそめた。


「フン…出来損ないが、祭りではしゃいでいるか。せいぜい、今のうちに楽しんでおくことだな」


 以前のリアンなら、その一言で心を乱されていただろう。

 しかし、彼は穏やかな笑みさえ浮かべて、完璧な接客態度で応じた。


「いらっしゃいませ、カイ。ご注文は?」


 その動じない姿に、カイは一瞬言葉を失い、忌々しげに舌打ちをして去っていった。

 リアンは、自分の心の中に、確かな強さが芽生えているのを感じていた。



 やがて、狂騒のような一日が終わり、空が燃えるようなオレンジ色から、深い、吸い込まれるような紫へと、その色を刻一刻と変えていく。一番星が、遠慮がちに瞬き始めた。

 カフェの片付けを終えたリアンとフィーリアは、二人きりで、夕暮れの中庭のテラス席に腰を下ろしていた。

 昼間の喧騒が嘘のような静けさの中で、遠くから、夜のダンスパーティの準備をする楽団の、音合わせの音色が微かに聞こえてくる。


「…なんだか、夢みたいだな」

 リアンが、ぽつりと呟いた。

「今日のことも、昨日のことも。俺、お前に、ひどいことしたのに…」

「もう、いいんです」

 フィーリアは、静かに首を振った。

「あなたが、戻ってきてくれた。それだけで、私は…」


 その言葉は、彼女の心の真実だった。しかし、その裏には、決して彼に告げることのできない、暗い秘密が隠されている。


 あなたが歩む道の先に待つ、あの残酷な「代償」を知ってしまったから。だから、こうして隣りにいられる、この束の間の時間が、私にとっては宝物なのです。

 彼女は込み上げる涙を、笑顔の仮面で必死に押し隠した。


「なあ、フィーリア」

 リアンは、そんな彼女の心の痛みにも気付かず、少し照れたように、未来の話を始めた。

「学園を卒業したらさ…村に、帰らないか」

「…村へ?」

「ああ。俺、親父の跡を継いで、鍛冶屋になるよ。あんまり儲からないかもしれないけどな」

 彼は、悪戯っぽく笑った。

「お前は…そうだな、薬草に詳しいから、村で小さなハーブティーの店を開くんだ。俺が作った鋤で、お前が店の裏に小さな畑を耕して、ハーブを育てる。俺は、仕事が終わったら毎日、お前の淹れたお茶を飲みにいくんだ。…なんてな」

 それは、彼が描くことのできる、最も素朴で、最も幸福な未来図だった。


 その言葉を聞いた瞬間、フィーリアの心は、歓喜と、ナイフで抉られるような激痛で、張り裂けそうになった。

 彼が語る未来。そこに、自分はいない。

 自分が、その未来を、彼の幸せを、守るために、消えていく運命なのだから。

(ああ…神様。なんて、素敵な夢なのでしょう。もし、許されるのなら…あなたと共に、そんな未来を、生きてみたかった…)


 彼女は唇を強く噛み締め、溢れ出しそうになる涙を、魂の力で押しとどめた。そして、人生で一番美しく、最も悲痛な笑顔を作って、彼に向き直った。

「素敵ですね、リアン。そのお店ができたら、私、毎日通ってしまいます。あなたが作った農具も、きっと、世界一ですよ」

 彼女は、決して叶わない彼の夢を、全力で肯定する。それこそが彼に与えられる、彼女の最後の愛の形だった。


「本当か! よかった…」

 リアンは、彼女の言葉に、心の底から安堵し、子供のようにはしゃいだ。彼は、フィーリアの笑顔の裏に隠された、悲壮な覚悟の深さに、まだ気付くことはない。


 その時、夜のパーティの始まりを告げる、華やかな鐘の音が、学園中に鳴り響いた。

「…さあ、行こうか」

 リアンは立ち上がると、フィーリアに手を差し伸べた。

「約束、だからな」


「…はい」

 フィーリアは、その大きな手を取った。その温もりが、彼女の心を幸せで満たすと同時に、これから自分が失うものの大きさを、無慈悲に教えてくる。


 二人は、手を取り合ったまま、光と音楽に満ちた、ダンスパーティの会場へと歩き出す。

 これが、永遠の別れへと続く、最後のワルツの始まりであることを、知らぬままに。



 その日の夜、魔封学園「暁の境界」は、地上に降りた天の川だった。

「星詠みの夜祭」のクライマックス。中庭に灯された何百もの魔法の光球が、大小様々な色合いで、吐息のようにゆっくりと明滅している。それは、まるで生徒たちの高揚した心の鼓動と、静かにシンクロしているかのようだった。中央の噴水は七色にライトアップされ、その水しぶきが夜風に舞い、きらめきながら地に落ちる様は、まるで星の涙が降り注いでいるかのようだ。

 学園の楽団が奏でる、優雅で、どこか切ないワルツの旋律。チェロの低音が胸の奥に響き、ヴァイオリンの甘い高音が心を締め付ける。夜にだけ咲くという月光花ルナリアの甘い香りと、振る舞われるフルーツカクテルの爽やかな香りが、ひんやりとした夜気の中で混じり合っていた。


 リアン・アークライトは、その全てを、まるで夢を見ているかのような心地で眺めていた。

 そして彼の視線の先、その全ての光を集めて輝く中心に、一人の少女が立っていた。


 フィーリア・クレセント。


 彼女は、夜明け前の、最も深い空の色を映したかのような、瑠璃色のシルクのドレスをその身に纏っていた。星屑のように、銀糸の繊細な刺繍が、彼女が動くたびにきらきらと光を反射し、そのスカートの裾には、忘れ去られた古代の星座が、ひっそりと描かれている。

 普段は清楚に結い上げられている銀髪は、今夜は柔らかなウェーブを描いて下ろされ、月光を浴びて、とろりとした白金の光沢を放っていた。

 だが、リアンの視線を何よりも奪ったのは、彼女の足元だった。

 ガラス細工のように繊細な、銀色の小さなダンスシューズ。月光を受けて、彼女の歩みに合わせて、床の光を拾っては、星の涙のように、はかなくきらめく。

 今夜のために、彼女がどれほど心を込めて準備をしてくれたのかが、痛いほどに伝わってくる。


 リアンの視線に気づいた彼女が、こちらへ向き直り、小さく微笑む。

 その瞬間、リアンの世界から音が消えた。

 楽団のワルツも、生徒たちの楽しげな喧騒も、全てが遠くに聞こえる。彼の視界では、フィーリア以外の全てのものが、色を失い、ゆっくりと流れる時の残像と化していた。

 もし神様がいるのなら、どうかこの時間だけを止めてほしい。

 この光景を、彼女の姿を、永遠にこの網膜に焼き付けておきたい。

 彼は、息をすることさえ忘れ、ただ切実にそう願っていた。


「おー! 二人とも、いい感じじゃねえか!」

 レオの快活な声が、リアンを現実へと引き戻した。

「まったく、手のかかる二人ね。せいぜい、今夜の主役の邪魔はしないでちょうだい」

 礼服に身を包んだレオと、深い青のドレスを纏ったリナが、からかうように笑っている。その日常の光景が、リアンにはかけがえのない宝物のように思えた。


 レオに捕まって、今日のカフェの売り上げがいかにすごかったかを、身振り手振りで聞かされている間も、リアンの意識の半分は、常にフィーリアの姿を追っていた。

 ふと、彼女がリナと話していた輪から、そっと離れていくのが見えた。少しだけ顔色が悪いような気がする。


「…悪い、レオ。ちょっと飲み物を取ってくる」


 リアンは、仲間たちに断りを入れると、彼女の銀髪の後ろ姿を追った。人ごみをかき分けるうちに、焦燥感が募る。彼女が、カイにでも捕まっていなければいいが。


 しかし、彼女が向かった先は、カイがいるような華やかな場所ではなかった。

 会場の喧騒から隔離された、月桂樹の柱が並んだ薄暗い回廊の陰。月明かりだけが、ステンドグラスを通して、床にモザイク模様を描き出している、静かな場所。

 そこに、フィーリアはいた。

 そして彼女と向かい合って立つ、もう一つの人影。

 その黒衣の姿を認めた瞬間、リアンの心臓が、氷の塊となって、胃の底に落ちた。


 アレスだった。


 リアンは、咄嗟に近くの柱の影に身を隠した。息を殺し、耳を澄ます。

 知りたい。知りたくない。

 二つの感情が、彼の心の中で激しくせめぎ合う。それでも、彼の足はまるで自分の意志とは無関係に、二人の会話が聞こえる距離まで、音もなく彼を運んでいた。


「――本当に、それでいいのか、フィーリア」

 アレスの声が、静寂を切り裂いた。それは、これまでリアンが聞いてきたどの声よりも、深く、痛切な響きを持っていた。

「今ならまだ、引き返せる。たとえリアンが生き残ったとしても、フィーリア、お前を失って生き地獄を味わうことになる」


(…俺が、生き地獄…?)

 リアンには、その言葉の意味が、何一つ理解できなかった。


「いいえ、アレス。あなたは間違っています」

 フィーリアの声は、か細く震えていた。だがその中には、決して折れることのない、鋼のような光が宿っていた。

「リアンは、そんなに弱くはありません。私がいなくなったとしても、彼にはレオさんがいて、リナさんがいて…そして、彼が守ろうとしている、この温かい世界がある。リアンはきっと、暗闇の先にある本当の暁を、その手で見つけてくれます」

(いなくなる…? フィーリアが…?)


「…それが、お前の選択か」

 アレスの声には、絶望と、諦観が滲んでいた。

「俺はまた、二度目の過ちを…」


「過ちではありません」

 フィーリアは、きっぱりと言い切った。

「あれは、あなたがリアンを守るために選んだ、唯一の道。そして今度は、私があなたを…リアンを苦しみから解放します。これが、私の愛ですから」


 理解できない言葉の応酬。

 だが、リアンの魂は、その会話の奥底にある、恐ろしい真実の輪郭を、本能的に感じ取っていた。

 フィーリアが、何かとてつもない覚悟を決め、自分から「いなくなる」ことを選ぼうとしていること。

 そしてアレスが、その中心に、深く、深く関わっていること。


 彼の頭を、嫉妬や疑念が嵐のように吹き荒れる。だが、それを打ち消したのは、昨夜の、涙ながらの彼女の笑顔だった。

『おかえりなさい、リアン』。

 あの言葉が、嘘であるはずがない。


(違う…)

 リアンは、柱の陰で、固く拳を握り締めた。

(俺は、フィーリアを信じるって、決めたんだ。彼女が俺を裏切るはずがない。この会話には、俺の知らない、何か深い、深い理由があるはずだ…)

 今は、それを問いただす時じゃない。彼女を、信じよう。

 彼は、その場から音もなく後ずさると、何も見なかったかのように、仲間たちのいる、光の輪の中へと戻っていった。

 それでも、彼の心には、決して消えることのない巨大な疑問符と、フィーリアを失うかもしれないという、漠然とした、しかし確かな恐怖が、冷たい楔となって、深く、深く、打ち込まれていた。


 アレスが闇に消え、フィーリアが一人、柱の陰から光の輪へと戻ってくる。

 リアンは、彼女の表情に息を呑んだ。先程までの、アレスと対峙していた時の悲壮な覚悟は、その面影もない。まるで何か重い荷物を下ろし、憑き物が落ちたかのように、その顔には不思議なほどの静けさと穏やかさが湛えられていた。

 リアンは、その変化の理由が分からず、ただ戸惑うばかりだった。


 そんなフィーリアの前に、まるでその瞬間を狙いすましていたかのように、一人の男が立ちはだかった。

 カイ・ヴォルファードだった。

 彼は、学園一の天才である自分が、当然のように彼女と踊れると信じて疑わない、完璧な笑みを浮かべていた。周囲の生徒たちも、息を呑んでその光景を見守っている。誰もが、学園の頂点に立つ二人が、今宵の最初のワルツを踊るものだと確信していた。


「フィーリア」

 彼の声は、自信に満ち、夜会の主役たる者の、甘く、そして抗いがたい響きを持っていた。

「今宵、君の最初のワルツを、この僕に捧げる栄誉を与えよう」

 彼は舞台役者のように、恭しく手を差し伸べる。その金色の瞳は、勝利を確信して輝いていた。


 しかし、フィーリアは、その手を取らなかった。

 彼女は、カイを真っ直ぐに見つめた。その青い瞳の奥で、一瞬だけ、深い憐れみのような光が揺らめいたのを、リアンは目にしたような気がした。

 彼女は、静かに、しかし、きっぱりと首を振った。

「申し訳ありません、カイ様。私の最初のダンスは、もう、心に決めた方がおりますので」

 その声には、微塵の迷いもなかった。

 彼女は、呆然と固まるカイの横を、まるで彼が存在しないかのようにすり抜けると、まっすぐに、仲間たちの輪の中にいるリアンの元へと、その銀色の靴を鳴らして歩いてきた。


 その瞬間、カイの中で、時間が、止まった。

 周囲のざわめきが遠のき、楽団の奏でる優雅なワルツも、彼の耳には届かない。ただ自分のプライドが、一点の曇りもない完璧な水晶のグラスが、石畳に叩きつけられて粉々に砕け散る、甲高い音だけが、頭蓋の内側で、いつまでも、いつまでも響いていた。

 スローモーションのように、フィーリアがリアンの元へ向かう背中が見える。

 自分に向けられる、周囲の生徒たちの、驚き、嘲笑、憐れみ、好奇心――それら無数の視線が、無数の槍となって、彼の全身に突き刺さる。

 耳元で、幻聴のように、他の生徒たちのひそひそ笑う声が聞こえた。

『カイ様が、振られた…?』

『相手は、あのアークライトの出来損ない…?』

 頬が、屈辱で燃えるように熱い。差し出したままの自分の手が、行き場をなくして、わなわなと震えている。

 拒絶された? この僕が? なぜ? どうして? 才能も、努力も、家柄も、全て僕が上のはずだ。なのに、なぜ、あの男なのだ…!

 信じられないという驚愕は、やがて、沸騰するような怒りへ、そして、全てを失ったかのような、冷たい、冷たい絶望へと変わっていった。


 その、感情が空っぽになった心の隙間に、深淵からの声が、もはや抗いがたい運命の宣告のように、明確に、そして優しく響いた。

『見ろ。世界はお前を認めない。お前の価値を理解しない。ならば、世界そのものを、お前のためのものに変えてしまえ。お前こそが、王なのだから…』


 カイは、憎悪に燃える瞳で、これから踊ろうとするリアンとフィーリアの背中を、ひたすらに睨みつけていた。

 そして、彼は静かに踵を返し、祝福の光が届かない、学園の最も深い闇の中へと、その姿を消していった。



 ワルツが、最も美しいメロディを奏で始める。

 リアンは、フィーリアをダンスの輪の中央へと導いた。

 ステップを踏むたびに揺れる、彼女の瑠璃色のドレスの裾が、星屑を撒き散らすようにきらめく。二人は、まるで一つの魂のように、音楽と、夜と、そして無数の星々の光と一体になっていく。

 リアンの目には、もうフィーリアしか映っていなかった。彼女の笑顔、潤んだ青い瞳、少しだけ赤らんだ頬。その全てが、愛おしくて、たまらない。

(ああ、俺は、この瞬間のために生まれてきたんだ。この笑顔を守れるなら、なんだってできる。このダンスが終わったら、伝えよう。俺の、本当の気持ちを)


 曲がクライマックスを迎え、そして静かに終わりを告げる。二人は見つめ合ったまま、動きを止めた。世界の全てが、二人のためだけに存在しているかのような、永遠にも似た一瞬。

 リアンは、意を決して、口を開いた。


「フィーリア、俺――」


 彼が、その先の言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間。


 ゴオオオオオオオオオオオンン……!


 祝福のファンファーレではない。

 世界の終わりを告げるような、重く、不吉な鐘の音が、夜空を引き裂いて、学園中に鳴り響いた。

 それは、学園のシンボルである中央時計塔から発せられていた。地獄の底から響いてくるような、腹の底を揺さぶる、忌まわしい音。


 次の瞬間、大地が、吠えた。

 足元から、内臓を直接揺さぶるような、激しい振動が突き上げる。生徒たちの優雅なステップは悲鳴に変わり、あちこちでグラスの割れる甲高い音が響き渡った。

 中庭を幻想的に照らしていた何百もの魔法の光球が、一斉に激しく明滅し、やがて、全てが血のような不吉な赤黒い色へと変色する。

 楽しげな音楽は止み、人々の笑い声は、恐怖と混乱の叫びに変わった。


「な、なんだ…!?」

 レオが、戦闘態勢を取りながら叫ぶ。

「時計塔よ…! 魔力の流れが、逆流している…! あり得ない!」

 リナの顔から、いつもの冷静さが消え、蒼白になっている。


 リアンは、咄嗟にフィーリアを庇うように、その華奢な身体を強く抱き締めた。彼女の身体が、小刻みに震えているのが伝わってくる。

 見上げた時計塔の文字盤が、今や魔王の目のように、禍々しい深紅の光を放っていた。


 それは、五百年の永きにわたる封印が、完全に破られた音だった。

 そして、世界の悲鳴を産声として。

 魔王は、復活した。

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