第四話 焦り
進級試験「遺物探索」から数日後。冬の厳しい寒さが少しだけ和らいだその日、一年生全員が学園の大講堂に集められていた。張り詰めた空気の中、壇上に立つ教師が、試験結果の羊皮紙を厳かに開く。その乾いた音が、やけに大きく響いた。
結果から言えば、リアンたちのパーティの総合評価は、平凡な「B」だった。道中の連携不足や、リーダーであるリアンの判断の遅れが指摘され、レオとリナは不満げな顔を隠さない。リアン自身も、やはり自分はここまでか、と唇を噛み締めた。
しかし、教師は続けて、異例の言葉を口にした。
「――ただし、特記事項がある」
講堂のざわめきが、ぴたりと止む。
「パーティ四班、リアン・アークライト」
自分の名前を呼ばれ、リアンは驚いて顔を上げた。
「同生徒は、ボス級魔物『クリスタル・ゴーレム』との戦闘において、未確認の刻印魔法を発動させ、これを単独で撃破。その潜在能力は計り知れず、現時点での評価は不能。よって、総合評価はBのまま据え置くが、学園として、今後の彼の成長に大いなる期待を寄せるものである」
その瞬間、講堂全体が、これ以上ないほどのどよめきに包まれた。嘲笑ではない。憐れみでもない。純粋な驚きと、そして畏敬の念が入り混じった視線が、リアン一人に突き刺さる。壇上のカイが、信じられないといった表情でこちらを睨みつけているのが、人垣の向こうに見えた。
リアンは、何が起きたのか分からないまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
その夜、寮の談話室は、ささやかな祝勝会で盛り上がっていた。
暖炉の火がパチパチと音を立てて燃え、部屋全体を暖かな光で満たしている。テーブルの上には、フィーリアが淹れてくれたカモミールティーの甘い香りと、レオが厨房から「借りて」きた焼き菓子の香ばしい匂いが漂っていた。
「いやー、リアン、すげえじゃねえか! あの堅物教師に、あんなこと言わせるなんてよ!」
レオが、リアンの背中を力いっぱい叩く。その衝撃で、リアンは危うくお茶をこぼしそうになった。
「まあ、あなたにしては上出来だったわ。最後の最後で、少しはリーダーらしくなったんじゃない?」
リナが、ぶっきらぼうな口調の中に、隠しきれない喜びを滲ませて言う。
仲間からの、気兼ねない、そして心からの賞賛。以前のリアンなら、照れて俯いてしまっただろう。しかし今の彼は、少しだけ胸を張って、素直にその言葉を受け止めることができた。
「ありがとう。みんなのおかげだ」
彼の隣りに、フィーリアがそっと座った。彼女は、自分のことのように嬉しそうに、その青い瞳を細めている。
「私、信じていました。リアンなら、きっとできるって」
「…フィーリア」
リアンは、今度は目を逸らさなかった。彼女の真っ直ぐな瞳を、しっかりと見つめ返す。
「ありがとう。お前があの時、声をかけてくれなかったら、俺は…きっと、何もできずに終わってた」
「いいえ」
彼女は小さく首を振る。
「あれは、リアン自身の力です。私はただ、信じていただけですから」
二人の間に穏やかで、少しだけ甘い空気が流れる。レオとリナが、その様子をニヤニヤしながら見守っていることに気付き、リアンは慌てて顔を赤らめた。彼の心の中で、凍りついていた何かが、確かに雪解けを迎えていた。
季節は巡り、長く厳しかった冬が終わった。
学園を覆っていた雪は解け、大地からは新しい草花の芽が顔を出す。中庭の小川は、雪解け水を集めてきらきらと輝き、どこからか花の蜜の甘い香りが風に乗って運ばれてくる。春。希望の季節だ。
二年生に進級したリアンたちは、それぞれが選んだ専門科の、真新しい制服に身を包んでいた。
リアンは、カイと同じ「聖剣士科」に進んだ。偉大すぎる祖先と、好敵手の背中を追いかける道。以前なら気後れしていただろう。だが、今の彼には確かな目標があった。
いつか必ず、あいつに追いついてみせる。そして今度こそ、俺がみんなを、フィーリアを、守るんだ。
教室ですれ違うカイとの間には、依然として火花が散るような緊張が走る。しかし、リアンはもう、一方的に怯えるだけではなかった。彼の瞳には前向きな闘志の炎が静かに宿っていた。
放課後、春の柔らかな日差しが降り注ぐ中庭で、四人は将来の夢について語り合っていた。
「俺は、どんな魔獣だろうが一撃で仕留められる、最強のハンターになるぜ!」
「わたしは失われた精霊魔法を全て解明して、大図書館の禁書庫にだって入れるくらいの魔導師になってやるわ」
レオとリナの言葉に、リアンとフィーリアも微笑む。
「俺は…」
リアンは、少しだけ躊躇ってから、言った。
「あの力を、完全に制御できるようになりたい。自分の意志で大切なものを守れるくらい、強くなりたいんだ」
その言葉に、フィーリアが嬉しそうに頷いた。
「リアンなら、きっと誰よりも強い、優しい勇者になれますよ」
「…そうかな」
「はい。私が、保証します」
彼女の笑顔は、春の陽光そのものだった。リアンは、この穏やかな時間が、仲間たちとのこの輝かしい日々が、永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
それは、嵐の前の、あまりにも美しい凪の季節。
彼の心に灯った小さな自信の炎が、やがて彼自身を焼く、焦燥の業火へと変わっていくことを、この時のリアンはまだ知る由もなかった。
季節は巡り、魔封学園「暁の境界」に、再び初夏が訪れていた。
一年という月日は、試練を乗り越えたリアン・アークライトを、そして彼の仲間たちを、確かに成長させていた。それぞれが専門の科へと進み、より高度で実践的な訓練に明け暮れる日々を送っていた。
リアンは、ライバルのカイと同じく、学園の花形である「聖剣士科」に所属していた。そこでは、建国王アルトリウスが編み出したという、剣技と刻印魔法を融合させた、高度な戦闘技術が教えられていた。
誰もが、進級試験で見せたあの奇跡的な一撃を賞賛し、彼の才能が開花したのだと信じていた。リアン自身も、そう信じたかった。
だが、現実は非情だった。
(…ダメだ。何度やっても、できない…!)
放課後の修練場。その一番隅で、リアンは一人、荒い息をつきながら膝に手をついていた。彼の目の前には、魔法攻撃によって穿たれた訓練用の的が、無残な姿を晒している。しかし、それは彼の魔法によるものではない。
彼の紋章は、いくらエーテルを注ぎ込んでも、あの日のような翠色の輝きを放つことはなかった。放たれる闘気は鈍く、剣筋は空を切るばかり。進級試験で発動した「分解」の刻印。あの、ゴーレムの硬い装甲をバターのように貫いた奇跡の力は、あれ以来、一度たりとも再現できずにいたのだ。
「まぐれだったのか…。俺は、結局、何も変わっていないのか…」
自嘲の言葉が、乾いた喉から漏れる。
視線の先、アリーナの中央では、カイが優雅な剣さばきで、複数の魔法を同時に制御するという離れ業を軽々と披露していた。彼の周りには常に人垣ができ、賞賛と感嘆の声が絶えない。その光景が、まるで世界の中心と、その隅に追いやられた自分との差を、残酷なまでに見せつけているようだった。
仲間たちの成長も、彼の焦りを増幅させた。
レオは、魔獣狩猟科でその才能を開花させ、もはや学年で彼に力比べを挑む者はいなかった。リナは、魔導科で精霊魔法の新たな境地を切り開き、その戦術眼は上級生からも一目置かれるほどになっていた。
喜ばしいことだ。誇らしいことだ。
心の底からそう思うのに、同時に、自分だけがその場に取り残されていくような、黒い恐怖が胸の奥で渦巻いていた。
「おいリアン、また一人でやってんのか?」
背後から、聞き慣れた声がした。レオだった。その隣りには、リナもいる。
「あんま根詰めんなよ! お前、最近ずっとそうだぜ」
「あなたの焦りは分かるわ。でも、力の制御は精神状態に大きく左右される」
リナは、冷静な目でリアンを見つめた。
「今のあなたは、空回る水車と同じ。回れば回るほど、水を汲むのではなく、周りに撒き散らしているだけ。一度、頭を冷やすべきよ」
二人の言葉は、純粋な心配から来るものだ。分かっている。
だが、今のリアンの歪んだ心には、その優しさすらも、「お前はダメだ」という烙印を押されているように感じてしまっていた。
「分かってるよ! でも、やるしかないんだ! 俺は…カイに、追いつかなきゃ…!」
「リアン…」
その時だった。三人の間に、ふわりと花の香りを纏った影が落ちた。フィーリアだった。彼女は何も言わずに、ただ心配そうにリアンを見つめている。
その瞳が、リアンには何よりも辛かった。
彼女の過度な心配は、「あなたを信じています」という言葉の裏返しに、「今のままのあなたではダメです」と言われているような気がしてならなかったのだ。いつしか彼は、彼女の優しさからも、逃げるようになっていた。
「…悪い、俺、一人で頭を冷やしてくる」
リアンは仲間たちの制止の声を振り切り、その場を走り去った。向かったのは演習林の奥深く。上級生ですら単独での立ち入りが固く禁じられている禁忌の森に、一人で足を踏み入れた。
「あの時と同じ、ギリギリの状況を作り出さないと…!」
それはほとんど祈りであり、リアン自身は自覚していなかったが、同時に破滅への願望にも似ていた。
森の奥へ、奥へと進む。
鬱蒼とした木々が天蓋のように陽光を遮り、昼なお暗い。足元では、湿った土を踏み締める自分の足音だけが、やけに大きく響いた。苔むした岩と、苦悶するようにねじくれた木の根が、まるで森の骸骨のように彼の行く手を阻む。
肌にまとわりつく、じめりとした空気。汗で制服が肌に張り付く不快感が、彼の神経を逆撫でした。
完全な無音。
鳥の声も、虫の音も、風の音すら聞こえない。自分の荒い呼吸音と、ドクン、ドクンと警鐘のように鳴り響く心臓の鼓動だけが、世界の全てだった。
(そうだ、これでいい…)
リアンは、自分に言い聞かせた。
(邪魔の入らない、完璧な修練の場だ。ここでなら、きっと…)
しかし森の深淵に近付くにつれて、その静寂は、じっとりとした悪意を帯びて、彼に圧し掛かってきた。まるで森全体が一つの巨大な生き物となって、彼という異物を監視しているかのような、圧倒的なプレッシャー。
ふと、彼は仲間たちの顔を思い出す。
レオならこんな森、鼻歌交じりで進むだろうな。リナならこの森の法則を分析し始めるに違いない。フィーリアがいたら…きっと、こんな無茶は、絶対に許してくれなかっただろう。
仲間を振り払ってきた後悔と、それでも力を求める渇望が、彼の中で激しくせめぎ合う。
「やらなきゃいけないんだ…!」
彼は、その葛藤を振り払うように叫び、さらに奥へと足を進めた。
その時だった。
突然、森の全ての音が、完全に消えた。
いや、違う。森が、息を殺したのだ。
リアンは、全身が総毛立つのを感じた。本能が、彼の魂に直接、警鐘を鳴らしている。
見られている。
遥か格上の、絶対的な捕食者に。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。ゆっくりと、ぎこちない動きで振り返った彼の視線の先。
少し開けた空間の、その中心にある大木の、最も深い影の中から、ぬるりと。影そのものが滲み出すように、「それ」は現れた。
筋肉の塊が、しなやかな黒い毛皮の下で、絶えずうねっている。闇よりもなお暗い、光を一切反射しない漆黒の体躯。それは、巨大な豹型の魔物だった。
Sランク級魔物「ナイト・パンサー」。
その爛々と輝く二つの赤い瞳だけが、この薄暗い森の中で、異常なほどの生命力をもって、リアンという獲物を、ただ静かに捉えていた。
グルルル…、と低い唸り声が、魔物の喉の奥から漏れる。それと共に、腐臭が風に乗ってリアンの鼻腔を突いた。その圧倒的な魔力の気配に、周囲の空間が陽炎のように歪んで見える。
全身の血が、凍りついた。
地面に縫い付けられたように、足が動かない。これが、本物の「死」の気配。これが、自分が求めていた、ギリギリの状況。
(…なんて、馬鹿なことを…)
後悔が、絶望となって押し寄せる。しかしここで逃げても、あの俊敏な魔物から逃げ切れるはずがない。
リアンは震える手で、腰の剣の柄を握りしめた。
「ここで逃げたら、俺は、本当に…!」
フィーリアの、心配そうな顔が脳裏をよぎる。
彼は恐怖を振り払うため、魂の底から絶叫した。それは、勇気の雄叫びなどではなく、ただただ己の死に抗うための、哀れな悲鳴に近かった。
「うおおおおおっ!」
リアンは、地面を蹴った。
渾身の力で、がむしゃらに剣を振るう。
だが、ナイト・パンサーは、まるでその動きを予測していたかのように、ふわりと身体をかわした。リアンの剣は、虚しく空を切る。
体勢を崩した、その一瞬の隙。
黒い嵐が、彼の視界を駆け抜けた。
ザシュッ!
左腕に、灼けるような激痛が走る。
「ぐっ…!」
見れば、制服の袖が真っ赤に染まり、そこから夥しい量の血が噴き出していた。
反撃しようにも、魔物の姿はすでになく、背後に回ったその気配だけが、死刑宣告のように彼の首筋を撫でる。
思考が、追いつかない。
ただ黒い疾風が自分の周りを駆け巡り、そのたびに、身体のどこかに新たな激痛が刻まれていく。
脚を、脇腹を、肩を。
攻撃は、決して致命傷ではない。それはこの魔物が、リアンという獲物を、ただ一方的に弄んでいる証拠だった。
リアンは、何度も、何度も、泥だらけになりながら立ち向かう。しかしそのたびに、より深い絶望へと叩き落とされた。体内のエーテルは枯渇し、体は傷だらけになり、剣を握る力さえ、もう残っていなかった。
ついに、彼は動けなくなった。
仰向けに倒れ、見上げた木々の隙間から、憎らしいほどに青い空が見える。
フィーリアの顔、レオの笑顔、リナの呆れ顔が、次々と脳裏に浮かんで消える。
(ごめん…みんな…)
それが、彼の最期の言葉になるはずだった。
ナイト・パンサーが、勝利を確信し、彼の喉笛に狙いを定めて、ゆっくりと、優雅な足取りで近付いてくる。その赤い瞳に、絶望しきった自分の顔が、はっきりと映っていた。
リアンは、静かに目を閉じた。
――その瞬間、世界から、音が消えた。
時間そのものが、一瞬だけ断ち切られたかのような、絶対的な静寂。
リアンが、恐る恐る目を開けた時、信じられない光景が広がっていた。
飛びかかってきたナイト・パンサーは、彼の鼻先で、空中に静止していた。まるで、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、完璧に。
その眉間には、一本の、リアンが見たこともない黒い鞘の剣が、深々と、音もなく突き立てられていた。
そして、その剣の柄を握る、人影が一つ。
リアンの前に、いつの間にか、黒衣を纏った一人の男が立っていた。
顔の半分は深いフードで隠されている。しかし、そのフードの奥から覗く、鋭い翠色の瞳。その瞳には、リアンには到底理解できないほどの、深い、深い悲しみと、全てを諦めたかのような静かな諦観が宿っていた。
絶命した魔物が、ずるり、と重い音を立てて地面に崩れ落ちる。
男は血振りもせず、静かに剣を鞘に納めると、倒れ込むリアンを見下ろした。
彼の唇が、ゆっくりと開く。
「――死にたくなければ、思い出せ」
その声は、静かだった。しかし、魂の奥底まで、直接響き渡るような、抗いがたい力を持っていた。
「お前の魂に刻まれた、本当の戦い方を」
リアンは、その声を聞きながら、安堵と、そして正体不明の懐かしさに包まれ、完全に意識を手放した。
彼の運命の歯車が、この日、この瞬間、大きく、そして決定的に回り始めた。