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エピローグ

 魔王が消滅し、地下祭壇が崩壊してから、七日が過ぎた。

 あの日、地下に差し込んだ一条の光は、本物の「暁」となって、五百年ぶりに魔封学園「暁の境界」を、そして世界を、呪いから解放した。

 空はどこまでも青く澄み渡り、風はただ穏やかに、傷ついた大地を優しく撫でていく。



 その日の夕暮れ、リアン、フィーリア、レオ、リナ、そしてカイの五人は、カルデラ湖『静寂の揺り籠サイレント・クレイドル』を見渡せる、あの思い出の丘の上に立っていた。

 眼下には、一部が損壊しながらも、復興への槌音を響かせ始めた白亜の学園と、鏡のように静かな湖面が広がっている。空には一番星が、他のどの星よりも早く、力強い輝きを放ち始めていた。


「…すまなかった」


 最初に沈黙を破ったのは、カイだった。

 彼は、リアンたち四人に、深く、深く、頭を下げた。その肩は、後悔の念に、か細く震えている。

「僕の、僕の愚かさが、全てを滅ぼしかけた…。どんな罰でも、受けるつもりだ」

 かつての傲慢な天才の姿は、そこにはなかった。ただ、自らの罪の重さに打ちひしがれる、一人の傷ついた少年がいるだけだった。


 その彼の肩を、一つの大きな手が、乱暴に、しかしどこまでも優しく叩いた。レオだった。

「頭を上げろよ、カイ」

 彼の声は、いつも通り、快活だった。

「お前も、最後は俺たちと一緒に戦った仲間だろ。だったら、それでいいじゃねえか」

「そうよ」

 リナが、眼鏡の位置を直しながら、同意する。

「あなたの犯した罪は、決して消えない。でも、その罪をこれからどうやって償っていくか。それが、今のあなたに問われていることよ。…私たちも手伝うわ。一人で背負い込もうなんて、思わないことね」


 カイは、顔を上げることができない。ただその瞳から、熱い雫がぽろぽろと地面に落ちて、小さな染みを作っていった。


 リアンとフィーリアは、そんな仲間たちのやり取りを、ただ静かに見つめていた。

 平和が戻った。心から、そう思う。

 それなのに。

 なぜだろう。胸にぽっかりと、大きな穴が空いたような、この説明のつかない喪失感は。


「なあ、フィーリア」

 リアンが、一番星を見上げながら、呟いた。

「なんだか、夢を見ていたみたいだ。とても、長くて…とても、大事な誰かを、忘れてしまったような…そんな夢を」

「…はい」

 フィーリアも、同じ星を見上げていた。

「私も、同じです。私の心も、あなたの心も、確かに、誰かに救われた。それなのに、その人の顔も、名前も、どうしても思い出せないのです」

 彼女の青い瞳から、理由の分からない涙が、一筋、頬を伝った。

「でも、すごく感謝しなきゃいけない。そう、魂が叫んでいるんです」


 リアンは、そんな彼女の涙をそっと指で拭うと、力強く頷いた。

 五人はそれぞれの想いを胸に、その一番星が、夜空の全てを支配するまで、いつまでも、いつまでも、丘の上に立ち尽くしていた。



 それから、十年後。

 魔封学園「暁の境界」は、その名を変え、魔王を封じるためではなく、未来を担う若者たちを育む、大陸で最も自由な学び舎として、その歴史を新たに刻んでいた。

 修練場では、日に焼けた、筋骨隆々の男が、生徒たちに檄を飛ばしている。

「足が止まってんぞ! 仲間がやられても、そうやって見てるだけか! 剣や魔法の前に、仲間を守る心を鍛えろ!」

 レオ・グラン。彼は、学園の戦闘教官として、誰よりも熱く、そして誰よりも優しく、未来の守護者たちを育てていた。


 大図書館の館長室。

 深い青のドレスを纏った一人の女性が、膨大な古文書に囲まれながら、静かにペンを走らせていた。

 リナ・メイフィールド。彼女は、学園の図書館長と、アークライト神聖帝国の宮廷魔導師を兼任していた。失われた古代魔法を研究し、その知識が二度と悲劇を生まないように、正しく管理し、次世代に伝えること。それが、彼女の生涯を懸けた仕事だった。

「おい、リナ! また籠もってんのか? たまには顔出せよな!」

 ドアから、ひょっこりとレオが顔を出す。

「うるさいわね、脳筋ゴリラ。あなたの筋肉と、わたしの知性を一緒にしないでちょうだい」

 彼女たちの軽口の応酬は、十年前と何一つ変わっていないようだ。


 そして、帝都アーケンシルト。

 かつての名門貴族、ヴォルファード家の当主は、その私財のほとんどを、帝国の復興と、戦災孤児たちのための施設を設立するために、使い果たしていた。

 カイ・ヴォルファード。

 かつての傲慢な面影はなく、その顔には、深い思慮と、自らの罪を、その生涯を懸けて償い続けようとする、静かな覚悟が刻まれている。

 彼が心から笑える日は、決して来ないのかもしれない。

 しかし、彼が支援した孤児院の子供たちが、彼を「カイ先生」と呼び、屈託のない笑顔で駆け寄ってくる時、彼の金色の瞳には、確かに、穏やかな光が宿るのだった。



 さらに、十年後。

 リアンとフィーリアの、故郷の村。

 全てが始まった、あの丘の上。

 初夏の夕暮れが、世界を金色の光で満たしていた。眼下には平和な村と、風に揺れる麦畑が、どこまでも、どこまでも広がっている。


「お父さん、見て!」「お母さん、捕まえて!」

 丘の上を、二人の子供が、楽しそうに駆け回っていた。

 一人は、父親譲りの、真っ直ぐな翠色の瞳を持つ少年。

 もう一人は、母親譲りの、月光のような銀髪を持つ、小さな少女。


 その光景を、リアン・アークライトと、彼の妻となったフィーリア・アークライトは、穏やかな微笑みで、見つめていた。

 リアンは、アークライト家の当主として、そして、大陸一と謳われる鍛冶屋として、人々から尊敬を集めていた。フィーリアは、村で小さなハーブ園と診療所を開き、その知識と優しさで、多くの人々を癒し、「丘の上の聖女様」と慕われていた。

 それは、誰もが夢見た、完璧な、幸福の絵姿だった。


「…不思議ですね」

 フィーリアが、そっと、リアンの肩に寄り添いながら、呟いた。

「こうして、幸せな時間を過ごせば過ごすほど、時々、思うんです。私たちのこの幸せは、まるで誰かが与えてくれた、大切な、大切な、贈り物のような気がして…」

「ああ、俺もだ」

 リアンは、彼女の肩を、優しく抱き寄せた。

「顔も、名前も、どうしても思い出せない。でも、確かにいたんだ。俺たちを、この未来へ、命懸けで導いてくれた、誰かが…」


 二人は、言葉を交わすことなく、ただ夕暮れの空を見上げた。

 そこには、どの星よりも早く、一番星が、力強く、そして、どこか寂しげに、輝き始めていた。

 その星を、この国では、「戦神アレスの星」と呼ぶ。


 リアンは、フィーリアの手を、優しく、しかし、力強く握りしめた。

「だから俺たちは、胸を張って、幸せにならなきゃいけない。その『誰か』のためにもな」

 フィーリアは、その瞳に、温かい涙を浮かべながら、最高の笑顔で、頷いた。

「はい、リアン」



 物語は、ここで終わる。

 リアンとフィーリアは、英雄アレスの存在を知らぬまま、彼がその魂の全てを懸けて贈った、幸福な未来を生きていく。

 これ以上のハッピーエンドはないのかもしれない。

 しかし、本当にそれでいいのだろうか。


 もしあなたが、夜空に一番星を見つけたなら。

 どうか、思い出してほしい。

 誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、それでも、確かに世界を救い、愛する者を未来へと送り届けた、一人の孤独な英雄がいたことを。


 彼の名は、アレス。

 その名は、戦いの神を意味する。

 だが、彼が本当に戦っていたのは、魔王ではなく、自らの運命と、愛する者を失うという絶望だったのかもしれない。


 彼の物語は、忘れ去られる。

 しかし、彼が創ったこの温かい世界は、永遠に続いていく。

 それこそが、彼のたった一つの、そして、最高の望みであったと、信じて。


《完》

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