第七話 再会
リアンがアレスとの修練を重ねているうちに、季節は盛夏を過ぎ、学園に来て二度目の秋を迎えようとしていた。
学園は、年に一度の「星詠みの夜祭」の準備で、日に日にその華やかさを増していく。教室の窓には色とりどりの切り紙が飾られ、廊下を歩けば、生徒たちの楽しげな笑い声と、木材を叩く音、楽器の練習の音が、どこからともなく聞こえてくる。
その浮き立つような空気の中で、リアンの時間は、まるで分厚い氷の中に閉じ込められたかのように、冷たく静かに停滞していた。
リアンの変化は、誰の目にも明らかだった。
痩せたが、その身体つきは無駄なく引き締まり、制服の上からでも、彼が血の滲むような鍛錬を積んでいることが窺えた。目の下の深い隈、そして、かつての人の好さそうな光を失い、鋼のように鋭くなった翠色の瞳。彼は仲間たちとの間に、自ら見えない壁を築き上げていた。
「おい、リアン。最近付き合い悪いじゃねえか。カフェの準備、少しくらい手伝えよな!」
食堂で一人、食事をかき込む彼の元に、レオがやって来た。その快活な声も、今のリアンには届かない。
「…悪い。俺はいい。お前たちでやってくれ」
「そういうわけにはいかねえだろ! クラス全員参加なんだぜ!」
「……」
リアンは何も答えず、空になった皿を持って、無言で立ち去った。残されたレオは、どうしようもないといった顔で、その背中を見送るしかなかった。
その日の放課後。クラスの出し物であるカフェの準備で賑わう教室の隅で、リナは静かにレオに告げた。
「このままでは、リアンだけじゃない。フィーリアも壊れてしまうわ」
「どういうことだよ?」
「最近の彼女、どこかおかしいと思わない? いつも上の空で、夜になると、一人でどこかへ出かけていく。…昨日、わたし、見てしまったの。彼女が、大図書館の『禁書庫』の周辺を、何かに取り憑かれたみたいに彷徨っているのを…」
リナの言葉に、レオは息を呑んだ。禁書庫――そこに収められているのが、世界の根幹に関わる、決して触れてはならない知識であることは、入学したばかりの一年生でも知っている。
「リアンは、強さへの焦りから周りが見えなくなっている。フィーリアはそんな彼を想うあまり、危険な道に足を踏み入れようとしている。どちらも、もう一人では止められないところまで来ているのよ」
リナは、決意を秘めた目でレオを見つめた。
「だから、わたしたちが無理やりにでも、彼らを引き戻す」
リナの策は、単純かつ強引だった。
翌日、教室の掲示板に貼り出されたカフェの責任者リスト。そこには、彼女の几帳面な字で、「リアン・アークライト」「フィーリア・クレセント」と、二人の名前が並んで書き出されていた。
放課後の教室は、木材の匂いと、ペンキの甘い香りで満たされていた。
リアンとフィーリアは、その中心で、ぎこちない沈黙の中にいた。仲間たちの策謀により、彼らは否応なく、二人きりで作業を進めなければならなくなっていたのだ。
「…そこの板、取ってくれるか」
「…はい」
「釘は、そこでいい」
「…分かりました」
事務的な会話だけが、二人の間を行き交う。その距離は、すぐそこにいるのに、世界の果てよりも遠く感じられた。
そのときだった。飾り付けのために脚立に上っていたフィーリアの足が、ぐらり、と滑った。
「きゃっ…!」
リアンは、思考するより先に、その華奢な身体を抱きとめていた。彼の腕の中に、すっぽりと収まるフィーリア。ふわりと彼女の髪から、いつもと同じカモミールの優しい香りがした。
「だ、大丈夫か、フィーリア」
「は、はい…ありがとうございます…」
二人の指先が、偶然に触れ合う。その微かな温もりに、リアンは自分がどれほどこの温もりに飢えていたかを、痛いほど思い知らされた。
その小さなアクシデントが、凍りついていた二人の時間を、少しだけ溶かした。
その夜、誰もいなくなった教室で、二人は残った作業を続けていた。
「リアン、あなたの剣、最近、少し変わりましたね」
ペンキを塗りながら、フィーリアが不意に言った。
「振りが速くなったとか、そういうことではなくて…。迷いが、ない。まるで何かを振り払うかのように」
「……」
「あの…黒衣の方に、何を教わっているのですか?」
リアンは筆を置いた。アレスとの訓練を彼女に話すべきか。いや、話せない。あの地獄のような日々を、彼女に知られてはいけない。
しかしそのとき、彼の脳裏に、アレスの言葉が蘇った。
『お前のその剣は、誰かのために振るうことはできないのか?』
そうだ。俺は何のために、こんな地獄のような訓練に耐えているんだ。
魔王を倒すため? 世界を守るため? そんな綺麗事は、今の俺の心には響かない。
本当は、ただ、たった一人。
彼女に、追いつきたかった。彼女の隣りに、胸を張って立ちたかった。彼女が、誰かに脅かされることのないように、この手で守りたかった。
その、たった一つの願いのために、俺は、その彼女自身を一番傷つけている。
なんという、愚かな矛盾。
リアンは、目の前で心配そうに自分を見つめるフィーリアの姿を、改めて見た。
最後にちゃんと彼女の顔を見たのは、いつだっただろう。彼女の青い瞳の下には、隠しきれない隈が浮かび、その頬は、以前よりも少しだけ痩せてしまったように見える。
全て、自分のせいだ。
自分が彼女を突き放した日から、彼女はずっと、独りで苦しんでいたのだ。
その事実に、リアンの胸は張り裂けそうになった。もう、自分のちっぽけなプライドなど、どうでもよかった。ここで謝らなければ、彼女の心にかけられたこの呪いを解かなければ、俺は本当に全てを失ってしまう。
その日の夜、学園祭の準備を終えた教室は、まるで祭りの後のような、不思議な静寂に包まれていた。
窓から差し込む月明かりが、床に散らばった木屑や、絵の具の染みを、銀色の輪郭で縁取っている。ペンキと木材の匂いが残る空気の中に、遠くから聞こえてくる、他のクラスの生徒たちだろうか、明日の本番に向けた歌や楽器の練習の音が、微かな喧騒となって溶けていた。
リアンとフィーリアは、その教室の中心で、ただ二人きりで立ち尽くしていた。
日中の、仲間たちの策謀ともいえるお節介と、予期せぬトラブルを乗り越えるための共同作業。それらが、凍りついていた二人の間の時間を、無理やりに、しかし確かに動かし始めていた。
リアンはすぐそばに立つフィーリアの横顔を盗み見た。
月明かりに照らされた彼女の銀髪は、まるで溶けた白金のように輝き、青白いその頬は、以前よりも少しだけ痩せたように見えた。目の下にうっすらと浮かぶ隈。彼は、自分が彼女をどれほど苦しめていたかを、今更ながらに思い知らされる。
アレスとの地獄のような訓練。日に日に増していく力。しかし、その代償に失ったものは、あまりにも大きかった。
フィーリアの笑顔。仲間たちとの他愛ない会話。陽だまりのような、穏やかな日常。
強さとは、一体何なのだろう。
アレスは言った。『守るべきものなき強さに、意味はない』と。
「フィーリア…」
リアンは、ついに覚悟を決めて、口を開いた。声が、震えていた。
「あの時は…本当に、ごめん」
彼は、自分の弱さを全てさらけ出すように、言葉を続けた。
「俺は、ただ焦ってたんだ。カイにも、あの男にも、全然敵わなくて…。お前が信じてくれる『俺』に、俺自身がなれないことが、怖くて、辛くて…。だから、お前の優しさから、逃げたんだ。お前に、八つ当たりした。最低だ、俺は…」
俯く彼の視線の先で、フィーリアの肩が、小さく、か細く震えているのが見えた。
「お前を傷つけて…なのに、また、こうしてお前の優しさに甘えようとしてる…。本当に、ごめん…」
やはり、許されないのだ。そう思った瞬間、リアンの心は、深い絶望の淵へと沈んでいった。
しかし、フィーリアは、静かに首を振った。
そして、ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳から、堪えきれなかった大粒の涙が、一筋、また一筋と、その白い頬を伝って流れ落ちた。
その涙を見て、リアンは息を呑んだ。
だが、その涙の意味を、彼はまだ知らない。
リアンに拒絶されてからの日々。彼女は、ただ悲しみに暮れていたわけではなかった。
独り、図書館の奥深くで古文書をめくり、彼女は、輝かしい英雄譚の裏に隠された、不気味な影の存在に気付いていた。聖剣を抜いた勇者たちの、あまりにも早すぎる失踪。
完全に理解したわけではない。しかし、確信に近い予感があった。リアンが歩む道の先に、何らかの恐ろしい代償が待ち受けていることを。
フィーリアは、そんなリアンをどうすれば救い出せるのか、出口のない迷路を彷徨っていたのだった。
だから、リアンの謝罪は、彼女にとって、暗闇の中で差し伸べられた、唯一の手だった。
凍てついていた心が、彼の不器用な言葉で、ゆっくりとではあるが、確かに溶かされていく。
ああ、この人は、まだ私を見てくれている。私のことを、想ってくれている。
その純粋な喜びと安堵が、彼女の瞳から涙となって溢れ出た。
しかし、同時に、別の涙が込み上げてくる。
この幸福な時間は、偽りなのだ。この和解は、束の間。この恐ろしい予感を、私はあなたに隠したまま笑おうとしている。その罪悪感が、悲しみが、彼女の胸を締め付け、後から後から涙となって溢れ出す。
フィーリアは、その全ての感情を隠すように、人生で一番美しい、そして最も悲しい笑顔をリアンに向けた。
涙に濡れたまま、花が綻ぶように、彼女は微笑んだ。
「…おかえりなさい、リアン」
その一言に、全ての想いが込められていた。
リアンが戻ってきてくれたことへの、心の底からの感謝。
彼を許すという、絶対的な受容。
そして、これから始まる悲劇への、別れの挨拶にも似た、痛切な響き。
リアンは、彼女の涙の本当の意味に気付かない。フィーリアの笑顔に、彼女が自分を許してくれたのだと、魂ごと救われたのだと感じた。
彼は、衝動のままに、彼女の華奢な体を、そっと、だが力強く抱き締めた。
腕の中にすっぽりと収まる、フィーリアの温もり。髪から香る、懐かしいカモミールの匂い。彼女の肩が、まだ小さく震えている。
彼は、その全てが、自分のせいなのだと感じた。そして強烈な愛おしさと、二度とこの存在を傷つけないと誓う、激しい思いが彼の全身を貫いた。
(もう二度と、この笑顔を曇らせない)
リアンは、心の中で、血の滲むような声で誓った。
(この手を、絶対に離さない。そのために、俺はどんな修羅の道でも歩いてみせる。必ず、お前を守れるくらい、強くなるから――)
長い抱擁の後、二人はゆっくりと体を離した。
その顔には、まだぎこちなさが残っている。でもその瞳は、確かに、以前のように優しくお互いを映し出していた。
「あの…」
リアンは、照れながら切り出す。
「明日の、ダンスパーティ…もし、よかったら…」
「…はい」
リアンが言い終わる前に、フィーリアは、涙の跡が残る顔で、幸せそうに頷く。
それは、偽りの上に成り立つ、あまりにも儚く、そして美しい束の間の約束だった。