第三話 進級試験
季節は、燃えるような夏の名残をすっかりと洗い流し、秋の冷たい空気が支配する頃となっていた。魔封学園「暁の境界」の白亜の壁を伝っていた緑の蔦は枯れ落ち、窓の外では、最後の枯葉が名残惜しそうに風に舞っている。
その日の午後、大教室に集められた一年生たちの間には、ぴりぴりとした緊張感が漂っていた。暖炉に焚かれた薪の匂いだけが、唯一の温もりだった。
教壇に立った教師が、重々しく口を開く。
「これより、一週間後に執り行われる、進級試験の詳細を発表する」
ごくり、と誰かが息を呑む音が、静まり返った教室に響いた。
「試験の名は、『遺物探索』。諸君らには四人一組のパーティを組んでもらい、学園が管理する広大な演習林、通称『迷いの森』へと入ってもらう」
教師の言葉に、生徒たちの間にどよめきが走った。「迷いの森」――その名の通り、一度足を踏み入れれば、熟練の魔法使いですら方向感覚を失うという、古代の幻惑魔法がかけられた危険地帯だ。
「課題は一つ。森の最深部にある『古代の祠』から、そこに安置された魔法遺物『賢者の灯火』を無事に持ち帰ること。もちろん『賢者の灯火』はレプリカで、パーティ分用意されている。森には我々が配置した実戦想定の魔物も彷徨っている。個人の能力ではない。いかなる状況でも任務を遂行できる、パーティとしての連携能力を、我々は見させてもらう。以上だ」
発表が終わるやいなや、教室は未来の勇者たちの、期待と不安が入り混じった熱気に包まれた。生徒たちはすぐさま動き出し、信頼できる仲間や、優秀な同級生に声をかけ始める。
その喧騒の中心にいたのは、やはりカイ・ヴォルファードだった。彼はすでに学年トップクラスの攻撃魔法使いと防御術士を従え、傲岸な笑みを浮かべていた。
「決まってんだろ! 俺たちで組むに決まってる!」
放課後の談話室。レオは、当然のようにリアンの肩を組み、高らかに宣言した。
「異論はないわ。この脳筋ゴリラを制御できるのは、私くらいのものだし」
リナも、テーブルの向かいで腕を組みながら、冷静に頷く。
問題は、やはりフィーリアだった。彼女は、神聖騎士科で右に出る者のいない最高の治癒魔法の使い手。彼女をパーティに迎え入れられるかどうかで、試験の成功率は天と地ほども変わる。カイのパーティをはじめ、多くのエリートたちが、虎視眈眈と彼女を狙っていた。
リアンは言い淀んだ。カイとの模擬戦での惨敗が、今も彼の心に重くのしかかっていた。カイの最後の言葉――『フィーリアの隣りに立つ資格など、お前にはない』――が、耳の奥で何度も反響する。
「フィーリアは…」
リアンは俯きながら、か細い声で言った。
「カイたちのパーティに行った方が、良い成績を残せるんじゃないかな…? 俺たちと組んでも、俺が足を引っ張るだけだ…」
「リアン…」
フィーリアの瞳が、悲しげに揺れる。レオとリナが、何か言おうと口を開きかけた、その時だった。
「――フィーリア・クレセント。僕のパーティに来ないか」
カイが、取り巻きを引き連れて、彼らのテーブルにやって来た。
「君ほどのヒーラーなら、僕の隣りこそが最も輝ける場所だ。出来損ないの介護をする必要はない」
その言葉は、リアンだけでなく、レオとリナにも向けられた侮辱だった。レオの拳が、わなわなと震える。
しかし、フィーリアは動じなかった。彼女は静かに立ち上がると、カイに向かって、深々と丁寧にお辞儀をした。
「お誘い、ありがとうございます、カイ様。ですが、お断りいたします」
「…何?」
カイの眉が、不快げにひそめられる。
「なぜだ。僕のパーティに入れば、首席での進級も間違いないのだぞ」
「私は、成績のために戦うのではありませんので」
フィーリアは、きっぱりと言った。そして、彼女は振り返ると、固まったままのリアンの前に立ち、その手を両手で優しく包み込んだ。
「私が誰の隣りにいたいかは、私が決めます。私の力は、リアンと、レオさん、リナさんのために使いたいのです。…ダメ、でしょうか?」
上目遣いで、不安げにそう問いかける彼女に、リアンは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。ダメなはずがない。君がいないパーティなんて、考えられない。
「…っ、よろしく、お願いします!」
リアンは、顔を真っ赤にしながら、そう答えるのが精一杯だった。それを見たカイが、怒りで顔を真っ赤に染めながら、ドスドスと足音を立ててその場を去っていく。
その夜、四人は初めての作戦会議を開いた。暖炉の火が、彼らの若い顔を暖かく照らし出している。
しかし、議論はすぐに暗礁に乗り上げた。
「とにかく森の真ん中目指して、一直線だ! 魔物が出たら、俺が全部ぶっ飛ばす!」
「だから、その無策が命取りになると言っているの。この森は古代の幻惑魔法がかかっているわ。まずは私が精霊の力を借りて、魔力の流れを読み、安全なルートを特定すべきよ」
レオの猪突猛進と、リナの慎重論。どちらも一理ある。リーダーとして、リアンは決断を下さなければならなかった。全員の視線が、彼に突き刺さる。
「えっと…どっちの意見も正しいと思うけど…まずは、その…」
言葉が出てこない。自分の判断に、全く自信が持てないのだ。
談話室に、気まずい沈黙が流れた。レオは苛立ったように舌打ちし、リナは失望したように深いため息をついた。
その時そっと、リアンの持つカップに、ハーブティーが注がれた。フィーリアだった。湯気と共に立ち上る、カモミールの優しい香りが、彼の張り詰めた心を少しだけ解きほぐす。
「リアン」
彼女は、彼の隣りに座ると、その青い瞳で、じっと彼を見つめた。
「あなたは、どうしたいのですか?」
「え…?」
「レオさんの勇気も、リナさんの知性も、どちらも私たちの力です。でも、最後に道を決めるのは、リーダーであるあなたです。あなたが信じる道が、私たちの道になります。私たちは、あなたを信じますから」
彼女の言葉は、どこまでも優しく、そして、どこまでも重かった。
その夜、リアンは自室のベッドの中で、ずっとその言葉を反芻していた。
(俺が、信じる道…)
窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい木枯らしが、ひゅーっと寂しい音を立てていた。仲間からの信頼という名の重圧に押しつぶされそうになりながら、彼は、ただ固く拳を握り締めることしかできなかった。
試験前日の放課後。修練場の隅で、四人は最後の連携訓練に励んでいた。
しかし、リアンの心に巣食った焦りは、彼の身体から精度を奪っていた。傾き始めた夕陽がアリーナに長い影を落とし、遠くで訓練に励むカイのパーティから聞こえる、統率の取れた掛け声が、彼の集中力を無慈悲に削いでいく。
「《光よ》――」
詠唱の途中で、イメージがぶれる。紋章から溢れたエーテルが制御を失い、小さな光の玉となって、彼の足元でパチン、と情けなく弾けた。
「くそっ…!」
「どうしたんだよリアン! らしくねえぞ!」
背後から、レオの純粋な心配の声が飛んでくる。
「集中力が散漫になっているわ。あなたのエーテル、流れが全く安定していない。今日はもうやめた方がいい」
リナの冷静な忠告が続く。
二人の言葉は、どちらも彼を思ってのものだ。分かっている。分かっているのに、今のリアンには、それが「お前はもう役に立たない」という非難の宣告に聞こえてしまった。
「…悪い。俺、一人で頭を冷やしてくる」
リアンは、剣を拾い上げると、仲間たちに背を向けて走り出した。
「リアン、待ってください!」
背後から追いかけてきたのは、やはりフィーリアだった。彼女は、息を切らしながらリアンの前に回り込むと、その行く手を塞いだ。夕陽を背にした彼女の銀髪が、風に吹かれて、まるで光の糸のように輝いている。
「…何か、悩んでいることがあるのなら、私に話してくれませんか?」
その、あまりにも優しい声が、リアンの最後の強がりを打ち砕いた。
「お前には分からないよ!」
叫ぶように、彼は言った。
「いつも完璧で、誰からも必要とされてるお前には、俺みたいな出来損ないの気持ちなんて、分かるはずがないんだ!」
言ってしまってから、はっとする。フィーリアの青い瞳が、悲しげに揺らめいたのを、彼は見てしまった。後悔の念が、黒い奔流となって彼の心を飲み込む。謝らなければ。でも、どんな顔をして。どんな言葉で。
気まずい沈黙が、二人を包んだ。風が、乾いた砂を運び、遠くで訓練の終わりを告げる鐘が鳴った。
「…分かりません」
長い沈黙の後、フィーリアが静かに口を開いた。
「あなたの痛みは、あなたの苦しみは、私には本当の意味では分からないのかもしれません。でも」
彼女は一歩前に出ると、リアンの冷たくなった手に、そっと自分の手を重ねた。驚くほど、温かかった。
「でも、分かりたいと思っています。あなたの隣りにいたいから。それだけは本当です」
彼女はそう言うと、小さな回復魔法の光をリアンの手に灯した。温かなエーテルが、彼のささくれ立った心を、少しだけ癒していく。
「明日は、きっと大丈夫です」
そう囁くと、彼女は名残惜しそうに手を離し、寮へと続く道を一人で歩いて行った。
残されたリアンは、自分の手に残る彼女の温もりと、心の奥で疼く自己嫌悪に、ただ立ち尽くすしかなかった。
試験当日。
魔封学園「暁の境界」の北門に集められた一年生たちの吐く息は、白く凍り、初冬の澄んだ空気に溶けていった。目の前に広がるのは、演習林、通称「迷いの森」。その入り口は、まるで巨大な獣が口を開けているかのように不気味な静寂を湛え、中から流れ出してくる空気は、湿った土と腐葉土の、生命の終わりを告げるような匂いがした。
「足手まといになるなよ、アークライト」
スタートの合図を待つ間、すれ違いざまにカイが吐き捨てるように言った。その声は、いつも以上に冷たく、リアンの心を容赦なく刺した。リアンは、ただ唇を噛み締める。隣りに立つフィーリアの気遣わしげな視線が、さらに彼の心を重くした。
「――始め!」
教師の号令と共に、各パーティが一斉に森へと駆け出していく。
リアンたちも、その流れに乗って森に一歩足を踏み入れた。その瞬間、世界がぐにゃりと歪む感覚に襲われる。太陽の位置は曖昧になり、風の向きは定まらない。幻惑魔法が支配するこの森では、五感すら信用できなかった。
「…どっちだ?」
リアンは、リーダーとして道を示さなければならなかった。しかし、彼の口から出たのは、自信のない、か細い声だった。
「こっち…だと思う」
「思う、じゃねえよ!」
レオが、痺れを切らしたように吼えた。
「うじうじしてっと日が暮れるぜ! とにかく真っ直ぐ進みゃ、いつかは着くだろ!」
「待ちなさい、この脳筋ゴリラ」
リナが、レオの肩を掴んで制止する。
「この森で単独行動は自殺行為よ。リアン、あなたはリーダーでしょ。もっと明確な指示を。あなたの判断ミスは、私たちの死に直結するのよ」
その正論が、ナイフのようにリアンに突き刺さる。フィーリアが、心配そうに「皆さん、落ち着いて…」と仲裁に入るが、一度生まれてしまった不協和音は、森の濃い霧のように、四人の間に立ち込めていた。
(俺のせいだ…。俺が、しっかりしないから…)
フィーリアに「あなたを信じます」と言われた言葉の重みが、鉛となって彼の足に絡みつく。
その、心の隙間を突くように、奴らは現れた。
なんの前触れもなかった。音も、匂いも、気配すらも。ただ、周囲の闇が、いくつかの点で、より深く濃くなった。そして、その闇の中から、無数の赤い瞳だけが、亡霊のように浮かび上がった。
「シャドウ・ハウル…! しかも、群れか!」
レオが叫ぶと同時に、黒い影たちが一斉に襲いかかってきた。
「くそっ、数が多すぎる!」
レオが最前線で闘気を纏った拳を振るう。一体を殴り飛ばしても、すぐに別の個体が、死角から音もなくその鋭い爪を繰り出してくる。彼の屈強な身体に、少しずつ赤い線が刻まれていった。
「詠唱が間に合わない…! 速すぎるわ!」
後方で、リナが必死に魔法を構築しようとするが、俊敏に動き回る敵に狙いを定めきれないでいた。フィーリアは、レオの傷を癒す神聖魔法に集中するあまり、パーティ全体を守る防御結界を展開する余裕がない。
連携が、完全に崩壊していた。
リアンは、その地獄絵図の中心で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。カイとの模擬戦の光景が、悪夢のようにフラッシュバックする。圧倒的な力の前に、何もできずに無様に転がった、あの日の自分。
(まただ…また俺は、何も…!)
恐怖が、彼の足を地面に縫い付ける。
その絶望が彼を飲み込もうとした、まさにその瞬間だった。
一匹のシャドウ・ハウルが、戦線を巧みにすり抜け、治癒に集中する無防備なフィーリアへと、その牙を剥いた。
彼女の青い瞳が、驚きに見開かれる。
(――だめだ!)
リアンの頭から、恐怖も、劣等感も、全ての思考が消し飛んだ。
そこにあったのは、ただ一つ。
彼女を、失いたくない。
その燃えるような純粋な意志だけだった。
身体が、勝手に動いていた。
彼は自分でも信じられないほどの速度で、フィーリアの前に回り込むと、絶叫しながら剣を振るう。それはカイのような洗練された技ではない。ただ必死に、がむしゃらに振るった魂の叫びそのものだった。
彼の腕の紋章が、その叫びに呼応するかのように灼けるような熱を発する。剣先に宿った闘気はこれまでになく鋭く、眩い光を放っていた。
ガキンッ!
リアンの剣がシャドウ・ハウルの爪と激しく衝突し、甲高い音と火花を散らす。致命傷には程遠い。だがその一撃は、崩壊しかけていたパーティの運命を、確かに繋ぎとめた。
「リアン、五秒だけ耐えなさい!」
リナの目に、迷いはなかった。彼女の声は、もはやリアンを責める響きではなく、絶対の信頼を帯びていた。
「おうよ! リアン、そいつは任せたぜ!」
レオは自分の敵を力任せに弾き飛ばすと、不敵な笑みを浮かべて体勢を立て直す。
「リアンに、光の加護を…!」
フィーリアの祈りが、神聖な光の奔流となってリアンに注がれ、彼の闘気をさらに強めた。
守られている。信じられている。
その事実が、リアンの震える両腕に鋼の力を与えた。
一秒。二秒。魔物の猛攻を、歯を食いしばって耐える。三秒。四秒。
――五秒。
「凍てつきなさい!」
リナの詠唱が完了する。彼女の足元から、召喚された水の精霊が無数の氷の棘を形成し、嵐のように魔物の群れを貫いた。悲鳴を上げて凍りつくシャドウ・ハウルたちを、レオが雄叫びと共に残らず粉砕していく。
やがて、森に再び静寂が戻った。
残ったのは、砕けた氷の欠片と、四人の荒い息遣いだけだった。
ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、彼らは顔を見合わせた。
「…やるじゃねえか、リーダー!」
レオが、ニッと歯を見せて、リアンの背中を力いっぱい叩いた。その言葉には、もうからかいの色は微塵もなかった。
「まあ、及第点、といったところね。でも、指示はもっと早く出しなさい」
リナも、ふっと息を吐いて言った。それは彼女なりの最大の賛辞だった。
フィーリアが、駆け寄ってくる。彼女はリアンの腕にできた浅い切り傷に、そっと手をかざした。温かい光が、彼の痛みを癒していく。
「ありがとうございました、リアン。…でも、本当に、無茶はしないでくださいね」
彼女の青い瞳には、安堵と、そして誇らしげな光が宿っていた。
リアンは、まだリーダーとして未熟な自分を恥じつつも、初めて確かな手応えを感じていた。
仲間と共に戦って勝利を掴むという、圧倒的な実感。
そして胸の奥に灯った、微かではあるが、確かな自信の炎。
彼は森の奥を、今度は迷いのない目で見つめた。
「行こう」
その声は、もう震えていなかった。
彼らの本当の試練は、たった今、始まったばかりだった。
シャドウ・ハウルの群れとの死闘から一夜が明けた。
夜の森は、昼間とは比べ物にならないほど冷え込み、無数の獣の気配と、風が木々を揺らす不気味な音に満ちていた。それでも四人が囲む焚き火の周りだけは、別世界のように穏やかで、温かい光に満たされていた。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、心地よい静寂の中に響いている。
熱いスープの湯気が立ち上り、冷えた身体を芯から温めてくれた。これはフィーリアが森で摘んだ、気を落ち着かせる効能のある薬草を入れた特製のスープだった。
「いやー、マジで死ぬかと思ったぜ!」
レオが大きな口で干し肉を頬張りながら、豪快に笑った。彼の腕には、フィーリアが手当てした真新しい包帯が巻かれている。
「でもよ、リアン! お前、最後はかっこよかったじゃねえか! あの狼野郎に突っ込んでった時、正直、見直しちまったぜ!」
「偶然よ」
リナが、スープのカップを両手で包み込みながら、冷静に付け加えた。
「でも、あの土壇場で恐怖を克服し、仲間を守るために行動を起こしたという事実は評価できるわ。次もできるという保証はないけれど、大きな一歩よ」
彼女たちの、飾り気のない、しかし紛れもない称賛の言葉に、リアンの頬が熱くなる。
「俺一人の力じゃない。みんながいたからだ」
それは、彼の本心だった。
「この森の霧には、人の心を惑わし、不安を増幅させる微弱な魔力が含まれているそうです」
フィーリアが、焚き火の炎を見つめながら、静かに言った。彼女の横顔が、揺らめく光に照らされて、神秘的に美しい。
「古文書によれば、焚き火の火には、その魔力を浄化する力があるとか。だから、こうしていると、少しだけ心が落ち着くんです」
彼女の博識さは、パーティの知識的な支柱だった。ただ優しいだけでなく、彼女はその知性で、何度も仲間たちの道を示してきた。
リアンは仲間たちの顔を一人ずつ見回した。
自分を信じ、背中を叩いてくれる親友、レオ。
厳しくも、的確な分析で自分を導いてくれるもう一人の親友、リナ。
そして、どんな時も、その優しさで自分の心を照らしてくれる、かけがえのない幼なじみ、フィーリア。
彼らからの信頼を感じるたび、胸が温かくなると同時に、その期待に応え続けなければならないという、心地よい重圧を感じていた。彼はフィーリアの隣りにいるだけで、不思議と心が凪いでいくのを感じ、彼女への想いを、夜空の星を見上げながら、静かに噛み締めた。
翌朝、彼らの連携は、見違えるほどに向上していた。
「リナ、右手の茂みに魔力反応! 二体!」
リアンの声は、もう上ずってはいなかった。
「レオ、備えろ!」
「おう!」
レオが前に出て盾を構えると同時に、リナの水の精霊が作り出した粘着質の泡が、茂みから飛び出してきた魔物の足を絡め取る。動きが鈍ったところを、リアンとレオが左右から挟撃し、危なげなく仕留めた。
道中、古代ルーンが刻まれた苔むした石碑を見つけた時も、フィーリアがその場で淀みなく解読し、祠への安全な近道を示してくれた。
昨日までの不協和音が嘘のように、四つの心は、一つの目的に向かって確かに共鳴していた。
フィーリアが解読した近道を進むと、森の空気が一変した。不気味なほどの静寂。加えて肌が粟立つような、濃密で重苦しい魔力の気配。
木々の切れ間から、それが見えた。
蔦が絡まり、長い風雪に耐えてきたことを示す苔むした石造りの祠。その入り口からは明らかに異常な魔力が、黒い靄のように漏れ出している。
「間違いないわ…『古代の祠』よ」
リナが、警戒を露わに呟く。
その時、大地がわずかに震え、祠を守るように、巨大な影が立ち上がった。
「クリスタル・ゴーレム…! 試験の候補リストにあった、最悪の一つじゃないか!」
レオが、思わず悪態をつく。
身の丈三メートルはあろうかという巨体は、半透明の水晶の装甲で覆われ、物理攻撃も並の魔法も一切通さない、森の要塞。
「作戦通り、俺とリアンが前に出る!」
レオが叫び、真っ先に突進する。だが、彼の渾身の拳は、ゴッという鈍い音と共に、ゴーレムの硬い装甲に弾かれた。リアンの剣もまた、甲高い音を立てて滑るだけだった。
「ダメだ、傷一つ付かねえ!」
焦るレオの言葉が終わる前に、ゴーレムの巨大な水晶の腕が、薙ぎ払うように二人を襲った。
「ぐっ…!」
レオは吹き飛ばされ、リナも咄嗟に展開した魔法障壁ごと、木の幹に叩きつけられて呻き声を上げた。
「二人とも!」
フィーリアの悲鳴のような声が響き、彼女の治癒魔法の光が、傷ついた仲間たちへと飛ぶ。だが、彼女自身も、ゴーレムの次の攻撃範囲に捉えられていた。
絶望的な光景。
仲間たちが、次々と倒れていく。
シャドウ・ハウルの群れとは比較にならない、絶対的な力の差。リアンの心に、カイに完膚なきまでに敗れた、あの日の無力感が蘇る。
(ダメだ…勝てない…! 俺の力じゃ、何も…)
「リアン!」
フィーリアの、悲痛な叫びが、彼の名を呼んだ。
「諦めないで! あなたなら、できる!」
その声が、リアンの心の奥底で凍りついていた何かに、火を灯した。
そうだ。俺は、もう無力なだけの俺じゃない。俺には、守りたい光がある。
(動け…動け、俺の力…!)
リアンは、自らの腕に宿る紋章に、身体中のエーテルを、祈るように、叫ぶように、注ぎ込んだ。彼は、意図的に、そして明確な意志を持って、自分の力の源泉へと手を伸ばす。
「俺は、みんなを、フィーリアを、守るんだァァァッ!」
彼の絶叫に呼応するように、紋章が、これまで見せたことのないほどの眩い翠色の光を放った。
彼の剣に、その翠色の闘気が、螺旋を描いて集束していく。それは、ただの闘気ではなかった。アークライト家にのみ伝わる「刻印魔法」の片鱗――物質の結合構造そのものを弱め、破壊する「分解」の刻印が、彼の魂の叫びによって、無意識に、しかし確かに発動していた。
リアンは、その翠色の光を纏った剣を、ゴーレムの胸で一際強く輝くコアへと突き立てる。
通常なら、甲高い音を立てて弾かれるはずの一撃。
だが、分解の刻印を纏ったリアンの剣は、硬い水晶の装甲を、まるで柔らかなバターを切り裂くように、音もなく貫いた。
時が、止まったように感じられた。
ゴーレムのコアに、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、やがて宝石が砕けるような澄んだ音を立てて、その巨体は光の粒子となって崩壊していった。
「…はぁ、はぁ…」
リアンは、エーテルを完全に使い果たし、その場に膝をついた。すぐに、フィーリアが駆け寄り、彼を抱きかかえるようにして、その身を温かい治癒の光で包み込む。
リアンは、自分の手で仲間を守れたことに、震えるほどの喜びを感じていた。
それと同時に理解していた。今の力は、土壇場で偶然発動した、まぐれの一撃に過ぎないことを。
彼はフィーリアの腕の中で、その温もりを感じながら、強く、強く誓った。
「もっと、強くならなければ…」
この力を、いつでも自分の意志で使えるようにならなければ。
フィーリアを、みんなを、本当に守れるくらいに。
彼の翠色の瞳には、もう劣等感の色はなかった。
そこにあったのは、自らの宿命と向き合う覚悟を決めた、「力への渇望」という名の、新たな夜明けの光だった。