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第一話 模擬戦

 からりと乾いた初夏の風が、巨大な修練場アリーナの白い砂を巻き上げた。

 肌を撫でるその風には、汗と土の匂いが充満している。その中には、魔法の訓練で飽和した、甘く焦げたようなエーテルの香りが微かに溶け込んでいた。今日は月に一度の合同魔法実技の日。学年の垣根を越え、多くの生徒たちがこの円形の闘技場に集い、その熱気は陽炎のように立ち昇っている。


「――今日の模擬戦、相手は誰でもいいけど、カイだけは勘弁だな」


 観客席の日陰で剣の手入れをしながら、リアン・アークライトは、誰に言うでもなくそうつぶやいた。磨き上げた剣身に映る自分の顔は、ひどく頼りない。


「あなたはなぜ、いつもそう弱気なの。戦う前から負けることを考えていて、どうするの」


 隣りから、リナ・メイフィールドの冷静な声が飛んできた。彼女は分厚い魔導書を膝に広げ、眼鏡の奥の瞳は活字を追ったままだ。


「確率的に言えば、あなたがカイ・ヴォルファードと当たる確率は、約二パーセント。心配するだけ無駄よ」

「その二パーセントが怖いんだろ!」


 リアンの隣りで、大あくびをしながらストレッチをしていたレオ・グランが、豪快に笑った。


「俺は逆にカイとやりてえけどな! あいつのその鼻っ柱、俺の拳でへし折ってやんよ!」

「その前に、昨日の魔法理論の課題は提出したのかしら。脳まで筋肉でできているのね、あなたは」

「うっ…! そ、それはそれ、これはこれだ!」


 レオとリナのいつも通りのやり取りに、リアンの口元が少しだけ緩む。この二人がいるから、落ちこぼれの自分も、このエリートだらけの学園でなんとか息ができている。


「リアン」


 不意に、すぐ側から澄んだ声がした。振り返ると、フィーリア・クレセントが、水の入った革袋を手に、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「大丈夫ですか? 少し顔色が悪いようですけど…」

「な、なんでもない。ただ、ちょっと暑いだけだよ」


 リアンは慌てて視線を逸らした。彼女の真っ直ぐな青い瞳に見つめられると、胸の奥にある劣等感を見透かされているような気がして、いつも落ち着かなくなる。

 彼女は何も言わず、革袋をそっとリアンに差し出した。その白い指先が、微かに震えているのに気付いてしまう。彼女もまた自分のことを心配し、緊張しているのだ。受け取った革袋から水を飲みながら、その優しさが嬉しくて、それなのに期待に応えられない自分が、ひどくもどかしかった。



 やがて全ての喧騒を支配するかのように、教壇に立つ壮年の教師が、パンと大きく手を打ち鳴らした。アリーナの空気が引き締まり、潮が引くように静まり返る。


「――静粛に! これより、魔法実技の後半を始める!」


 教師の声がアリーナ全体に響き渡る。生徒たちの間に走る、緊張と興奮が入り混じったさざめき。今日の授業は、一対一の模擬戦。己の力を試し、仲間たちに披露する、学園生活における最も刺激的な時間の一つだ。


「対戦カードを発表する! 一組目、レオ・グラン対――」


 名前を呼ばれたレオは、「っしゃあ!」と快活な声を上げ、リアンの肩を力強く叩いてリングへと駆け上がっていく。その背中は、自信に満ち溢れていた。

 リアンは、そんな親友の姿を眩しく見つめる。


(すごいな、レオは…)


 いつだって、彼は自分の力を信じている。迷いがない。俺とは大違いだ。


「次、リナ・メイフィールド!」


 リナもまた、表情一つ変えずにリングへと向かう。彼女には、膨大な知識に裏打ちされた、静かな自信がある。


 次々と対戦カードが読み上げられ、アリーナは歓声と、魔法がぶつかり合う衝撃音に包まれていく。リアンの心臓は、自分の番が近付くにつれて、嫌な音を立てて速度を上げた。手のひらにじっとりと汗が滲み、握り締めた剣の柄が滑る。


(大丈夫、落ち着け。相手はカイじゃない。きっと、カイじゃない…)


 そう自分に言い聞かせた、その時だった。


「――次! リアン・アークライト対、カイ・ヴォルファード!」


 運命は、いつだって最も残酷な形で微笑む。

 その名を告げられた瞬間、アリーナの空気が、ぴたりと凍りついた。それまでの興奮が、一転して、好奇と憐れみに満ちた、悪意のない残酷さへと変質する。


「うわ、最悪の組み合わせ…」

「カイのやつ、一分かからないだろ」

「アークライト家の出来損ない、だっけ?」


 ひそひそと交わされる囁き声が、無数の針となってリアンの肌を刺す。

 そうだ、これが俺の現実。

 建国王アルトリウスの血を引く「アークライト」の姓。その偉大な名に泥を塗り続ける、「出来損ない」という見えない烙印。


 リアンは固く拳を握り締めた。震えを悟られまいと歯を食いしばる。視線の先では、カイが燃えるような赤髪をかき上げ、心底つまらなそうに、そしてどこか愉しむように、こちらを見下ろしていた。


 勝ちたい。

 今日こそ、あいつの自信に満ちた顔を歪ませてやりたい。

 レオのように、リナのように、胸を張りたい。

 そして、いつも心配そうに自分を見つめる彼女の前で――。


 リアンは観客席の一点を見つめた。そこにいるフィーリアの、祈るような青い瞳と視線がぶつかる。彼女の存在が、砕け散りそうになる彼の心をかろうじて繋ぎとめていた。


 リアンは全ての感情を押し殺し、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、決戦の場となるリングへと歩み始めた。

 今日こそは、と。

 そのあまりにもはかない決意を胸に秘めて。



「始め!」


 教官の無慈悲な号令が、アリーナの乾いた空気を引き裂いた。

 その瞬間、リアンは剣の柄を強く、爪が食い込むほどに握り締め、足元の白い砂を蹴った。舞い上がった砂粒が陽光にきらめき、スローモーションのように彼の視界を流れていく。心臓が肋骨の内側で暴れ、耳鳴りのように自分の血流の音だけが響いていた。


(先に、動く!)


 体内の生命エネルギー「エーテル」を練り上げる。腕に宿る紋章が淡い光を放ち、その力を奔流となって剣へと注ぎ込む。剣身に薄い光の膜――「闘気オーラ」が揺らめいた。狙うはカイが詠唱を始める前の一瞬。彼のプライドが高ければ高いほど、初動は油断するはずだ。その一瞬の隙に、この一撃を!


 しかし、カイは嘲笑あざらわうかのように、その場から一歩も動かなかった。優雅さすら感じさせる所作で、彼はそっと唇を開く。


「《炎よ、踊れ》――フレイムランス!」


 風がいだ。

 アリーナの歓声が、遠のいた。

 リアンの耳に届いたのは、カイの唇から紡がれた古代語の、静かで、しかし絶対的な響きだけ。信じられないほどの高速詠唱。彼の紋章――ヴォルファード家が誇る深紅の紋章が、禍々《まがまが》しいほどの光を放ち、リアンの眼前で、瞬時に十数本の炎の槍が形成される。空気がける匂いと、パチパチと火の粉がぜる音が、死の宣告のように空間を満たした。


「くっ…!」


 思考より先に、身体が動いていた。リアンは咄嗟とっさに剣を盾のように構え、ありったけの闘気オーラを刃の前に集中させる。半透明の光の膜が、辛うじて彼の全身を覆った。

 直後、世界が白と赤に染まる。


 轟音。


 凄まじい衝撃が、剣を、腕を、そして全身を打ち据える。一本、また一本と炎の槍が闘気オーラのシールドに突き刺さり、そのたびに鼓膜をつんざくような爆発音が響き渡った。視界は灼熱の閃光で焼かれ、熱波が肌を焦がす。闘気オーラの膜に亀裂が走り、リアンの身体は為すすべなく後方へと吹き飛ばされた。


「ぐ、ぁっ…!」


 砂の上に背中から叩きつけられ、肺から空気が強制的に絞り出される。咳き込む彼の足元に、カイは休む間もなく追撃の魔法陣を展開させた。赤い光の円環が、リアンの退路を断つように地面を這う。


「速さだけが取り柄か。芸がないな」


 砂埃の向こうから、カイの冷たい声が響いた。その声には何の感情も乗っていない。まるで道端の石を蹴飛ばすかのような、無関心。その無関心こそが、リアンの心の奥底にある、かさぶたになったばかりの劣等感を、容赦なくえぐり取った。


(まだだ…まだ、終われない…!)


 リアンは、砂の味のする唾を飲み込んだ。全身が悲鳴を上げている。だがここで膝をつけば、本当に終わりだ。カイの言う通り、ただの「出来損ない」だと、自分で自分を認めてしまうことになる。


『リアン、回り込め!』

『足場を崩して、奴の体勢を!』


 観客席から、レオとリナの声が飛んでくる。そうだ、俺は一人じゃない。リアンは、爆風を利用してさらに後方へ跳躍すると、カイの視界から一瞬だけ姿をくらました。そして、リナのアドバイスが脳裏をよぎる。――カイの攻撃パターンは派手だけど単調。初撃を凌いで、カウンターを狙うしかないわ。


(これしかない…!)


 リアンは、アリーナの壁を強く蹴った。これまで練習してきた中で最も成功率の低い、しかし最も速い技。闘気を足裏で爆発させて急加速し、死角に回り込む「瞬動」。彼の視界が、極限の集中によって引き伸ばされる。カイの驚く顔、仲間たちの歓声、そして――フィーリアの笑顔が、脳裏をよぎった。


(彼女の前で、無様なままじゃ終われない!)


 渾身の一撃。彼の全存在を懸けた剣が、カイの背後、その死角へと迫る。


 だがその一閃は、振り向きもせずに差し出されたカイの左手によって、あまりにもあっさりと、まるで戯れのように受け止められた。


「なっ…!?」


 リアンの剣に宿っていたけなげな闘気オーラは、カイの手甲に触れた瞬間、朝霧のように霧散した。手甲に刻まれた高位貴族ヴォルファード家の紋章が、嘲笑あざわらうかのように鈍い光を放っている。


「終わりだ」


 がら空きになった胴体に、カイの闘気オーラを黒々と纏わせた蹴りが、深々とめり込んだ。

 ごぷり、と喉の奥から嫌な音がした。息ができない。視界が明滅し、アリーナの白い砂の冷たさと、口の中に広がる血の鉄の味が、リアンの意識を現実へと引き戻す。


 遠ざかる意識の中、勝敗を告げる教官の声が、どこか遠くに聞こえた。


「…出来損ないは、どこまでいっても出来損ないだ」


 リングを降りる間際、カイが吐き捨てるように言った。その声は、アリーナの喧騒の中でも、やけにはっきりとリアンの耳に届いた。


「フィーリアの隣りに立つ資格など、お前にはない」


 その言葉が、リアンの心を完全に凍てつかせた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。授業の終わりを告げる鐘が鳴り響き、生徒たちが去っていく足音も、もう聞こえない。リアンは、ただ一人、立ち上がることもできずに、砂の上に横たわっていた。


「おい、リアン! 生きてるか!」


 がっしりとした影が、彼の視界を覆った。レオだ。彼の大きな手が、リアンの背中を容赦なく、しかし不器用に叩く。その温かさが、逆にリアンの惨めさを際立たせた。


「気にしてんじゃねえぞ! 最後の一撃、俺はすげえと思ったぜ! なあ、リナ!」

「ええ」


 続いて聞こえてきたのは、リナの冷静な声だった。彼女はリアンの傍らにしゃがみ込むと、その瞳を冷静に観察した。


「負傷は腹部への打撲による内臓への衝撃と、軽度のエーテル欠乏。治癒魔法が必要ね。…でも、さっきの『瞬動』、理論上は成功していたわ。身体強化のレベルが、あなたの制御能力を上回っただけ。これは収穫よ」


 彼女の言葉は慰めではない。次への布石であり、事実の分析だ。それが、彼女なりの優しさだとリアンは知っていた。


「でも、負けは負けだ…」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


「それに、あいつに言われた…。俺には、資格がないって…」


 レオとリナが、言葉に詰まる。その時だった。

 さらり、と衣擦れの音がして、三人の間に静かな影が落ちた。フィーリアだった。

 彼女は、何も言わなかった。ただ、リアンの傍らに膝をつき、彼の前にそっとしゃがみ込むと、懐から取り出した真っ白なハンカチで、彼の口元から流れた血を、壊れ物を扱うかのように優しく拭った。


 彼女の瞳は潤んでいたが、涙は流さない。そこにあるのは、カイへの静かな怒りと、リアンへの深い、深い愛情と悲しみ。リアンは、その真っ直ぐな瞳を見ることができなかった。

 彼女の指先から伝わる温かさと、ふわりと香る、雨上がりの庭に咲く白い花のような彼女自身の匂いに、リアンはただ唇を強く噛みしめる。


「…立てますか?」


 彼女が初めてリアンにかけた言葉だった。その声は震えていなかった。ただ、どこまでも澄んでいた。リアンはこみ上げてくる何かを必死にこらえ、ただ小さく頷くことしかできなかった。


 フィーリアはリアンに肩を貸し、レオと共に彼を支え起こす。

 アリーナの出口の回廊から、カイが冷たい目でその光景を見下ろしていた。その隣りには、彼を称える取り巻きたちの姿があった。


 大丈夫。いつものことだ。

 リアンはそう自分に言い聞かせた。

 しかし、カイの最後の言葉と、血を拭ってくれたハンカチに残るフィーリアの温もりが、彼の心に深く、深く突き刺さって、抜けることはなかった。

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