第五話 アレス
最初に感じたのは、消毒薬の、つんと鼻をつく清潔な匂いだった。
次に、糊のきいた硬いシーツが肌に触れる感触。そして、誰かのひそやかな息遣いと、遠くで聞こえる時計塔の鐘の音。
リアンの意識は、深い、深い海の底から、ゆっくりと浮上してきた。
(…俺は、生きているのか…?)
最後に見た光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
闇よりも暗い、漆黒の獣。死を覚悟した自分。そして、全てを断ち切った、一筋の閃光。
『――死にたくなければ、思い出せ』
あの、魂に直接響くような、静かで、しかし絶対的な声。
「…ん」
リアンが微かに身じろぎをすると、すぐそばで「あっ」という小さな声がした。
ゆっくりと瞼を開ける。ぼやけた視界が、徐々に焦点を結んでいく。
そこにいたのは、彼のよく知る三つの顔だった。
「リアン! 目が覚めたのか!」
ベッドの脇に座っていたレオが、身を乗り出してきた。その顔には、安堵と、そして隠しきれない怒りの色が浮かんでいる。
「この大馬鹿野郎! お前、自分が何したか分かってんのか! 一歩間違えば、本当に死んでたんだぞ!」
彼の怒声は、親友を失うかもしれなかった恐怖の裏返しだと、リアンにも分かった。
「ご、めん…」
「あなたの行動は、あまりにも無謀で、非論理的だったわ」
リナが、腕を組んで、医務室の壁に寄りかかりながら冷ややかに言った。
「何の成果も得られない、ただの自殺行為よ。二度としないでちょうだい」
「…ああ」
リアンは、仲間たちの言葉に反論する気力もなかった。しかし、彼の心は、もうここにはなかった。彼の思考の全ては、自分を救った、あの謎の男のことで埋め尽くされていた。
(あれは、誰なんだ…? なぜ、俺を…?)
フィーリアは、何も言わなかった。ただ、濡らしたタオルを固く絞ると、リアンの額に滲んだ汗を、そっと拭ってくれた。その献身的な沈黙と、彼女から香るカモミールの匂いが、今のリアンには少しだけ息苦しかった。自分の不甲斐なさを、無言で責められているような気がしたからだ。
その時だった。
医務室の扉が、何の音もなく、滑るように開いた。
そこに立っていたのは、黒衣の男だった。
深いフードを目深に被り、その表情は窺い知れない。しかし、その圧倒的な存在感だけで、室内の空気が一瞬で凍りついた。
仲間たちは、その男が誰なのか分からず、警戒の色を露わにする。レオはリアンを守るように、ベッドの前に立ちはだかった。
しかし、黒衣の男は彼らには目もくれず、まっすぐにリアンのベッドへと歩み寄る。その足音は、まるで床に触れていないかのように静かだった。
「怪我は治ったようだな。立てるか?」
その口調は、森で聞いた時と同じ、氷のように冷たく、有無を言わさない響きを持っていた。
「あなたが…」
「俺がお前をここまで運んだ。治癒魔法の心得がある仲間がいて、幸運だったな」
男は、フィーリアに一瞥をくれただけだった。その瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
「俺が、お前を鍛え直してやる」
男は一方的に、宣告するように言った。
「あの森で、また獣の餌になりたくなければ、黙って俺についてこい」
「…!」
リアンは息を呑んだ。強くなれる。あの圧倒的な強さを、この人から学べる。その誘惑は、今の彼にとって、抗いがたいほどに甘美だった。
仲間たちが、何か言いたげにこちらを見ている。フィーリアの瞳が、不安げに揺れている。
それでもリアンは、まるで何かに取り憑かれたかのように、この男から目を離すことができなかった。
「お待ちください」
凛とした、微かな震えを帯びた声が、男の言葉を遮った。フィーリアだった。
彼女はリアンのベッドの前に進み出ると、小さな身体で、その男の前に立ちはだかった。
「あなたは一体何者ですか? リアンを、どこへ連れていくつもりですか」
その青い瞳は、恐怖に揺れながらも、決して逸らされなかった。
男はそんな彼女を、まるで道端の石でも見るかのように、無感動に見下ろした。フードの奥の翠色の瞳は、氷のように冷たい光を放っている。
「お前には、関係ない」
「関係なくありません! 彼は、私のかけがえのない…!」
「こいつは弱い」
男はフィーリアの言葉を、冷たく断ち切った。
「弱ければ死ぬ。ただ、それだけのことだ。俺は、こいつに死なない方法を教える。お前のような過保護な慰めは、鍛錬の邪魔になる。…失せろ」
その言葉は、フィーリアだけでなく、リアンの胸にも突き刺さった。
男は、正しい。俺は弱い。弱いままでは、フィーリアを守ることすらできない。カイの言葉が、脳裏をよぎる。『フィーリアの隣りに立つ資格など、君にはない』。
「ごめん、フィーリア」
リアンは、ベッドからゆっくりと身体を起こした。
「俺、行かなきゃならないんだ。強く、ならなきゃ…」
「リアン…!」
フィーリアの悲痛な声が、彼の背中に突き刺さる。
しかし、彼はもう振り返らなかった。強さへの渇望が、仲間たちの優しさや、フィーリアの想いさえも、今の彼には見えなくさせていた。
リアンは、自らの足で立ち上がり、男の後を追って医務室を出ていく。
残されたフィーリアは、自分の制止を振り切って去っていく彼の背中を、傷ついた表情で、ただ見送ることしかできなかった。
リアンが黒衣の男に連れてこられたのは、学園の裏手に広がる、忘れ去られた修練場だった。
かつては使われていたのだろう、石畳には苔が生え、訓練用の木偶人形は雨風に晒されて朽ちかけている。その廃墟のような場所に夕陽が長い影を落とし、華やかな学園の喧騒が、まるで別世界のように遠くから聞こえてきた。湿った土と錆びた鉄の匂いが、リアンの鼻腔をかすめる。
仲間たちのいる光の世界から、完全に切り離されたような孤独感。しかしそれ以上に、未知の領域に足を踏み入れたという、破滅的な高揚感が彼の心を支配していた。
「剣を抜け」
男は、それだけを言った。その声には、何の感情も乗っていない。
リアンが、言われるがままに剣を構えると、男はゆっくりと、自分の腰に差した黒い鞘の剣に手をかけた。
「お前の弱点は、力の制御ではない」
男は剣を抜き放ちながら、静かに告げた。
「死への覚悟の欠如だ。お前は本当の意味で、まだ一度も死線を越えていない。森で獣に嬲られたのが、お前の最初の死線だった。そして、お前は為すすべなく死を待った。違うか?」
「…っ!」
図星を突かれ、リアンは言葉に詰まる。
「教えてやる。本物の戦いというものを」
次の瞬間、男の姿がリアンの視界から消えた。
風を切る音すらなかった。ただ首筋に、氷のような殺気を感じただけだ。リアンは本能的に剣で首を庇う。
キィン!
耳をつんざくような甲高い金属音と共に、リアンの腕に凄まじい衝撃が走った。剣ごと体勢を吹き飛ばされ、無様に地面を転がる。
「…今ので終わりだった」
声は頭上からした。見上げると、男がいつの間にか彼の目の前に立って、静かに見下ろしている。
「敵は、お前が体勢を立て直すのを待ってはくれない」
リアンは歯を食いしばり、立ち上がった。
(剣だけじゃない。俺には、魔法がある!)
「《光よ、集え》――ライトアロー!」
彼は、最も詠唱の短い初歩的な光魔法を、牽制のために数発放つ。しかし、男は迫りくる光の矢を、歩きながら、まるで鬱陶しい虫でも払うかのように、指先一つで弾き飛ばした。光はあらぬ方向へ逸れ、虚しく石畳を穿つ。
「無意味だ。その程度の魔法では、俺の注意すら引けん」
ならば、とリアンは思考を切り替える。足止めだ。
「《大地の檻よ》――ロックウォール!」
男の足元から、土の壁が突き上げるように出現する。だが、男は壁が出現する、そのコンマ数秒前に、まるで未来でも見ていたかのように、その場からふわりと離脱していた。
(思考が、読まれてる…!?)
リアンは、全身に冷たい汗が噴き出すのを感じた。
「ならば、これならどうだ!」
彼は、闘気を足裏で爆発させて急加速し、死角に回り込む「瞬動」の型に、フェイントを織り交ぜた。右に動くと見せかけて、左へ。そして、懐へ潜り込むと同時に、剣を斬り上げる。進級試験でゴーレムを砕いた、あの奇跡の力を、思い出せ!
しかし、彼の渾身の斬り上げは、抜刀すらしていない男の黒い鞘によって、こともなげに受け止められていた。
「動きが単調すぎる。お前の視線が、次にお前が何をしたいかを全て教えてくれる」
鞘がわずかに捻られ、リアンの剣はあらぬ方向へと受け流される。がら空きになった胴体に、容赦のない蹴りが見舞われた。
「ぐ、はっ…!」
何度も地面に叩きつけられ、泥と汗と血にまみれる。肺は灼けるように痛み、全身の骨が軋む音がした。
彼のプライド、進級試験で得たはずの自信、仲間たちの前で見せた強がり、その全てが、この男の前では何の価値もないがらくただったと思い知らされる。
リアンは霞む視界の中で、ただ喘ぐことしかできない。もう立ち上がる気力さえも、奪われかけていた。
その時だった。
「リアン!」
修練場の入り口から、悲痛な声が響いた。フィーリアだった。
彼女は、まだ完全に回復していないリアンが一人で男を追いかけたのを見て、いてもたってもいられず、ここまで探しに来たのだ。その手には、回復薬の入った小瓶が固く握り締められている。
「今、治癒魔法を…!」
彼女が、リアンの元へ駆け寄ろうとした、その一歩を踏み出す前に。
音もなく、黒衣の男が彼女の眼前に立ちはだかった。
「来るな」
男の声は、冬の湖面のように静かで、冷たかった。
「ですが、彼が…! このままでは、手当てをしなければ!」
フィーリアは、懇願するように訴える。
「これは訓練だ」
男は、感情の欠片も見せずに言い放った。
「傷も、痛みも、恐怖も、全てがあいつを強くするための糧となる。お前の過保護な優しさは、その糧を腐らせる毒だ」
その言葉と共に、男はまるで邪魔な小石でも払うかのように、フィーリアの持つ回復薬の小瓶を指先で軽く弾いた。
パリンと澄んだ音を立てて、小瓶は石畳に叩きつけられ、緑色の液体が虚しく広がっていく。
「あ…」
「分かったら、失せろ。ここは、お前のような者がいていい場所ではない」
リアンは、倒れたまま、その光景を目の当たりにしていた。
自分のせいで。
俺が弱いから、フィーリアが見ず知らずの危険な男に脅されている。
彼女の優しさが、彼女の想いが、無残に踏みにじられている。
しかし今の自分には、彼女の前に立って、その肩を抱き、守ることすらできない。
悔しさが、無力さが、彼の心を、灼熱の炎となって焼いた。
(俺が、弱いからだ…!)
(俺が弱いから、フィーリアを危険に晒す。フィーリアを、泣かせる…!)
(強くならなきゃいけない。誰のためでもない。カイを見返すためでもない。フィーリアを、今度こそ、俺のこの手で守れるくらいに…!)
その魂からの叫びが、枯渇しかけていた彼のエーテルを、再び燃え上がらせた。
フィーリアは、男の圧倒的な威圧感と、リアンの苦しそうな表情を見て、唇を噛み締めながら、一歩、また一歩と後ずさる。そして、リアンに「ごめんなさい…」と囁くように言い残し、その場を走り去っていった。
男は、去っていく彼女を一瞥もせず、倒れているリアンに「いつまで寝ている。お前のせいで、余計な時間がかかった」と冷たく言い放つ。
「うるさい…!」
リアンは、新たな決意を瞳に宿し、大地を殴りつけるようにして、再び立ち上がった。
立ち上がって、剣を構え続けた。
「はぁ…はぁ…」
息も絶え絶えになりながら、リアンは震える声で問いかけた。
「なんで…なんで、俺なんだ…。あんたは…一体、誰なんだ! せめて、名前を聞かせてくれ!」
それは、懇願だった。この理不尽なまでの強さの前に、彼が唯一求めることのできる、ささやかな答え。
男は、初めて動きを止めた。
夕陽が、彼のフードの奥をわずかに照らす。その表情は、やはり窺い知れない。
長い、長い沈黙。風の音だけが、二人の間を吹き抜けていく。
やがて彼は、何かを噛み締めるように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……アレスだ」
その声には、リアンには理解できない、深い哀しみが響いているように聞こえた。
「俺がお前を鍛えるのに、理由などない」
アレスは続けた。
「ただ、お前はここで死ぬ運命ではない…それだけだ。感傷に浸る暇があるなら、剣を拾え。夜が明けるまで、振り続けていろ」
アレス。
その名前に、リアンはどこか遠い昔に聞いたことがあるような、不思議な懐かしさを感じた。だが、疲弊しきった彼の頭では、その正体を思い出すことはできない。ただその有無を言わさぬ言葉に、彼はもう、従う以外の選択肢を持っていなかった。
どれほどの時間が経ったのか。
リアンがふらふらとした足取りで寮の談話室に戻ったとき、時計の針はとっくに深夜を指していた。体中が泥だらけで、新しい痣と切り傷が、彼の無力さを物語るように、無数に増えている。
談話室の暖炉の火は、もう消えかかっていた。
その薄暗がりの中に、小さな人影が一つ、ぽつんと座っているのを、彼は見つけた。
フィーリアだった。
テーブルの上には、すっかり冷めてしまったハーブティーのカップと、彼のために用意したであろう夜食のサンドイッチが、手つかずのまま置かれている。彼女は、ずっとここで、リアンが帰るのを待っていたのだ。
「リアン…」
彼に気付いたフィーリアが、駆け寄ってくる。その青い瞳が、彼の無残な姿を捉え、痛ましげに歪んだ。
「おかえりなさい。その怪我…一体、どこで何を…」
彼女の白い指が、リアンの腕の傷に、そっと触れようとする。その指先が、治癒魔法の淡い光を帯びていた。
その瞬間、リアンは反射的にその手を振り払っていた。
「…!」
フィーリアの瞳が、驚きに見開かれる。彼女の手から放たれかけた光が、行き場をなくして、虚しく霧散した。
リアン自身も、自分の行動に驚いていた。アレスの言葉が、脳内で反響する。『お前のような過保護な慰めは、鍛錬の邪魔になる』。
「……もう、俺に関わるな」
それは、彼の心とは裏腹の、最も残酷で、最も効果的な嘘だった。しかし、一度口から出てしまった言葉は、もう取り消せない。
強くなるために、彼女の優しさから逃げなければならない。彼女の心配が、信頼が、今の自分を弱くする。アレスとの地獄のような訓練を乗り越えるには、心を鬼にするしかないのだ。
「お前がいると、俺は…強くなれない」
「え…」
フィーリアの顔から、血の気が引いていくのが分かった。世界から、音が消えたようだった。彼の言葉が、彼女の心臓を、氷の矢となって貫いた。
どうして。なぜ。私は、あなたの力になりたいだけなのに。あなたの隣りにいたいだけなのに。
その想いは、言葉にならなかった。ただ、唇が、か細く震えるだけ。
リアンは、そんな彼女の顔を、もうまともに見ることができなかった。
彼は、彼女に背を向けた。そして、扉へと向かう。
「待って…」
かき消えそうな声が、彼の足を止めた。
振り返ることはできない。振り返って、彼女の顔を見てしまったら、決意が鈍ってしまう。
「待ってください、リアン…!」
その声は、もう嗚咽に変わっていた。
リアンは、その悲痛な声から逃げるように、談話室を飛び出した。
バタン、と扉を閉めた背後で、彼女が静かに嗚咽を漏らす声が、微かに聞こえた。
一人、残された談話室。
フィーリアは、その場に崩れ落ちるように、膝をついた。テーブルの上に置かれた、二人分の冷たいハーブティーが、失われた穏やかな時間を嘲笑っているようだった。
彼の言葉が、何度も、何度も、頭の中で繰り返される。
『お前がいると、俺は…強くなれない』
私の存在が、彼の邪魔になる。私の優しさが、彼の成長を妨げる「枷」になっている。
そう、思った。
彼女の美しい青い瞳から、堪えきれなかった大粒の涙が、一筋、また一筋と、頬を伝ってこぼれ落ちた。
しかし、その深い、深い悲しみの底で、一つの、あまりにも純粋で、そして危険な決意が、静かに芽生え始めていた。
(もし、私の存在が、本当に彼の邪魔になるのなら…)
(もし、私が「いない」ことで、彼が本当に強くなれるのなら…)
(でも、なぜ…? なぜ、リアンの力は、目覚めないの…?)
進級試験で見せた、あの奇跡の力。あれこそが、彼の本当の姿のはず。なのに、なぜ彼はあれほどの苦悩を…。
(何かがあるはずだ。私が見つけていない、何か大きな秘密が…)
フィーリアは涙に濡れた顔を上げた。その瞳にはもはや悲しみだけではない、鋼のような、恐ろしいほどの覚悟の色が宿っていた。
彼女は、おぼつかない足取りで立ち上がると、談話室を後にした。
向かう先は、大図書館のさらに奥深く。禁断の知識が眠る、「禁書庫」だった。
全ては、愛するリアンが本当の勇者になるために。フィーリアの純粋な思いが、彼女自身と愛する人の運命を、大きく変えようとしていた。