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第六話 雪辱

 単身、禁忌の森に乗り込み、黒衣の男アレスに命を救われたあの日から、リアン・アークライトの世界は、その色合いを完全に変えた。

 季節は初夏へと移ろい、じりじりと肌を焼く太陽が、忘れ去られた修練場の石畳を熱していた。学園に溢れる生命力に満ちた喧騒も、今の彼には遠い世界の音のようにしか聞こえない。彼の日常は、ただひたすらに剣を振るう音と、汗と土の匂い、そしてアレスという男が発する氷のような殺気だけで構成されるようになっていた。


 地獄のような日々だった。

 だがそれは同時に、絶望だけを意味するものではなかった。

 アレスの指導は、常軌を逸していた。リアンが防御の型を完成させる前に、その構えの僅かな重心のブレを、木の枝で精確に打ち据える。リアンが闘気を剣に纏わせようとすれば、そのエーテルの流れが最適化されるより早く、足元の小石を蹴り飛ばして集中を乱す。それは、単なるしごきではない。リアンの思考の癖、身体の使い方、その全てを完全に見抜いた上で、彼が成長するために必要な、最も効率的で、最も残酷な道筋だった。


 最初の数日は、ただ打ちのめされるだけだった。しかし半月が経つ頃には、リアンの中に確かな変化が芽生え始めていた。

 剣の柄にできたマメが潰れ、血が滲み、やがて硬い皮膚へと変わっていく。その感触が、彼の努力を証明していた。以前は聞き取ることさえできなかったアレスの剣の風切り音が、今は鋭い「線」として、その軌道を予測できる瞬間がある。彼自身の剣が弾かれる音も、かつての鈍い衝撃音から、火花を散らす甲高い金属音へと変わっていた。それは、彼がアレスの攻撃をただ受けるのではなく、受け流せるようになってきた証だった。


「…らぁっ!」

 その日、リアンはアレスの振り下ろす剣に対し、咄嗟に足元の土くれを魔法で硬化させ、蹴り上げた。初歩的な土魔法「ロック・ショット」。目くらましにもならない、児戯のような攻撃。

 だがアレスは初めて、その動きに「フン」と鼻を鳴らした。

「…少しは骨が出てきたか。だが、小細工に頼るな。力の奔流は、力の奔流で制してこそ、次が見える」


 アレスは、リアンのロック・ショットを、こともなげに剣の柄で粉砕すると、さらに苛烈な猛攻を仕掛けてきた。

 リアンはその言葉の意味を、身をもって理解した。彼の身体は、無数の痣と切り傷に覆われていく。しかしその魂は、かつてないほどの充実感に満たされていた。強くなっている。昨日よりも、一時間前の自分よりも、確かに。その実感が、彼を支える唯一の糧だった。


 だが、その代償は、決して小さくはなかった。

 肉体的な成長とは裏腹に、彼の心は仲間たちから急速に孤立していった。


 食堂で食事をとる彼の姿は、痛々しいほどに孤独だった。痩せたが、その身体つきは無駄なく引き締まり、目の下には深い隈が刻まれている。その瞳はもはや「出来損ない」と蔑まれていた頃の、おどおどとした光ではなく、他者を寄せ付けない鋼のような鋭さを宿していた。


「おい、リアン。最近すげえな! 何か掴んだのか?」

 レオが、これまでのように屈託なく声をかけてきても、リアンは「…まあな」と素っ気なく答えるだけだった。アレスとの訓練のことは、誰にも話せなかった。いや、話したくなかった。あれは自分だけの聖域であり、地獄だったからだ。


「あなたのエーテルの流れ…以前とは質が違うわ。あまりにも攻撃的で、不安定。一体、どんな訓練を…」

 リナの分析的な視線からも、彼は逃げるように目を逸らした。


 そして、フィーリアとは。

 廊下ですれ違うたび、彼女の足が、時が、止まる。何かを言いたげに、その美しい青い瞳を潤ませ、唇をか細く震わせる。しかし彼女が声をかける前に、リアンは壁を作るように、無言で彼女の横を通り過ぎてしまう。

 彼女の顔をまともに見ることができなかった。彼女の優しさに触れてしまえば、この地獄のような日々を耐え抜くための、なけなしの覚悟が鈍ってしまうと、本能的に恐れていたのだ。


 そんなある日の夕暮れ。

 その日の訓練も、リアンが泥の中に倒れ伏し、指一本動かせなくなったことで、ようやく終わりを告げた。

「…今日は、ここまでだ」

 アレスはいつも通りそう告げると、リアンに背を向け、立ち去ろうとして、ふと立ち止まる。


「お前のその剣は、誰かのために振るうことはできないのか?」

 いつも冷徹なアレスの声に、リアンには到底推し量れないほどの、深く重苦しい感情の迸りを感じる。

「お前は、単に強さを追い求めているだけだ。しかし、守るべきものなき強さに、意味はない」


 その言葉は、リアンの心の最も柔らかな部分を、容赦なく抉り取った。


 守るべきもの。


 脳裏に浮かんだのは、ただ一人。月明かりのように静かに微笑む、銀髪の少女の姿だった。

 しかし、その彼女を、自分自身の手で突き放したのは、誰でもない。この俺だ。

「…っ」

 何かを言い返そうとして、言葉に詰まる。お前に何が分かる、と叫びたかった。だが、アレスの言う通りだった。今の自分は、ただ闇雲に力を求め、その理由さえも見失いかけている。悔しさと、もどかしさと、あまつさえ図星を突かれた己の未熟さに、リアンはひたすら唇を強く噛み締めることしかできなかった。


 アレスは、そんな彼の葛藤を見透かしたように、それ以上は何も言わなかった。静かにリアンに背を向けると、その黒衣を夕闇に溶かすように、音もなく修練場を後にした。


(待て…)

 リアンの心に、いつもの疑念が湧き上がる。

(こいつは、一体何者なんだ。毎日、どこから現れて、どこへ消えていくんだ…?)

 彼は、残った最後の力を振り絞り、音を殺して立ち上がると、アレスの後をつけた。彼の正体を、その目的を、この目で確かめずにはいられなかった。


 アレスが向かった先は、大図書館の裏手にある、今はもう誰も使わない、忘れられた中庭だった。月桂樹の木々がアーチを作り、中央には苔むした小さな噴水があるだけの静かな場所。

 月明かりが、その場所を銀色に染め上げていた。

 リアンは、咄嗟に近くの柱の影に身を隠した。息を殺し、中庭の様子を窺う。


 アレスは噴水の縁に腰掛け、一人で空を見上げていた。

 その静かな光景にリアンが拍子抜けしかけた、そのとき。

 月桂樹の木陰から、一人の少女がそっと姿を現した。

 銀色の、長い髪。

 その姿を認めた瞬間、リアンの心臓は氷の手に掴まれたように、強く、痛く、締め付けられた。


 フィーリアだった。


 なぜ。どうして、彼女がここに。

 リアンの頭は、混乱で真っ白になった。

 二人の座る位置はやや距離があり、会話の内容までは聞こえない。ただアレスの低く抑えた声と、フィーリアの凛とした声の断片が、夜の冷たい風に乗って、断続的に届くだけだった。深刻そうに何かを語るアレス。それに対し、毅然と、しかし悲しげに首を振るフィーリア。


 その光景が、リアンの目にどう映ったか。

 それは、あまりにも残酷な、一つの結論だった。

(俺の知らないところで、二人は…)

(フィーリアは、もう、俺のことなんか…)

(俺よりも、強くて、謎めいた、あの男の方を…)


 違う。そうではないはずだ。彼女がそんなことをするはずがない。

 頭では分かっている。彼女を拒絶したのは、自分自身なのだから。

 それなのに、胸の奥で、醜く、黒い感情が、とぐろを巻いていく。

 アレスへの、圧倒的な実力差からくる焦燥。

 そして、そんな風に考えてしまう、自分自身への激しい嫌悪。


 全ての原因は、たった一つ。

(俺が、弱いからだ…)


 俺が、アレスくらい強ければ。

 俺が、彼女の隣りに、堂々と立つことができたなら。

 こんな、惨めな思いはしなくて済んだのに。

 彼の感情の矛先は、まっすぐに自分自身の不甲斐なさと、彼女の隣りに立つあの男へと向けられた。


 リアンは、その場から音もなく立ち去った。

 彼は、寮には戻らなかった。向かった先は、先程まで地獄の訓練をしていた、忘れ去られた修練場。

 月明かりだけが、彼の姿を青白く照らし出していた。


 彼は、狂ったように剣を振るい始めた。

 アレスに教わった型を、何度も、何度も、血反吐を吐くまで繰り返す。

 一振り、また一振り。

 彼の心にあるのは、暗く、しかし純粋な願いだけだった。


 もっと、強く。


 フィーリアを守るために。

 彼女の隣りに立つ資格を得るために。

 そして、アレスという、巨大な壁を超えるために。


 彼の瞳には、もう迷いはなかった。ただ前だけを見据える、修羅の光が宿っていた。

 その歪んだ決意が、皮肉にも彼の内に眠る紋章の力を、さらなる覚醒へと導いていくことを、このときの彼はまだ知らない。

 闇の中で、少年は英雄ではなく、ひたすらに力を求める、孤独な求道者となっていた。



 リアンがアレスとの地獄のような訓練に身を投じてから、三月みつきが過ぎようとしていた。

 その変化を、最も敏感に、そして最も不快に感じ取っていた男がいる。

 カイ・ヴォルファードだった。

 修練場の片隅で、日に日にその剣筋を鋭くしていくリアンの姿を、彼は苦々しい思いで眺めていた。かつての「出来損ない」の面影は消え、その瞳には自分と同じ、あるいはそれ以上の、力を求める者の光が宿っている。

 その変化がカイのプライドを苛んだ。それは彼の心を、ある種の焦りへと駆り立てていた。かつてリアンが感じた焦りとは別の種類のものだったかもしれない。しかし、それが後に、彼に大胆な行動を取らせることになることを考えると、結局は禁忌の森に足を踏み入れたリアンと同質の結果をもたらしたのだった。


 リアンが、アレスとの修練の成果を試す機会は、学期末の実技評価を兼ねた、特別模擬戦の日に訪れた。

 教師が指名制の対戦カードを読み上げていく。生徒たちの間には、緊張と期待が入り混じった空気が流れていた。


「――最終組! リアン・アークライト対、カイ・ヴォルファード!」


 その名が告げられた瞬間、アリーナ全体が、大きくどよめいた。

 アレスと出会う前に模擬戦でカイと対峙したときは、圧倒的な公開処刑でしかなかった。その再現を期待する好奇の視線。しかしその中には、この三ヶ月間のリアンの変貌を知る者たちの、「もしかしたら」という微かな期待の光も混じっていた。


 リアンの心臓が、大きく跳ねた。

(まただ…。あの時と、同じ…)

 脳裏に、惨めな敗北の記憶が蘇る。

 だが、彼は、固く拳を握り締めると、その記憶を振り払った。いや、違う。今の俺は、あの時の俺じゃない!

 彼の隣りで、フィーリアが、祈るように両手を胸の前で組んでいる。その姿が、彼の魂に、闘志の炎を灯した。


 リングの中央で、二人は対峙する。

「少しはマシになったそうじゃないか、アークライト」

 カイの声は、いつものように傲慢だった。

「だが、思い上がるなよ。出来損ないがどれだけ足掻こうと、僕には決して届かないということを、もう一度その身体に教えてやる」

「…それはどうかな」

 リアンは、ただ静かにそう返した。


「始め!」

 号令と共に、カイが動いた。高速詠唱の「フレイムランス」。しかし、その威力も速度も、以前とは比較にならない。彼の焦りが、魔法をより攻撃的なものへと変質させていた。


 今のリアンは、もうあの時の彼ではなかった。

 アレスとの訓練で叩き込まれた体捌きと、極限まで研ぎ澄まされた動体視力が、炎の槍の軌道を、明確な「線」として捉える。彼は闘気を足裏で爆発させる「瞬動」の初歩を使い、最小限の動きで、その全てを回避した。熱波が彼の頬を撫で、制服の袖を焦がすが、致命傷には至らない。


「なっ…!?」

 カイの目に、初めて明確な驚愕の色が浮かんだ。自分の全力の魔法が、こうも簡単に見切られるなど、想像すらしていなかったのだ。


「調子に乗るなよ、この出来損ないが!」


 カイは、剣を抜き放ち、魔法と剣技を織り交ぜた嵐のような猛攻を仕掛けてくる。

 リアンは、アレスに叩き込まれた受け流しの技術で、その斬撃を、一枚、また一枚と、必死に、しかし確かに捌いていった。アリーナに、甲高い金属音が、火花と共に響き渡った。観客たちから、信じられないといったどよめきが、波のように広がっていく。


 焦ったのは、カイだった。

(なぜだ!? なぜ僕の剣が見える!? こいつは、ただの出来損ないのはず…!)


「これで、終わりだァァッ!」

 彼は、距離を取ると、自らのプライドを懸けた、最大級の攻撃魔法の詠唱を開始した。彼の紋章が、学園の空を不吉な赤色に染め上げるほどの、強大なエーテルを集束させていく。

 リアンは、その圧倒的な魔力の奔流を前に、死を覚悟した。

(ダメだ、防ぎきれない…!)


 仲間を守るためではない。ただ目の前の男に負けたくない。そして、見守ってくれる彼女の期待に応えたい。

 その一心で、彼の魂が絶叫した。

 その瞬間、リアンの右腕の紋章が、灼けるような熱を発し、眩い翠色の光を放った。

「分解」の刻印。

 それはまだ不完全で、制御不能の奔流。それでも、カイの作り出した炎の渦を打ち破るには、十分すぎた。


 リアンの剣先に宿った翠色の光が、カイの魔法障壁と炎の渦そのものを、まるで砂糖菓子のように、その構造から分解していく。

 それにあわせて、カウンターで放たれたリアンの一閃が、なすすべもなく立ち尽くすカイの剣を、高い金属音と共に弾き飛ばした。


 カラン、と。

 カイの愛剣が、石畳の上を虚しく転がる。


 アリーナは、水を打ったように静まり返った。

 カイは、信じられないという表情で、自分の空っぽになった手と、目の前で荒い息をつきながらも、確かに自分を見下ろすリアンの姿を、交互に見ていた。

 やがて、教師が、驚きを隠せない様子で、高らかに宣言した。

「…勝負あり! 勝者、リアン・アークライト!」


 その言葉を合図に、アリーナは爆発的な歓声と、地鳴りのような賞賛のどよめきに包まれた。

「出来損ない」に、この、学園中の生徒たちが見守る中で、完膚なきまでに、敗北した。

 彼の世界が、音を立てて崩壊する。

 周囲の歓声が、全て自分への嘲笑に聞こえた。


 カイは、勝者として仲間たちに囲まれ、フィーリアから優しい微笑みを向けられるリアンの姿を、憎悪に満ちた瞳で、その網膜に焼き付けた。何も言えずに、ただ屈辱に顔を歪ませると、その場から逃げるように走り去っていく。

 リアンは、その場に膝をついた。勝利したという実感よりも、意図せず発動してしまった制御不能の力への戸惑いと、エーテルを使い果たした虚脱感が、彼を支配していた。

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