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第十一話 誤算

 俺は、アレスだ。


 その名が、もはや俺の全てだった。リアン・アークライトという、弱くて、愚かで、そして幸せだった少年は、あの崩壊の夜に死んだ。俺が、この手で殺したのだ。その魂を乗っ取ることで。


 魔封学園「暁の境界」の入学式。

 大講堂の高い天井から、荘厳なパイプオルガンの音色が、祝福の雨のように降り注いでいる。希望に満ちた新入生たちの、期待と不安が入り混じったざわめきが、聖なる空間を満たしていた。

 俺は、学園長から特例で与えられた関係者席――上階の薄暗いバルコニーから、その光景を、ただ見下ろしていた。


 眼下に広がる、無数の顔、顔、顔。

 その中で、俺の目は、一点だけが、まるで色がついて見えるかのように、かつての仲間たちの姿を正確に捉えていた。

 まだ何も知らず、少し不安げに、しかし決意を秘めた翠色の瞳で、壇上を見つめている、過去の「俺」。

 その隣りで、彼の横顔を、春の陽だまりのような、優しい微笑みで見守っている、フィーリア。

 大あくびを噛み殺しながら、退屈そうにしているレオ。

 腕を組み、冷静な視線で講堂の構造を分析しているかのような、リナ。


(ああ、そこにいるのか。俺も、フィーリアも…みんな…)


 笑っている。

 彼らはまだ、何も知らない。

 これからお前たちの身に降りかかる絶望も、フィーリアが流すことになる無数の涙の理由も、そして、お前たちの未来を奪って、今、こんな淀んだ目で見下ろしている俺という存在の、その罪の重さも、何も。


『――諸君らの学園生活が、輝かしいものとなることを、心より祈っている』


 学園長のありきたりな祝辞が、教会に響く葬送の鐘のように、俺の耳には聞こえた。

 講堂が、割れんばかりの拍手に包まれる。

 俺は、拍手をしなかった。ただ、固く、固く、拳を握り締める。バルコニーの石の手すりが、俺の力に、ミシリと軋む音がした。

 そうだ。輝かしいものに、してみせるさ。今度こそ。この魂の全てを懸けても。



 二度目の学園生活は、地獄だった。

 それは、アレスとしての過酷な訓練の日々よりも、ある意味では、遥かに残酷な時間だった。俺は、学園の敷地の最も外れにある、今は使われていない古い塔に研究室を与えられ、誰とも関わることなく、ただ息を潜めるように日々を送った。


 塔の窓から、俺は、魔法の水晶を通して、彼らの日常を監視した。


 教室の風景。

 レオが教師に叱られ、リナがやれやれとため息をつき、フィーリアが困ったように笑い、そして過去の「俺」が、その光景の中心で、仲間たちと、確かに笑っている。その全てが、失われた宝物のように、あまりにも輝かしく、そして、あまりにも遠かった。

 一日が終わる頃には、俺の心は、どうしようもないほどの喪失感で、ずたずたに引き裂かれていた。


 食事は、学生たちとは別の時間に、一人で摂るようにしていた。

 しかし、ある日の昼下がり、資料を返しに大図書館へ向かう途中、中庭で食事をする彼らと、鉢合わせてしまった。

 太陽の下で、大きな木の根に腰掛けて、車座になって笑い合う四人。


「あ、リアン、口の周りにソースがついていますよ」

「え、うそ、どこ!?」

「もう、仕方ありませんね…」


 フィーリアが、ハンカチを取り出して、リアンの口元を優しく拭ってやっている。その光景に、レオとリナが、ニヤニヤと笑いながら茶々を入れている。

 風に乗って、フィーリアが今朝焼いたという、少し焦げたハーブクッキーの甘い香りが、俺の鼻腔をくすぐった。

 その香りが、俺の記憶の扉を、容赦なくこじ開ける。俺が失った、温かくて、甘くて、二度と手に入らない、日常の香り。

 激しい痛みが、胸を貫いた。

 俺は、フードを目深に引き下げ、足早に、その幸福な光景から逃げるように、通り過ぎた。


「…?」

 フィーリアが、ふと、俺の気配に気付いたように、不思議そうにこちらに視線を向けた。その青い瞳が、俺の心を射抜く前に、俺は回廊の角を曲がり、闇の中へと消えた。


 そして、俺は、あの光景を、再び見ることになる。

 一年生のときの、カイとの模擬戦。

 俺は、遠くの建物の屋上から、その全てを見届けていた。

 過去の俺が、カイの圧倒的な力の前に、無様に打ちのめされる。カイの傲慢な言葉。そして、フィーリアの、心を痛める悲しげな瞳。

 俺は、手を出したい衝動に、奥歯を強く噛み締めた。拳を握り締め、その爪が手のひらに深く、深く食い込む。じわりと血の匂いがした。

(まだだ…)

 俺は、自分に言い聞かせる。

(この屈辱が、この痛みが、リアンを強くする最初の種となる。俺は、それを奪うわけにはいかない…)


 季節は過ぎ、学年末の進級試験「遺物探索」の夜が来た。

 俺は、学園の時計塔の、最も高い尖塔の上に、一人座っていた。

 冷たい夜風が、俺の黒衣を激しくはためかせる。ここからなら、眼下に広がる「迷いの森」の全てを、見渡すことができた。

 俺の意識は、森の中を進む、四つの小さな光――リアンたちの魔力光を、寸分違わず捉えていた。


 やがて、記憶通り、シャドウ・ハウルの群れが、彼らの不協和音が生んだ隙を突いて、襲いかかった。

(来たか…)

 俺は、息を殺して、その戦いを見守る。

 俺の記憶では、この後、リアンがフィーリアを守るために、土壇場で潜在能力を発揮し、辛うじて窮地を脱した。だが、それはあまりにも多くの偶然が重なった、不確実な奇跡だった。

 俺は、その「もしも」を許容できない。

 リアンの成長は必要だ。しかしそれは、仲間との絆の重要性を、より確かな形で学ぶべきだ。独りよがりの英雄譚ではなく。


 俺は、一体のシャドウ・ハウル――フィーリアに最も近い位置取りをしている個体に、意識を集中させた。

 そして指先で、足元の小さな石くれを弾く。

 その石に、最小限のエーテルを込めた「加速」と「硬化」の刻印を、瞬時に刻み込んで。


 ヒュッ、と。

 夜の闇を切り裂いて、石くれが、音もなく、そのシャドウ・ハウルの眼前に着弾した。

 魔物の注意が、ほんの一瞬だけ、わずかにそちらに逸れる。

 たった、それだけ。

 だが、戦場において、その一瞬は永遠にも等しい意味を持った。


「今よ!」

 その隙を、リナが見逃さなかった。彼女の詠唱が、予定より一秒早く完了し、水の精霊が作り出した粘着質の泡が、魔物の群れの動きを封じ込める。

「うおおおっ!」

 体勢を立て直す余裕を得たレオが、雄叫びを上げて反撃を開始した。

 戦況は、一気に傾いた。

 過去の俺が決死の覚悟で前に出るまでもなく、戦いはレオとリナの、そしてフィーリアの完璧な連携によって、終結した。


 俺は塔の上から、その光景をただ静かに見下ろしていた。

 戦いを終え、互いの健闘を称え合う四人の姿。

 安堵の表情を浮かべるフィーリアの笑顔。

 その光景に、俺の胸は、温かい光と冷たい痛みとで、同時に満たされていた。


(今は、それでいい)

 俺は、夜の闇に、独り呟いた。

(お前はまだ、独りで立つには早すぎる。まず知るべきは、仲間の温もりと、共に戦うことの意味だ。お前が失ったものではなく、お前が持っているものの価値を、その身に刻め)


(だが、この程度の試練で立ち止まるなよ、リアン)

(お前が次に超えるべき壁は、この俺が用意してやる)

(お前が本当の力を、心の底から渇望するようになる、絶望という名の壁を…)


 俺は、月明かりの下で、静かに立ち上がった。

 俺の本当の特訓は、これから始まる。

 この二度目の世界で、俺は、俺自身の手で、過去の俺を、英雄へと、そして修羅へと、作り変えるのだ。

 愛するフィーリアを、今度こそ救うために。



 さらに季節は巡り、長く厳しかった冬が終わった。

 学園を覆っていた雪は解け、大地からは新しい草花の芽が顔を出す。中庭の小川は、雪解け水を集めてきらきらと輝き、どこからか花の蜜の甘い香りが風に乗って運ばれてくる。春。希望の季節だ。

 二年生に進級したリアンたちは、それぞれが選んだ専門科の、真新しい制服に身を包んでいた。


 リアンは、憧れだった「聖剣士科」に所属した。カイと同じクラスになったが、もう、彼に対して一方的に怯えることはない。あの日の勝利は、彼に、カイと対等な立場で競い合う資格を与えてくれたのだ。

(いつか必ず、正々堂々と、あいつを超えてみせる)

 彼の心には、健全で、前向きなライバル心が燃えていた。


 その変化は、彼とフィーリアとの距離も、確実に縮めていた。

 放課後、二人で大図書館へ向かうのが、彼らの新しい日課となった。リアンは、自分の紋章について、そして刻印魔法について、本格的に学び始めた。フィーリアは、その隣りで、彼の探求を、自分のことのように喜び、その膨大な知識で彼を支えた。


「この古文書によれば、アークライト家の刻印魔法は、術者の『意志』の強さに大きく左右されるそうです。リアンが進級試験で見せたあの力は、きっと、『仲間を守りたい』という強い意志が引き出したものですよ」

「意志、か…」

「はい。だから、大丈夫です。あなたの中には、誰よりも強い力が眠っているのですから」

 彼女の言葉は、もはやただの慰めではなく、確かな根拠を持った、力強いエールとして、リアンの心に響いた。


 ある晴れた休日。

 二人は、学園の裏手にある、小さな丘の上にいた。眼下には、カルデラ湖『静寂の揺籠サイレント・クレイドル』が、春の陽光を浴びて、鏡のように輝いている。

「すごいな…。ここからだと、学園全体が見渡せるんだな」

「ええ。ここ、私のお気に入りの場所なんです」

 フィーリアは、隣りで幸せそうに微笑んでいる。

 リアンは、仲間たちと笑い合い、フィーリアとこうして穏やかな時間を過ごせる、この日常が、かけがえのないものだと感じていた。

「俺、決めたよ」

 彼は、湖を見つめながら、言った。

「この力を、完全に制御できるようになる。自分の意志で、大切なものを守れるくらい、強くなるんだ」

 その言葉には、もう、卑屈さの欠片もなかった。


 その頃。

 学園の敷地の最も外れにある、古い塔の最上階。

 アレスは、魔法の水晶を通して、その光景を、ただ、静かに見つめていた。

 水晶に映し出されているのは、丘の上で、希望に満ちた顔で語り合う、リアンとフィーリアの姿。

 彼の唇の端が、微かに、自嘲のような形に歪んだ。


(喜んでいるか、リアン)

 彼の心に、音にならない声が響く。

(仲間と共に壁を乗り越え、僅かな自信を手に入れた、かつての俺。だがその光は、あまりにも弱い。あまりにも、脆い)

 アレスの脳裏には、リアンとして目の当たりにした、あの地獄の光景が焼き付いている。魔王の絶対的な力の前に、この程度の希望など、嵐の前の蝋燭の灯火にすぎないことを、彼は知っていた。

(お前が倒したシャドウ・ハウルやゴーレムなど、魔王の軍勢の中では、ただの雑兵にも満たない。お前が掴んだと思っている力は、嵐の前の、束の間の晴れ間にすぎんのだ)


 彼の瞳が、冷たい光を宿す。

 リアンの成長は、喜ばしい。しかしこのままではいけない。こんなぬるま湯のような幸福に浸っていては、彼は、最後の死線を越えることはできない。

 真の覚醒のためには、一度、その心を、その希望を、完全に打ち砕く必要がある。


(お前が本当の絶望を知り、その光が一度完全に消え去った時…そうでなければ、お前の魂は、真の力を受け入れる『器』にはなれないのだ)

 アレスは、そっと目を閉じた。

(だから、待っていろ、リアン)

(お前のそのささやかな希望を、この俺が、直々に叩き潰してやる)


 彼の決意は、揺るがない。

 愛する過去の自分を、そして、その隣りで微笑む少女を守るため。

 彼は、鬼となる道を選ぶ。

 その先に、どれほどの苦しみが待っているとしても。

 全ては、あの悲劇を、二度と繰り返さないために。



 俺は、木の梢の闇に身を潜め、眼下の光景を、ただ、見下ろしていた。

 初夏の強い日差しが、鬱蒼とした木々の葉を透けて、まだらな光の斑点を地面に描いている。湿った土と、腐りかけた落ち葉が発酵するような、むせるほどの生命の匂い。そして、その中に混じる、鉄錆のような血の匂いと、獣の腐臭。


 眼下では、かつての俺――リアン・アークライトが、泥と血にまみれ、絶望に顔を歪ませていた。

 その周りを、まるで死神の影のように、Sランク級魔物「ナイト・パンサー」が、優雅に、そして残酷に、旋回している。

 リアンの荒い息遣いと、恐怖に引きつった悲鳴にも似た叫びが、この静かな森に、不釣り合いに響き渡っていた。


(そうだ、リアン。その恐怖を、その絶望を、魂に刻み付けろ)


 俺は、心を無にして、ただ観察を続ける。

 あのときの俺は、この程度の魔物に出会うことすらなかった。仲間という名の、温かく、しかし成長を阻害する温室に守られ、本当の恐怖を知らずにいた。だから最後の最後で、あの魔王の前で、何もできずに、ただフィーリアの犠牲を見送ることしかできなかったのだ。


(お前は、違う)

(俺が、違う未来へ導く)


 ナイト・パンサーの爪が、リアンの頬を掠める。数ミリずれていれば、彼の眼球は抉られていただろう。

(まだだ)

 吹き飛ばされ、無様に地面を転がる。

(まだだ)

 起き上がろうとする彼の足に、爪が突き立てられ、激痛に顔が歪む。

(まだ、足りない…!)


 俺は、介入したい衝動を、奥歯を噛み締めて殺す。

 彼が、本当の意味で「死」を覚悟する、そのコンマ数秒前まで。

 最も効果的に、最も「圧倒的な救世主」として、彼の魂に、この俺という存在を焼き付けることができる、その瞬間まで。

 この一瞬一瞬が、俺にとって、永遠にも等しい拷問の時間だった。愛すべき過去の自分を、見殺しにする寸前まで追い詰めるという地獄。


 そして、その時は来た。

 ナイト・パンサーが、勝利を確信し、リアンの喉笛に、その牙を剥いて飛びかかった。

 リアンの瞳から、光が消えた。絶望が、彼を完全に支配した。


 ――今だ。


 俺は、木の梢から、音もなく、その二つの影の間へと降り立った。


 俺が抜き放った黒い剣は、悲鳴を上げなかった。

 風を切る音すらなかった。

 ただ、空間そのものを断ち切るかのように、ナイト・パンサーの眉間へと、吸い込まれるように突き立てられた。

 それは、リアンには到底理解できない、未来の知識と、幾千、幾万の絶望的な訓練の果てに編み出された、刻印剣の奥義――『時断』。

 時を、コンマ一秒だけ、断ち切る剣。


 リアンは、目の前で起きたことが理解できず、ただ呆然と、俺と、崩れ落ちる魔物の死骸を見上げていた。

 その翠色の瞳の奥に、光が灯るのを、俺は見逃さなかった。

 恐怖、驚愕、混乱。そして、その全てを凌駕する、強烈な「憧憬」の光。


(そうだ。その目だ)

 俺は、心の中で呟いた。

(俺を、神か悪魔のように見ろ。そして、その全てを欲しろ。お前のその渇望が、俺の計画を、未来を、前に進めるのだ)


 俺は、意識を失いかけるリアンを見下ろし、用意していた言葉を、彼の魂に直接、刻み込むように告げた。

「――死にたくなければ、思い出せ。お前の魂に刻まれた、本当の戦い方を」

 それは、単なる叱咤ではない。

 リアンの魂の奥底に眠る「アークライト家の力」を、外側から揺り動かすための、刻印魔法に近い、言霊の楔だった。


 意識のないリアンを担ぎ、俺は学園の医務室へと彼を運び込んだ。

 その道中、腕の中で眠る、まだあどけなさの残る、かつての自分の顔を見下ろす。傷だらけで、泥にまみれ、しかし、その寝顔は、不思議なほど穏やかだった。

 俺は、自分が、この無垢な魂を、これから地獄へと突き落とさなければならないという事実に、胸が張り裂けそうになるのを、必死で堪えた。


 医務室で、俺は物陰から、彼が目覚めるのを待った。

 やがて、仲間たちが駆けつける。

 レオの、不器用な怒声。リナの、冷静だが、心からの心配。

 その全てが、俺が失った、温かい日常の光景だった。俺は、その光景を、ただ、ガラス一枚を隔てたかのように、遠くから見つめることしかできない。


 そして、フィーリアが、リアンの汗を拭い、傷を気遣う。

 その一挙手一投足が、彼女の優しさが、俺の心を、甘い毒のように蝕んでいく。

 ああ、フィーリア。

 お前は、いつだってそうだ。

 お前のその優しさが、俺をどれだけ救ってくれたか。

 そして…どれだけ、俺を弱くしたか。


 俺は、心を鬼にして、彼らの前に姿を現した。

 レオが、リナが、警戒の色を露わにする。

 だが、俺の目に映っているのは、ただ一人。

 俺の前に、リアンを守るように立ちはだかった、フィーリアだけだった。


「お待ちください。あなたは、一体何者ですの?」


 その青い瞳に宿る、強い光。

 俺はその瞳の中に、魔王が復活した最後の瞬間、自分を救うために、聖剣の前で祈りを捧げていた、あの聖女の面影を見た。

 胸が、張り裂けそうになった。

 今すぐに、この腕で、彼女を抱き締めたい。全てを話して、謝りたい。お前は何も知らなくていい、ただ笑っていてくれと、そう、伝えたい。


 しかし、俺は、その喉元までせり上がってきた衝動を、鋼の意志で、殺した。

 ここで彼女に甘えを見せれば、リアンは、彼女という名の「安息所」に逃げ込み、真の覚醒は永遠に訪れない。

 俺は、彼女を傷つけなければならない。

 俺が、リアンを強くするために。


「失せろ」


 俺の唇から、氷の刃のような言葉が紡がれた。

 それは、彼女だけでなく、俺自身の心臓を、最も深く抉る言葉だった。

 彼女の瞳が、信じられないというように、大きく見開かれる。傷ついた小動物のように、その肩が、か細く震えた。


 リアンが、俺についてくることを選ぶ。

 フィーリアが、悲痛な声で、彼の名を呼ぶ。

 俺は、その光景から、決して目を逸らさない。

 この痛みを、この罪を、俺の魂に刻みつけるために。


(すまない、フィーリア。俺は、お前の敵になろう)

(すまない、リアン。俺は、お前の心を壊す鬼となろう)


(全ては、二人を、あの絶望の結末から救うために)

(俺が、この二度目の人生で、背負うべき、唯一の罪だ)


 俺は、リアンを連れて、地獄のような訓練が待つ、忘れ去られた修練場へと歩き出す。

 俺の背中は、もう、誰にも理解されない、絶対的な孤独を纏っていた。

 愛する者を、自らの手で、不幸のどん底へと突き落とす、という、ただ一つの目的のために。



 アレスとして、この過去の世界に降り立ってから、一年以上の月日が流れた。

 俺は、表向きは「特任研究員」という仮面を被り、誰とも関わることなく、ただひたすらに、来るべき日のために牙を研ぎ続けてきた。

 リアンとして生きた頃の知識を元に、過去の俺を、影から、そして時には直接、師として導く。彼の剣筋は鋭さを増し、その魂は、俺の望む方向へと、確かに成長を始めていた。

 計画は、順調に進んでいる。

 そう、信じていた。

 俺自身が、この手で、全ての因果を断ち切る、その時までは。


 その夜、俺は、誰にも気付かれぬよう、学園で最も神聖な場所――大聖堂へと、その足を踏み入れていた。

 星詠みの夜祭まで、あと数ヶ月。魔王復活の時は、刻一刻と近づいている。

 俺は、自らの計画の最終段階を、確認するためにここへ来た。

 リアンを鍛え上げ、魔王復活のその日に、この俺が、この聖剣を手に取り、全ての悲劇を終わらせる。そのための、予行演習。聖剣「ソウル・ケージ」との同調を、試みるために。


 ひんやりとした、墓場のような空気が、俺の肌を撫でる。

 月明かりが、高い天井のステンドグラスを通して、神聖な光の帯となって差し込み、祭壇に突き立てられた一本の剣だけを、神秘的に、そして冷たく照らし出していた。


 聖剣「ソウル・ケージ」。


 古い石と、清浄な祈りの匂い。しかし、俺の研ぎ澄まされた感覚は、その奥に、微かに混じる異臭を捉えていた。封じられた魔王の、五百年分の憎悪が凝縮された、魂の腐臭だ。


 俺は、ゆっくりと祭壇へと歩み寄る。

 自分の心臓の音だけが、大聖堂の高い天井に、不気味なほど大きく響き渡っていた。

(待っていてくれ、フィーリア)

 俺は、心の中で、あの過ぎ去った世界で眠り続ける、彼女の姿を思い浮かべた。

(今度こそ、俺が終わらせる。お前を犠牲にしない未来を、この手で必ず掴んでみせる)

 それは、俺がこの二度目の人生で、唯一、支えとしてきた誓いだった。

 俺は覚悟を決め、祭壇に安置された聖剣の、その白銀の柄へと手を伸ばした。


 その指先が、柄に触れた、瞬間だった。


 ――ゴウッ!!!


 物理的な衝撃ではない。

 俺の「魂」そのものが、巨大な氷の壁に、凄まじい速度で叩きつけられたかのような、絶対的な拒絶。

 脳を、直接、灼熱の鉄の棒でかき混ぜられるような、激痛。


「ぐっ…ぁあああああああっ!?」


 俺は、見えない力に弾き飛ばされ、大聖堂の硬い石の床に、無様に叩きつけられた。

 だが苦痛は、それだけでは終わらない。

 俺の意識が、聖剣の内部へと、無理やり引きずり込まれていく。


『――お前は、誰だ』


 声ではない。直接、魂に響く、問いかけ。

 脳裏に、数百年分の記憶が、濁流となって流れ込んできた。

 創始者アルトリウスの、親友を人柱にした日の、血を吐くような慟哭。

 歴代の勇者たちが、聖剣を抜き、若くして、その名を歴史から消していった、無念の軌跡。

 その全てが、聖剣の記憶。聖剣が、見てきた、悲しみの歴史。


 そして、その濁流の果てに、俺は一つの、あまりにも眩しい光を見た。

 この時代に生きる「正当な後継者」。

 未熟で、弱くて、劣等感に苛まれて、それでも、仲間を守るために、必死に剣を振るう、あの少年の姿。

 一点の曇りもない、純粋なリアン・アークライトの魂の輝き。


 聖剣の意志が、俺の魂を完全に否定した。


『お前は偽物だ』

『お前の魂は、未来の絶望と、後悔と、そして女を救えなかったという罪に汚れている』

『この時代の光は、この時代の者が灯すもの』

『お前ではない』


 俺は、その場に膝から崩れ落ちた。

 全身から、力が抜けていく。計画が、俺の信じていた全ての道が、音を立てて崩壊していく。

(そうか…)

 その事実に、俺は、ようやく気づいた。

(そうだったのか…! 俺は、何も、何も、分かっていなかった…!)

(この、未来の記憶に汚染され、フィーリアの魂の欠片でかろうじて繋ぎ止められた、仮初めの器では…)

(未来から来た、罪深き俺の魂では…)

(お前には、この聖剣には、決して届かないというのか…!)


 俺は、英雄になどなれなかった。

 この手でフィーリアを救えると、本気で信じていた。この俺こそが、運命を変える唯一の存在なのだと、傲慢にも、思い上がっていた。

 だが、違った。

 俺は、英雄ではない。

 俺は、この世界の理から弾き出された、ただの亡霊なのだ。

 フィーリアの愛がなければ、この世界に存在することすら許されない、哀れな、仮初めの器。


(そんな俺が、聖剣に選ばれるはずがない。フィーリアを、救えるはずがない…!)


 絶望が、俺の魂を、完全に飲み込んだ。

 俺は、冷たい石の床に額をこすりつけ、子供のように、声を殺して嗚咽した。

 何のために、俺は戻ってきたのだ。

 何のために、この地獄のような孤独に耐えてきたのだ。

 フィーリア。フィーリア。俺は、また、お前を…。


 その、絶望の底で。

 俺は、聖剣が見せた、最後のビジョンを思い出した。

 それは、未熟で、弱くて、それでも、仲間を守るために、必死に剣を振るう、過去の自分の姿。

 あの、進級試験の夜。クリスタル・ゴーレムの前で、フィーリアを守るために、無意識に「分解」の刻印を発動させた、あの瞬間の、彼の瞳。


(そうだ…あいつだ)

 俺の心に、一つの、残酷で、しかし唯一の光が差し込んだ。

(聖剣が求めているのは、全てを知ってしまった、汚れた俺ではない)

(この時代の、リアン・アークライトなのだ)


 俺の役目が、この瞬間に、反転した。

 俺の役目は、魔王を倒すことではなかった。

 俺は、英雄になるはずではなかったのだ。


 俺の役目は…真の勇者、リアン・アークライトを、この俺の手で創り上げること。

 彼が魔王を討ち、フィーリアを救う未来への、ただの道標となること。

 そのためなら、俺はなんだってする。

 鬼にでもなろう。修羅にでもなろう。

 彼の憎しみを買おうと、彼に絶望を与えようと、構わない。

 俺は、師ではない。

 彼の成長のために必要な、全ての障害と、全ての試練。

 俺は、彼が乗り越えるべき、最後の「壁」となるのだ。


 夜明け前の、忘れ去られた修練場。

 俺は大聖堂から戻り、一人、その冷たい空気の中で、佇んでいた。

 東の空が、わずかに白み始めている。朝を告げる鐘の音が、遠くから響いてきた。

 俺はその顔に、全ての感情を殺した、氷のような仮面を貼り付けた。

 今日この瞬間から、リアンへの特訓は、単なる訓練から、英雄を鍛造するための、非情な試練へと変わる。

 これから始まる本当の地獄を思い、俺は、静かに目を閉じた。

 もう、迷いはなかった。

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