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第十二話 決意

 夜明け前の、忘れ去られた修練場。

 東の空が、まるで古い傷口のように、鈍い茜色に染まり始めている。星々は、その最後の輝きを失い、夜の闇は、濃紺から深い鉛色へと、その色を虚ろに変えていた。

 空気はガラスのように冷たく、鋭利で、吸い込むたびに肺の奥が痛んだ。地面を覆う夜露が、月光の名残を浴びて、無数の小さな墓標のように青白く光っている。

 世界の全てが、まだ眠りについているかのような、死んだような静寂。

 その中で、リアン・アークライトは、ただ一人立っていた。


 彼の目の前に、音もなくアレスが姿を現す。

 闇そのものが人の形をとって、そこに凝固したかのようだった。彼が発するオーラは、もはやリアンがかつて憧れた「強者」のものではない。それは、全ての感情を殺し尽くし、全ての希望を諦観した果てにある、絶対的な「虚無」の気配。

 リアンは本能的に、全身の産毛が逆立つのを感じた。


「今日から、訓練を変える」


 アレスの声は、夜明け前の静寂の中で、まるで遠い世界の神託のように、抑揚なく響いた。

「これまでは、お前の身体を鍛えてきた。剣の振り方、足の運び、エーテルの流れ。だが、そんなものは、所詮、器を磨いただけにすぎん」

 彼は、ゆっくりとリアンに歩み寄る。その足音一つ一つが、リアンの心臓に、重い楔を打ち込むようだった。

「本当に脆く、そして救いようがないのは、お前の心だ。仲間という名の温室に守られ、敗北に慣れきった、甘っちょろい精神。それを一度、完全に叩き壊す」

「…っ!」

「そして、その瓦礫の中から、本物の『力』を、お前自身の力で掴み取らせる。それが、俺の、最後の特訓だ」


 アレスが、黒い鞘に収められた剣を、ゆっくりと抜いた。

 その刀身は、夜明け前の薄光を吸い込んで、闇よりもなお暗く、鈍い光を放っている。

 その瞬間から、それは、もはや「訓練」ではなくなった。

 一方的な、生存を賭けた、闘争の始まりだった。


 アレスは、一切の言葉を発しない。

 ただひたすらに、リアンを打ちのめし続けた。

 リアンが剣を構える。その構えの僅かな重心のブレ、コンマ数ミリの肘の上がり。それを、アレスの剣の鞘が、寸分の狂いもなく、骨の髄まで響くような衝撃と共に、打ち据える。


「ぐっ…!」

 腕に走る、激しい痺れ。


 リアンが闘気(オーラ)を練る。そのエーテルの流れの、ほんの僅かな淀みを、アレスは的確に見抜き、その流れを断ち切るように、リアンの体の経絡ツボを、指先で軽く、しかし正確に突いた。リアンの体から、力が意思とは無関係に、霧のように抜けていく。

 彼は、自分が透明な存在になり、魂の内側から、その構造の全てを見透かされているかのような、屈辱的な感覚に襲われた。


 それでも、彼は抗った。

「《光よ、集え》――ライトアロー!」

 牽制のために放った光の矢は、アレスの作り出す、見えない風の障壁に触れた瞬間、まるで水面に落ちた絵の具のように、虚しく拡散して消えた。

「《大地の檻よ》――ロックウォール!」

 足止めのために地面から突き上げさせた土の壁は、アレスがその上を、まるで存在しないかのように、ふわりと通り抜けていく。

 彼の全ての行動、全ての思考が、完全に読まれている。


 彼は、泥の味と、血の鉄の味と、汗の塩辛さを、何度も、何度も、舌の上で味わった。地面に叩きつけられ、石畳の冷たさと硬さを、その全身で、記憶に刻みつけた。

 自分の、喘ぐような荒い呼吸と、アレスの、まるで機械のように規則正しく、静かな息遣いの対比が、彼の心を絶望の淵へと追いやっていく。


 やがてリアンは、もう立ち上がることさえできなくなった。

 その、肉体が限界を迎えた彼の耳元で、アレスが初めて、静かに悪魔のように、語りかけた。


「なぜ立てない?」

 その声は、氷のように冷たかった。

「お前の足は、仲間を見捨てて、逃げるためにしか使えんのか?」

「……違う」

「何が違う。お前は、いつだってそうだ。レオという名の盾の後ろに隠れ、リナという名の知性に頼り、そして、フィーリア・クレセントという名の優しさに、ただ甘えているだけだ」

「違うッ!」

「では、立て。そして、振れ。その剣を」


 アレスの言葉の一つ一つが、熱した鉄で、リアンの最も柔らかな部分を、抉るように焼いていく。

「思い出せ、リアン。模擬戦でカイに負けた、あの日の屈辱を。あの時、お前は無様に負けた。そして今、この瞬間も、お前はあの時から、何一つ変わっていない。いや…」

 アレスは、そこで一度、言葉を切った。

 そして、この世の全ての軽蔑を込めて、言い放った。

「仲間という温室に甘え、さらに弱くなった」


 リアンの脳裏に、仲間たちの顔が、フィーリアの笑顔が、そしてカイの嘲笑が、悪夢のようにフラッシュバックする。

 彼は、叫びたくても声が出ない。涙を流したくても、涙はもう枯れ果てていた。

 彼の精神が、音を立てて砕け散っていく。


「お前のその優しさは、猛毒だ」

 アレスは、とどめを刺すように、続けた。

「仲間を蝕み、フィーリアを殺し、そして、お前自身を滅ぼす、最も甘美な呪いなのだ」


 その日の夕方。

 仲間たちが、ボロボロになったリアンの元へ、修練場へと駆けつけた。

「おい、リアン! 最近のお前、おかしいぜ! あの黒衣の野郎に、一体、何をされてるんだ!」

 レオの、心からの心配の声。

「彼の言う通りよ。あなたのエーテルは、憎しみと焦りで濁っている。そんな状態で、まともな力は引き出せないわ」

 リナの、冷静だが、深い憂いを帯びた声。

 そして、フィーリアが、手作りの栄養スープの入ったポットを手に、おずおずと、彼の前に差し出した。

「リアン…せめて、これを…」


 しかし、精神を破壊され、アレスの言葉という「毒」を、その魂の奥深くまで注ぎ込まれたリアンには、彼らのその優しさは、もはや届かなかった。

 それは、自分の弱さを肯定し、自分をこのぬるま湯の地獄に引き戻そうとする、悪魔の囁きにしか聞こえなかった。


 彼は、感情のない人形のような目で、仲間たちを見つめた。

 そして、フィーリアの差し出すスープのポットを、その手で、振り払った。


 ガシャン、と。

 ポットが床に落ちて割れ、温かいスープが、無残に広がっていく。カモミールの優しい香りが、この場違いな空間に、悲しく満ちた。


「…いらない」

 リアンの唇から、乾いた色のない声が漏れた。

「放っておいてくれ」


 彼は、言葉を失って立ち尽くす仲間たちに、そして、信じられないという表情で、その青い瞳から、一筋の涙をこぼすフィーリアに背を向けた。

 彼は、再び、アレスが待つ、修練場の闇へと、歩き出す。

 強くなるために、自ら、最も大切な絆を、断ち切り始めたのだ。

 彼の孤独な魂が、英雄ではなく、修羅への道を、この瞬間、確かに歩み始めていた。

 その背中を、フィーリアの絶望に濡れた青い瞳が、いつまでも見つめていた。



 リアンがアレスとの地獄のような訓練に明け暮れていた、その頃。

 フィーリア・クレセントもまた、独り、別の地獄を歩んでいた。

 彼女の戦場は、剣戟の音が響く修練場ではない。月明かりさえも届かぬ、大図書館の最も奥深い場所。そこは、世界の全ての知識が眠る、静寂の聖域であり、同時に、触れてはならない真実が封印された、呪われた迷宮でもあった。


 リアンに拒絶された、あの夜から。

 彼女の生活から、色は消えた。昼間は、教室で、仲間たちの輪の中で、完璧な笑顔の仮面を被る。しかし、その青い瞳の奥には、常に、リアンの苦悩と、そして、あの日見つけてしまった古文書の不吉な記述が、暗い影を落としていた。

『聖剣は魂を喰らう』

『歴代の勇者たちは、皆、若くして歴史から姿を消している』

 その言葉が、彼女の心に、消えない棘のように突き刺さっていた。


(リアンを、守らなければ)


 その一心だけが、彼女を支えていた。

 夜ごと、彼女は寮を抜け出し、大図書館へと向かう。彼女の目的は、ただ一つ。リアンの紋章に秘められた「刻印魔法」の真髄を解き明かし、彼が「聖剣」などに頼らずとも、自らの力で運命を切り拓くための、別の道を見つけ出すこと。

 それは、あまりにも無謀で、孤独な戦いだった。


 そしてその探求は、必然的に一つの壁へと突き当たる。

 全ての答えが眠る場所――「禁書庫」。

 創設以来、選ばれた教師以外、誰も足を踏み入れることを許されない、学園の最深部。

 その分厚く、古代ルーンが刻まれた扉は、彼女の前に、絶対的な拒絶の意思をもって、そびえ立っていた。扉に触れると、ひやりとした、魔力が肌を吸い上げるような、不気味な感覚がした。


「…開かない」


 彼女は、諦めなかった。

 扉の封印を解くための、別の古代魔法の文献を探し始める。それは、大海からたった一粒の砂金を探すような、途方もない作業だった。

 彼女の白い指は、インクと埃で汚れ、その美しい瞳の下には、日に日に深い隈が刻まれていった。

 リアンを想う、そのひたむきな愛だけが、彼女を狂気の淵から、かろうじて繋ぎとめていた。


 その夜も、フィーリアは禁書庫の前にいた。

 月明かりが高い窓から差し込み、彼女の銀髪を、まるで聖女の後光のように、青白く照らし出している。彼女は、地面に複雑な魔法陣を描き、封印を解くための、新たな解呪式を試みようとしていた。

 その、彼女の背後から、音もなく、一つの影が現れた。


「――やめておけ」


 その声に、フィーリアの肩がびくりと跳ねた。

 振り返ると、そこに立っていたのは「黒衣の男」。アレスだった。

 彼の姿は、大図書館の深い闇に溶け込み、まるで闇そのものが人の形をとったかのようだ。

「その扉の先にあるのは、お前が求めているような希望ではない。ただの、絶望だけだ」

 アレスの声は静かで、魂を直接凍らせるような、絶対的な冷たさを帯びていた。


 フィーリアは、驚きと恐怖に息を呑んだ。

 しかし彼女は、フードの奥で光る彼の瞳の色を見て、さらに大きな衝撃を受けた。

(この瞳…リアンと、同じ…)

 深い、深い、翠色の瞳。だが、リアンのような、時折、不安げに揺らめく光はない。そこにあるのは、全ての希望を諦観した果てにある、静かで底なしの闇だけだった。どれだけの絶望を味わったら、こんな瞳になるのであろう。それは、彼女の想像の遥か外にあった。


「あなたは、一体、誰なのですか」

 フィーリアの声は、震えていた。

「なぜ、私が何を知りたいか、分かるのですか」


 アレスは、答えなかった。

 彼は自分が、この歴史に、この時間軸に、存在してはならない存在であることを、誰よりも知っていた。彼女のこの純粋な探求心こそが、悲劇を回避するための、最大の障害となる可能性があった。

 彼は、彼女を止めなければならなかった。彼女自身を、そして自分の計画を守るために。

(俺の計画では、お前がここまで早く、深く、真実に近づくはずではなかった…!)


「その知識は、彼を、そしてお前自身を、破滅させる」

 アレスは、感情を殺し、事実だけを告げた。

 その言葉に、フィーリアは、自分の予感が、最悪の形で的中していたことを悟った。

 彼女は、目の前の男が、リアンの「敵」ではないことも、直感的に理解していた。この男の瞳の奥底にある絶望は、リアンを想う者だけが宿すことのできる、深い悲しみの色をしていたからだ。

 彼女は、恐怖を振り払い、毅然として、アレスを見据えた。


「それでも、私は知らなければなりません」

 その声には、もう震えはなかった。

「彼が、リアンが、謂れのない宿命に犠牲になる未来など、私には到底受け入れられないからです。たとえ、その真実が絶望だとしても」


 その、あまりにも強く、そして気高い魂の輝き。

 アレスは、言葉を失った。

 ああ、そうだ。彼女は、いつだって、こういう女だった。

 か弱く、はかなげに見えて、その芯にはどんな英雄よりも強く、決して折れることのない鋼の意志を宿している。

 歴史の修正力、という言葉では、もはや説明がつかない。

 リアンを想う、彼女のこの愛の力そのものが、この世界のもう一つの「理」なのだ。


「…愚かなことだ」

 アレスは、それだけを呟くと、彼女に背を向けた。

 これ以上、何を言っても無駄だろう。彼女を力で止めれば、歴史はさらに予測不能な方向へと歪むかもしれない。

 彼は、闇の中へと、その姿を溶かすように消えていった。


 一人、残されたフィーリアは、アレスが消えた闇を、しばらくの間じっと見つめていた。

 彼の言葉の意味を、彼の瞳の奥にあった絶望の意味を、彼女はまだ完全には理解できない。

 それでも、彼女の決意は、もはや誰にも止められないものとなっていた。

 彼女は、震える手で、再び、地面の魔法陣へと向き直る。

 その横顔は、愛する人を救うため、禁忌の扉を開けようとする、悲壮な覚悟に満ちていた。



 俺は、アレスだ。

 この世界において、俺は脚本家であり、演出家であり、そして、たった一人の観客だった。

 俺が描くべき物語のタイトルは、決まっている。


『リアン・アークライトの英雄譚』。

 その、ハッピーエンドのためならば、俺はどんな役でも演じよう。たとえそれが、最も忌むべき、鬼の役だとしても。


 リアンを、過去の俺を、修羅の道へと完全に突き落とすための、最後の仕掛けが必要だった。

 強さへの渇望。仲間への罪悪感。そして、フィーリアへの想い。彼の中で渦巻く、その不安定な感情を、一つの揺るぎない方向へと収束させるための、劇薬が。


 その日の訓練を終え、俺はリアンに背を向けた。

 俺は知っている。彼が、俺の後をつけてくることを。彼の魂は、俺という巨大な謎を、解き明かしたくてたまらないのだから。それもまた、俺の書いた脚本通りだ。


 俺が向かった先は、大図書館の裏手にある、忘れ去られた中庭。

 そこは俺が、この物語の、最も重要なシーンの舞台として選んだ場所だ。

 月桂樹の木々がアーチを作り、中央には苔むした小さな噴水がある。月明かりが、その場所を、銀色の舞台のように、幻想的に染め上げていた。

 俺は、噴水の縁に腰掛け、夜空を見上げながら、もう一人の役者が現れるのを待った。


(すまない、フィーリア)

 俺は、心の中で、彼女に謝罪した。

(お前を利用する。リアンを、本当の修羅にするために、お前のその気高い覚悟すら、俺は利用する)


 やがて、月桂樹の木陰から、一人の少女がそっと姿を現した。

 銀色の、長い髪。

 フィーリアだった。

 彼女が今夜ここに来ることも、俺は知っていた。なぜなら俺が、彼女にしか分からない古代ルーンの暗号で、「話がある」と呼び出したからだ。

 柱の影に、リアンの気配が潜んでいることにも、とっくの昔に気付いている。


 さあ、始めようか。

 俺と、フィーリアと、そして、何も知らずに絶望する、過去の俺。

 三人のための、最後の対話を。


「――本当に、それでいいんだな、フィーリア」

 俺は立ち上がり、彼女に向き直った。声は意図して、どこまでも冷たく、重く響かせる。

「禁書庫で見つけた知識は、お前が考えているような、希望の道ではない。それはお前自身を、だからこそ、回り回ってリアンをも、破滅に導くだけなのだ。今ならまだ、引き返せる」


 俺は、本心から彼女を止めようとしていた。これが、俺が歴史に抗う、最後の試みだった。この二ヶ月、俺は何度も彼女の探求を止めようとしたが、彼女の意志は、俺の想像の何倍、何十倍も固かった。


 フィーリアは、俺の翠色の瞳を、じっと見つめ返してきた。その青い瞳には、もはや恐怖の色はない。ただ、全てを受け入れた者の、深い、深い静けさが広がっている。


「いいえ。私は、引き返しません」

 彼女の声は、か細く、だが、決して折れることのない、芯の強さを持っていた。

「書かれていた『代償』の運命から、私がリアンを救います。そのための方法も、もう見つけましたから」


 やはり、彼女は「魂の鞘」の術式にたどり着いてしまっていた。

「その道がお前自身を犠牲にすると、分かっているのか」

 俺は、問い詰める。

「リアンは、お前を失ってまで手に入れた未来を、喜ぶとでも思うのか」

 過去の俺が、どれほどの絶望を味わったか。その記憶が、俺の胸を焼く。


「彼は、最初は苦しむでしょう。たくさん、泣くかもしれません」

 フィーリアは、目を伏せた。しかし、すぐに顔を上げる。その瞳には、絶対的な信頼の光が宿っていた。

「でも、彼は強い人です。レオさんやリナさんがいます。彼なら、きっと、乗り越えて、幸せになってくれるはずです。…それが、私の信じる、リアンです」


 ああ、そうだ。お前は、いつだって、そうだったな。

 誰よりも、リアン・アークライトという男の弱さと、そして本当の強さを、信じていた。

 俺は、彼女のその信頼が眩しくて、喉の奥が、熱くなるのを感じた。


「俺のことも、分かっているのだろう?」

 俺は、最後の問いを投げかけた。

 フィーリアは、一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに全てを悟ったかのように、悲しげに、慈しむように、微笑んだ。


「はい」

 彼女の声は、まるで、迷子の子供をあやす、聖母のようだった。

「あなたのその瞳の色、そして、リアンを想う、そのどうしようもないほどの痛み…あなたは、未来で、彼を守れなかった、後悔そのものなのでしょう?」

 彼女の言葉が、俺の心の、最後の壁を、粉々に打ち砕いた。

「だから、私は行きます。彼を救うことは、未来で、永い時間、独りで苦しみ続けてきたあなたをも、その絶望の輪廻から、解放することになると、信じていますから」


 彼女は、俺をも、救おうとしているのだ。

 この罪深く汚れた、未来の亡霊である俺をも。

 ああ、フィーリア。お前の愛は、なんて無慈悲で、なんて美しいのだろう。


 俺は、もう何も言えなかった。

 彼女の覚悟は、俺の想像を、俺の計画を、遥かに超えていた。

 彼女を止めることは、もはや誰にもできない。

 ならば。

 ならば、俺がすべきことは、ただ一つ。


 彼女のこの気高い覚悟を、リアンを、本当の修羅へと変えるための、最後の劇薬として利用する。


「…愚かなことだ」

 俺は、それだけを呟くと、彼女に背を向けた。

 そして、柱の影で、息を殺している過去の自分の気配に向かって、心の中でだけ冷たく、非情に、語りかけた。


(見たか、リアン)

(これが、お前が守ると誓った女の、本当の姿だ)

(お前が知らないところで、彼女はたった独りで、これほどの覚悟を決めている)

(今の弱いお前に、彼女の隣に立つ資格があると思うか?)


(もっと、渇望しろ)

(全てを捨ててでも、この運命に抗えるほどの、絶対的な力を)


 俺は、闇の中へと、その姿を消した。

 後に残されたのは、悲壮な決意を新たにする少女と、絶望的な誤解にその心を砕かれた、一人の少年だけだった。

 舞台の幕は、上がった。

 あとは主役が、修羅として覚醒するのを待つだけだ。

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