第十話 再誕
ゴオオオオオオオオオオオンン……!
終焉を告げる鐘の音が、リアン・アークライトの鼓膜を、そして世界そのものを引き裂いた。
彼が最後に見たのは、祝福に満ちていたはずのダンスパーティが、一瞬にして地獄絵図へと変わる光景だった。血のように赤黒く変色した魔法の光球、生徒たちの絶叫、大地の悲鳴。
そして、時計塔の頂上から、夜空の星々さえも喰らい尽くすかのように溢れ出す、純粋な「闇」。
魔王の復活。
その絶対的な絶望を前に、彼の意識は、為すすべもなく、恐怖に塗りつぶされていく。
「くそったれが! 何が起きてやがる!」
レオの怒声が聞こえる。
「ダメ…! 封印が…壊れたの…!」
リナの悲鳴に似た声が聞こえる。
仲間たちが、必死に抵抗しようとしている。だが、彼らの力が、あの「闇」に通じるとは、到底思えなかった。
リアンは、ただ、フィーリアを強く抱き締めることしかできなかった。腕の中で、彼女が小刻みに震えている。守らなければ。この温もりだけは、絶対に。
しかし、魔王の禍々しい意識は、数多の魂の中から、最も強い光を放つ存在を、正確に見つけ出していた。
建国王アルトリウスの血を引く、この時代の「鍵」――リアン・アークライトを。
「闇」の中心が、まるで巨大な瞳のように、リアンへと向けられる。
そして、究極魔法の詠唱が始まった。
それは、音声ではなかった。世界の理そのものを書き換える、冒涜的な響き。空間が、ガラスのように、ミシミシと音を立ててひび割れていく。
リアンは、自分という存在が、時空の根源から消し去られようとしているのを、本能的に理解した。
(終わるのか…? こんな、ところで…)
彼が、全ての終わりを覚悟した、その時だった。
腕の中で、フィーリアが、そっと顔を上げた。彼女の瞳は、もう恐怖に濡れてはいなかった。そこにあったのは、リアンには理解できないほどに、深く、そして気高い、決意の光だった。
彼女は、リアンの腕の中からそっと抜け出すと、彼に背を向けた。
「フィーリア!?」
リアンの絶叫を背に、彼女は、学園で最も神聖な場所――大聖堂へと、瑠璃色のドレスの裾を翻し、迷いなく走り出す。
その瞬間、大聖堂から、世界を白く、白く染め上げるほどの、巨大な光の柱が、天を突いて放たれた。
それは、あまりにも優しく、温かい光だった。
魔王が放った、時空を消滅させる「闇」と、フィーリアが放ったであろう、世界を守る「光」。
二つの絶対的な力が、リアンの目の前で、激突した。
世界が、砕け散る音がした。
彼の肉体が、光と闇の奔流に引き裂かれていく。痛みはない。ただ、全てがバラバラになっていくような、根源的な喪失感だけが、彼の意識を支配する。
最後に彼の瞳に焼き付いたのは、自分を庇おうと手を伸ばす、レオとリナの絶望した顔。
そして、光の柱の中で、悲しく、しかし確かに微笑んでいるように見えた、フィーリアの幻影だった。
時間は、意味を失った。
空間も、意味を失った。
リアンの意識は、もはや五感を持たない、ただの「想い」の塊となって、色と光と音のカオスの中を、凄まじい速度で流されていった。
失われた仲間たちの声、フィーリアの笑顔、カイの憎悪に満ちた顔、そして、あの黒衣の師アレスの、冷たい瞳。全ての記憶が、洪水のように彼を打ちのめし、その魂を摩耗させていく。
(俺のせいで…)
(俺が、弱かったから、みんな…)
(フィーリアが…!)
後悔が、絶望が、彼の意識を、無へと溶かそうとする。
もう、どうでもいい。このまま、消えてしまいたい。
彼が、そう願いかけた、その時だった。
魂の奥底で、一つの、小さな光が灯った。
それは、絶望の底で生まれた、たった一つの、しかし何よりも強烈な意志の光。
(フィーリアを、救いたい)
その、純粋な祈り。
その祈りに呼応するかのように、彼の魂の周りに、温かい光の粒子が、星屑のように、一つ、また一つと集まり始めた。
それは、彼が最後に見た、あの聖剣の光の残滓。
彼を過去へと送り届けるために、時空の奔流の中を、ずっと彼に寄り添い続けていた、フィーリアの魂の、ほんの僅かな欠片だった。
やがて、混沌とした奔流が、次第に収束していく。
彼の意識の前に、見慣れた光景が、まるで映画を逆再生するように、再構築されていった。
崩壊した学園が、元の壮麗な姿を取り戻していく。赤黒く染まった空が、どこまでも澄んだ青空になり、絶叫が、希望に満ちた生徒たちの笑い声へと変わっていく。
彼は、自分が数年前の、まだ何も起こっていない、平和な時間軸へと到達したことを、理解した。
しかし、彼の魂は、肉体を持たない、風前の灯火。このままでは、世界に干渉することもできず、すぐに消滅してしまう。
その時、彼の魂に付き添っていたフィーリアの魂の欠片が、優しい光を放った。
それは、核となった。
リアンの魂の中に刻み込まれた、未来の知識――アークライト家に伝わる「刻印魔法」の奥義が、その光に呼応する。
彼の魂を中心に、光の粒子が、壮大な渦を巻き始めた。
それは、神の御業にも似た、奇跡の瞬間。
彼の「こうありたい」と願った、理想の姿。数年後の、鍛え抜かれ、成熟した自分の姿を設計図として、光の粒子が、骨を、筋肉を、皮膚を、そして髪を、少しずつ、しかし確実に、形成していく。
光が収まった時、そこに立っていたのは、もはや「リアン・アークライト」ではなかった。
一人の、黒衣を纏った剣士。
彼が、おそるおそる自分の手を見る。それは、一年生の頃の華奢な手ではなく、無数のマメと傷跡に覆われた、力強い剣士の手だった。
近くにあった水たまりに、自分の顔を映し出す。そこにいたのは、記憶にある自分よりも遥かに大人びて、その翠色の瞳には、深い絶望と、鋼の決意を宿した、見知らぬ男の顔だった。
彼は、自分の新しい名を決めた。
遠い昔、フィーリアが、大好きだと語ってくれた、古いおとぎ話。
その物語の中で、名もなき姫を、影から守り続け、最後には、誰にも知られずに消えていった、悲劇の騎士の名を。
「俺は…」
その唇から漏れたのは、決意の産声だった。
「アレスだ」
彼は、フィーリアを救うという、たった一つの目的のために、この仮初めの器で、二度目の人生を歩み始める。
彼の、孤独で、壮絶な戦いが、今、静かに始まった。
アレスとして、この過去の世界に降り立ってから、数ヶ月が過ぎた。
彼は、学園に「特任研究員」という、ありもしない身分を魔法で偽装し、誰とも関わることなく、ただ息を潜めるように日々を送っていた。
昼は大図書館の最も人の寄り付かない書架の陰で、世界の理と歴史を、飢えた獣のように貪り読んだ。夜は忘れ去られた修練場で、リアンとして生きた記憶に残る、カイの、そしてアレス自身の剣技を、血反吐を吐くまで、来る日も来る日も繰り返し模倣し続けた。
アレスの心は、ガラス一枚を隔てたかのように、この平和な世界から完全に断絶していた。
彼は、過去の自分やフィーリアがこの学園に入学してくる前に知らねばならなかった。
なぜ、フィーリアは自らを犠牲にする必要があったのか。
なぜ、聖剣は、あの時、自分を過去へと送ったのか。
そして、この絶望の連鎖を断ち切る方法が、本当に存在するのかを。
その答えは、ただ一つの場所にしかないと、彼は確信していた。
大図書館の、そのさらに奥深く。創設以来、選ばれた教師以外、誰も足を踏み入れることを許されない、禁断の領域――「禁書庫」。
その年の「星詠みの夜祭」の初日の夜。
学園中が、祝福の光と喧騒に満ち、全ての警備が手薄になる、年に一度の夜。
アレスは、その瞬間を、数ヶ月もの間、ただひたすらに待ち続けていた。
彼は、闇色の外套でその身を包み、影から影へと、音もなく学園の回廊を駆ける。リアンとして生きた知識を元に、教師たちの巡回ルート、警備の魔法結界の僅かな隙間、その全てを完璧に把握していた。
大図書館の重厚な扉の前に立つ。深夜の図書館は、完全な静寂と、古い紙とインクの匂いに支配されていた。月明かりが、高い窓から差し込み、巨大な書架の群れを、まるで古代遺跡の墓標のように、青白く照らし出している。
彼は、図書館の最も奥にある、禁書庫へと続く扉の前に立った。
そこには、アルトリウスの時代から受け継がれる、極めて高度な封印魔法がかけられている。並の魔法使いでは、触れることさえ叶わない。
しかし、アレスは、躊躇わなかった。
彼の右腕の紋章が、静かに、しかし力強く、翠色の光を放つ。
「――開け」
彼が、アークライト家の血筋にのみ伝わる、「分解」の刻印の真髄を、かすれた声で紡ぐ。
それは、以前リアンとして放った、暴走した力の奔流ではない。完全に制御された、世界の理そのものを解きほぐすかのような、精緻な魔法。
ギィィ、と。五百年の間、閉ざされていた重い扉が、軋むような音を立てて、ゆっくりと開いていった。
禁書庫の中は、時の流れが止まったかのような、濃密な沈黙と、埃の匂いで満ちていた。
彼は、松明に魔法の光を灯すと、壁一面を埋め尽くす、膨大な羊皮紙の巻物と、革張りの古文書の森へと、足を踏み入れた。
彼は、探した。がむしゃらに。
そして、ついに、書架の最も高い場所、埃を被った木箱の中から、それを発見した。
公の歴史には記されていない、建国王アルトリウス・レークス・アークライトが、その晩年に、誰にも見せることなく綴ったとされる、私的な手記を。
震える指で、彼はその古びた手記を開いた。
そこに記されていたのは、輝かしい英雄譚などではなかった。
一人の男の、血の滲むような、後悔と絶望の記録だった。
『――我々は、魔王に勝てなかった。断じて。我々が成したのは、勝利ではなく、ただの、未来への責任の先延ばしにすぎない』
『聖剣ソウル・ケージは、奴を滅ぼすための剣ではない。奴の魂を、一時的に閉じ込めるための「檻」。そして、その檻を維持するためには、新たな、そして強大な魂を、定期的に捧げ続けなければならないのだ』
『聖剣を抜くこと。それは、勇者が、次なる時代の平和のための「人柱」となる、忌まわしき儀式の始まりに他ならない。私は、親友の魂を捧げることで、この五百年の平和を買った、ただの罪人だ…』
アレスは、息を呑んだ。
全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。
彼は、震える手で、ページをめくり続けた。
そして、その最後のページに、彼は、全ての絶望の答えを見つけてしまった。
『この呪われた運命から逃れる、唯一の方法があると、古い伝承は記している。それは、勇者ではない、清らかなる魂を持つ者が、自らの意志で、その魂の全てを聖剣に捧げ、聖剣の「鞘」となること。鞘となった魂は、人柱の代わりとなり、聖剣の力を一時的に解放する。だが、その魂は、二度と人の器に戻ることはない。永遠に、剣の中で、孤独な時を過ごすのだ。…なんという、救いのない禁忌だろうか』
アレスは、その場で崩れ落ちた。
手記が、その手から滑り落ち、乾いた音を立てて、石の床に落ちる。
「ああ…」
彼の喉から、声にならない、呻き声が漏れた。
「あ…あああああああああっ!」
全てを、理解した。
フィーリアは、知っていたのだ。この、絶望的な世界の真実を。
リアンが、いつか、この救いのない「人柱」になる運命であることを。
だから、彼女は、自ら「魂の鞘」となる道を選んだ。
自分は、彼女のそんな、あまりにも気高い覚悟も知らず、ただ、彼女の犠牲の上で、過去へと逃げてきただけだったのだ。
彼は、どれくらいの時間、そうしていただろうか。
やがて彼は、まるで壊れた人形のように、ぎこちない動きで立ち上がった。
禁書庫を出て、月明かりの下、大聖堂を、遠くから見つめる。
遠い記憶に残るあの世界で、今も、フィーリアが、独りで、あの冷たい剣の中で、眠り続けているであろう場所。
彼の瞳から、もう涙は流れなかった。枯れ果ててしまったのだ。
代わりに、その翠色の瞳の奥底で、一つの、冷たい、冷たい炎が、静かに燃え上がっていた。
フィーリアへの、どうしようもないほどの、申し訳なさと、愛。
彼女を、そんな残酷な運命に追い込んだ、この世界の理そのものへの、激しい怒り。
そして、何もできなかった、無力な自分自身への、殺意にも似た憎しみ。
彼は、夜空に浮かぶ、一番星を見上げた。
それは、かつて、フィーリアと共に見上げた、約束の星だった。
(もう、お前を犠牲にはしない、フィーリア)
彼の心に、誓いの言葉が刻まれる。
(人柱の運命も、魂の鞘の悲劇も、全て、俺が、この手で終わらせる)
彼は、その夜、リアン・アークライトの名を、その未熟な過去と共に、完全に捨て去った。
彼は、フィーリアの愛したおとぎ話の騎士として、彼女の、そして世界の運命を、その双肩に、たった独りで背負うことを決意した。
(この仮初めの命、この二度目の人生の全てを懸けて、今度こそ、俺が、お前を救い出す)
東の空が、わずかに白み始めていた。
学園に、朝が訪れようとしている。
アレスの、本当の戦いが、ここから始まる。