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第九話 魔王復活

 カイ・ヴォルファードは、たった一人で、学園の最も深い場所へと続く、長い石の階段を下りていた。

 地上から、祝福の音楽のように聞こえてくるワルツの旋律。それは、今の彼には、自分の敗北を、惨めさを、声高に嘲笑うための、忌まわしい凱歌にしか聞こえなかった。

 一歩、また一歩と、冷たい石の階段を下りるたび、光と喧騒は遠のき、代わりに湿ったカビの匂いと、壁から滴る水の陰鬱な音、そして、頭の中に直接響く、甘美な囁きだけが彼の世界を満たしていく。


『なぜ、お前ではないのだ?』


 その囁きが、彼の心の奥底に最も深く突き刺さった傷を、容赦なく抉り出す。


 ――思い出すのは、まだ一年生だった頃の、最初の模擬戦。

 あの時、彼はリアン・アークライトを、取るに足らない、道端の石ころ程度にしか認識していなかった。勝つのは当然。負けることなど、天地がひっくり返ってもありえない。事実、戦いは一方的な蹂躙に終わった。

 だが、カイの心には、小さな、しかし消えない染みが残った。

 リアンが負けても、レオという男は彼の肩を叩き、リナという女は彼を気遣った。そして何より、フィーリア・クレセントは、まるで自分のことのように心を痛め、その傍らに寄り添っていた。

 カイの周りには、彼の才能を称賛し、彼に媚びへつらう者はいくらでもいた。だが、彼が打ちのめされた時に、本気で心を痛め、その手を引いてくれるような「仲間」は、一人もいなかった。彼は、常に「天才」として、その頂に、孤独に立っていたのだから。

 あの時から、カイは無意識に、リアンの持つ「何か」に、言いようのない嫉妬を抱いていた。

(才能なき者が、なぜ、愛される…?)


『お前の才能こそが、至高。絆など、弱者の戯言にすぎぬ』


 さらに階段を下りると、地下の冷気が、彼の昂ぶった思考をわずかに冷ました。

 いや、違う。冷やされたのは、つい先日の、あの雪辱を誓った二度目の模擬戦の記憶だ。

 あれは、悪夢だった。

 最近、雰囲気が変わったリアンが、気に食わなかった。その力の源泉を探り、自分の絶対的な優位性を、学園の全てに改めて知らしめるための、公開処刑の第二幕のはずだった。

 だというのに。

 自分の剣が、魔法が、ことごとく凌がれていく。あの「出来損ない」の瞳に、かつての怯えはなく、自分と同じ、挑戦者の光が宿っていた。

 観衆のどよめきが、賞賛が、自分ではなく、リアンへと注がれていく。

 そして、最後の一撃。

 自分の全力の魔法が、見たこともない、不気味な翠色の光によって、まるで砂糖菓子のように霧散させられた、あの瞬間の衝撃と恐怖。

 弾き飛ばされた愛剣が、カラン、と石畳の上で虚しい音を立てた。その音が、今も耳の奥で鳴り響いている。

 衆人環視の中で、完膚なきまでに、敗北した。

(努力も、才能も、血筋も、全てを捧げてきた僕が…なぜ、あんな、まぐれのような一撃に…!)


『まぐれではない。あれが、アークライトの血筋が持つ、理不尽な力だ。お前は生まれながらにして、不当なハンデを背負わされているのだ』


 そうだ、とカイは思った。不当だ。不公平だ。

 その思いは、今夜、決定的なものとなった。


 彼は、フィーリアを求めていた。

 それは、単なる恋心ではない。彼女の持つ稀代の神聖魔法の才能。その気高く、清らかな魂。それこそが、完璧な自分の隣りに立つにふさわしい、唯一無二の存在だと信じていた。完璧な王には、完璧な妃が必要なのだ。

 だからこそ、彼は、学園中の誰もが見守る中で、彼女に手を差し伸べた。

 それなのに、彼女は自分を選ばなかった。

 あの、リアン・アークライトを選んだ。

 それは、カイがその十六年の人生で初めて経験する、完全で、完璧な「拒絶」だった。

 彼の全てが、否定された瞬間だった。

(君は、僕の価値が分からないのか、フィーリア…! 僕こそが、君を最も輝かせることができるというのに! なぜ、あの男を選ぶ!?)


『そうだ、カイ。この世界は間違っている』

 ついに、カイは封印の祭壇が置かれた、最深部のドームへとたどり着いた。

 魔王の囁きが、もはや彼の思考そのものと一体化し、甘美に、そして論理的に響き渡る。

『才能を正しく評価せず、血筋や感情といった不確かなもので価値を決める、愚かで、腐った世界だ。お前の怒りは正しい。お前の無念は、我々が共有するものだ』


 カイは、祭壇の中心で、禍々しい魔力を放つ巨大な魔力結晶マナ・クリスタルを見つめた。

 そうだ。

 そうだ、そうだ、そうだ。

 間違っているのは、僕じゃない。

 この、世界の方だ。


 彼の心の中で、最後の何かが、ぷつりと音を立てて切れた。

 彼は、これまでの全ての鬱屈を、絶叫と共に解き放った。


「ああ、そうだッ! 間違っているのは僕じゃない、世界の方だ! 僕を認めなかった、あの教師も! 僕を嘲笑った、あの生徒たちも! リアンも! フィーリアもッ! みんな、みんな、後悔すればいいんだッ!!」


 彼は、震える手で、封印の要である魔力結晶に触れた。肌が焼けるような、あるいは凍りつくような、矛盾した感覚が、彼の全身を駆け巡る。だが、それすらも、今の彼には快感でしかなかった。


『さあ、我を受け入れよ。そして、お前が王となる、真実の世界を創るのだ』


「僕が、この間違った世界を、終わらせてやる…!」

 カイは、狂気と歓喜に満ちた笑みを浮かべた。

「そして、真実の僕の世界を、ここから始めるんだ!」


 彼は、自身の憎悪と、無念と、そして歪んだ渇望の全てを、己のエーテルと共に、魔力結晶へと注ぎ込んだ。


「砕けろォォォォォッ!!」


 その絶叫に呼応するように、五百年の永きにわたり魔王を縛り付けてきた封印の結晶に、一本の、致命的な亀裂が走った。

 そして、そこから、世界の終わりを告げる黒い光が噴き出した。



 曲がクライマックスを迎え、そして、最後の音が、星屑のきらめきと共に、夜の静寂へと溶けていく。

 リアンとフィーリアは、ダンスの輪の中心で、見つめ合ったまま、動きを止めていた。世界の全ての音が遠のき、互いの息遣いと、高鳴る心臓の鼓動だけが、二人の間に流れる。魔法の光球が、フィーリアの潤んだ青い瞳の中で、無数の小さな星となってきらめいていた。彼女の頬は、淡い薔薇色に染まっている。

 リアンは、意を決して、そっと息を吸い込んだ。彼女の手を、もう一度、優しく握り締める。


「フィーリア、俺――」


 彼が、その先の、たった一言を紡ごうとした、まさにその瞬間。


 ゴオオオオオオオオオオオンン……!


 それは、音ではなかった。

 祝福のワルツを、生徒たちの楽しげな喧騒を、暴力的に塗り潰したのは、音というよりも、物理的な「衝撃」だった。空気がビリビリと震え、鼓膜だけでなく、骨の髄、内臓の奥深くまで直接響き渡るような、禍々しい重低音。

 中庭に並べられたテーブルの上で、グラスというグラスが、一斉にカタカタと共鳴し、悲鳴のような音を立て始めた。

 学園のシンボルである中央時計塔が、断末魔を上げている。


 次の瞬間、大地が、吠えた。

 足元の石畳が、まるで巨大な心臓が脈打つかのように、ゆっくりと、しかし抗いがたい力で揺れ始めた。最初は、船に乗っているかのような、心地悪い浮遊感。それが、すぐに、立っていることさえ困難な、激しい縦揺れへと変わっていく。

 優雅にステップを踏んでいた生徒たちが、悲鳴を上げて体勢を崩し、あちこちでドレスのシルクが裂ける音と、将棋倒しになる苦悶の声が響き渡った。


「きゃあああああっ!」

「な、なんだ、地震か!?」

「いや、違う! 魔力の暴走だ!」


 楽しげな表情は、一瞬で、何が起きたか分からない困惑へ、そして純粋な恐怖へと塗り替えられていく。

 天の川のように輝いていた魔法の光球が、一つ、また一つと、まるで病に侵されるように、バチバチと不協和音を立てて明滅を始めた。白、青、金色の無垢な光が、血反吐を吐くように、どす黒い赤色へと、じわじわと滲むように変色していく。

 祝福の光に満ちていたはずの中庭は、瞬く間に、地獄の釜の底のような、不気味な夕闇に包まれた。


 そして、匂いが変わった。

 夜風が、ピタリと止む。息が詰まるような圧迫感の後、地獄の底から吹き上げてくるかのような、生暖かく、ぬるりとした風が、生徒たちの肌を撫でた。それは、硫黄が焼ける刺激臭、打ち捨てられた腐肉の匂い、そして濃密な血の鉄の匂いが混じった、吐き気を催す「死の香り」だった。


「くそったれが! 何が起きてやがる!」

 レオが、その巨体を揺らしながら、恐怖に震える女子生徒を庇うようにして、異変の中心である時計塔を睨みつける。その拳は、怒りにわなわなと震えていた。

「時計塔よ…! 学園全体の魔力の流れが、逆流している…! ありえない、封印が…壊れたの…!?」

 リナの顔から、いつもの冷静さが消え、その知的な瞳が、自分の知識では到底理解できない現象を前に、恐怖と絶望に蒼白く染まっていた。彼女の唇が、か細く震えている。


 リアンは、咄嗟にフィーリアを庇うように、その華奢な体を強く、強く抱き締めていた。彼の腕の中で、彼女が小刻みに震えているのが伝わってくる。守らなければ。何が起きているか分からない。でも、この手の中にある温もりだけは、絶対に、絶対に失うわけにはいかない。


 しかし、フィーリアは、震えてはいなかった。

 リアンが、その異変に気付いたのは、彼女の顔を覗き込んだ時だった。

 彼女の顔は、恐怖に歪んでいるのではない。血の気を失い、まるで精巧な人形のように白く透き通ってはいるが、その青い瞳は、恐怖を通り越し、深い、深い絶望と、そして、ついにこの時が来てしまったという悲壮な覚悟によって、底なしの湖のように、静まり返っていた。

 彼女は見ている。リアンでも、仲間でも、パニックに陥る生徒たちでもない。ただ一点、禍々しい光を放つ時計塔を。そして、その向こう側にいるであろう、愛する人をこの運命に巻き込んだ、世界の理そのものを、憎むように。


 地下の祭壇では、カイが、自らが解き放った闇の奔流に飲み込まれながら、歓喜と恐怖が入り混じった、歪んだ絶叫を上げていた。その声は、しかし誰の耳にも届かずに、虚しく消えていく。


 リアンとフィーリアが見上げた先、時計塔の文字盤が、魔王の目のように、禍々しい深紅の光を爛々と放っている。

 その光が、頂点に達した、その時。


 轟音と共に、時計塔の尖塔が、砕け散った。

 巨大な石の破片が、スローモーションのように、悲鳴を上げる生徒たちの頭上へと降り注ぐ。


 そして、そこから。

 砕けた塔の頂点から、夜空の星々さえも喰らい尽くすかのような、巨大な「影」そのものが、ゆっくりと、しかし確実に、その姿を現し始める。

 それは、定まった形を持たない。ただ純粋な闇と、絶望と、五百年の憎悪だけで構成された、意思を持つ虚無。見るだけで精神が直接蝕まれ、発狂しそうになる、世界の理から完全に外れた「何か」。

 五百年の永きにわたる人の営みと祈りを嘲笑うかのように、あまりにもあっさりと解き放たれた、古の絶望。

 一人の少年の砕かれたプライドを苗床として、世界の終わりが、今、静かに産声を上げた。



 そして、世界は壊れた。

 リアンの告白の言葉を飲み込んだのは、フィーリアの返事ではなく、地獄の釜の底から響いてくるような、時計塔の、断末魔の鐘の音だった。


 ゴオオオオオオオオオオオンン……!


 その音は、もはや音ではなかった。

 物理的な衝撃となってアリーナを揺るがし、生徒たちの鼓膜を、そして魂そのものを直接打ち据える。祝福の光に満ちていた中庭は、一瞬にして血のような赤黒い闇に汚染され、楽団が奏でていた優雅なワルツは、世界の理が引き裂かれる不協和音の中に、悲鳴を上げてかき消された。


「な、なんだ…!?」

「きゃあああああっ!」


 楽しげな笑い声は、理解不能な恐怖に歪む絶叫へと変わる。

 大地が、まるで生き物のように、不規則に、そして暴力的に脈動を始めた。足元の石畳が軋み、ひび割れ、そこから硫黄と腐肉の混じった、吐き気を催す瘴気が噴き出す。

 祝祭のために灯された魔法の光球は、次々とその光を失い、あるいは破裂して、ガラスの破片を周囲に撒き散らした。

 阿鼻叫喚。

 ほんの数秒前まで、夢のような幸福に満ちていた場所が、今は、ただの地獄絵図と化していた。


「全員、落ち着け! 結界魔法を展開しろ! 一年生は寮へ避難だ!」

 歴戦の教師たちが、怒号に近い声で指示を飛ばす。彼らは自らの紋章を輝かせ、炎の壁を、氷の盾を、次々と展開していく。

 だが、それらはあまりにも無力だった。

 時計塔の頂上から、ゆっくりと溢れ出してくる「闇」。それは、定まった形を持たない、純粋な絶望の概念そのもの。教師たちの放つ魔法は、その「闇」に触れることなく、まるで光が闇に吸い込まれるように、音もなく消滅していく。

「馬鹿な…! 魔法が、効かない…!?」

 百戦錬磨のはずの教師の顔に、初めて絶望の色が浮かんだ。


 リアンは、ただフィーリアを強く抱き締めることしかできなかった。

 彼の腕の中で、彼女が小刻みに震えているのが伝わってくる。守らなければ。何が起きているか分からない。でも、この手の中にある温もりだけは、絶対に失うわけにはいかない。

 彼の視線の先で、レオが、崩れてくるアーチの瓦礫から、後輩らしき女子生徒を庇って、その巨体で受け止めていた。

「くそったれが! 何が起きてやがる!」

 リナは、精霊に呼びかけていたが、その顔は蒼白だった。

「ダメ…精霊たちが、怖がっている…! この瘴気の中では、声が、届かない…!」

 知性派である彼女が、初めて見せる知的なパニック。彼女の誇る魔法が、この絶対的な絶望の前では、何の役にも立たないのだ。


 誰もが為すすべなく、ただ絶望に飲み込まれようとしていた、その時だった。

 戦場に、一人の男が、音もなく現れた。


 アレス。


 彼は、周囲のパニックなど意にも介さず、その氷のような翠色の瞳で、全ての元凶である、天に渦巻く「闇」だけを、静かに見据えていた。

 その姿を認めたリアンは、思わず息を呑む。


(アレス…!)


 アレスが動いた。

 その剣技は、リアンとの訓練で見せたものとは、まるで次元が違った。

 彼が黒い鞘から剣を抜き放つと、その刀身は、周囲の禍々しい光を吸い込むかのように、深く、静かな光を放つ。


「刻印解放――『断空』」


 アレスが呟くと、彼の一振りは、空間そのものを断ち切るかのような、不可視の斬撃となって「闇」の触手を両断した。

 彼は、魔王の放つ瘴気の奔流を、次々と斬り伏せていく。彼の周りだけ、世界の理が、かろうじて保たれているかのようだった。

 リアンは、その光景をただ呆然と見上げるしかなかった。

(これが…アレスの、本当の力…)

 あれほどの地獄のような訓練でさえ、彼は、その力のほんの片鱗しか見せていなかったのだ。


 しかし、そのアレスの顔にも、次第に焦りの色が見え始めていた。

「闇」は、斬っても、払っても、すぐに再生する。いや、それどころか、斬られるたびに、その闇はさらに濃く、そして広大になっていく。

 アレスの呼吸が、徐々に荒くなっていくのが、遠目にも分かった。彼の肉体が、この規格外の戦闘の負荷に耐えきれず、軋みを上げ始めているのだ。額から流れる汗と共に、彼の身体から、わずかにエーテルの光が霧のように漏れ出していた。


 そして、ついに、「闇」――魔王は、アレスという鬱陶しい「異物」の存在に気付き、その意識を集中させた。

 だが、その標的はアレスではなかった。

 魔王は、アレスが必死に守ろうとしている存在に、その邪悪な狙いを定めたのだ。


 リアン・アークライト。

 建国王アルトリウスの血を引く、最も強い魂を持つ、この時間軸の「鍵」。


 魔王が、その不定形の体の中から、一つの核となる部分を形成し、世界の理を歪める、究極魔法の詠唱を開始する。空間がガラスのようにひび割れ、世界そのものが悲鳴を上げていた。



 絶望が、世界を支配していた。

 リアンの腕の中で、フィーリアはその光景を、絶望的なまでに冷静な瞳で見つめていた。

 傷つきながらも、孤独に戦い続けるアレスの背中。

 何もできずに、ただ立ち尽くすしかない、愛するリアンの絶望した顔。

 そして、彼に迫る、時空ごと全てを消滅させる、絶対的な破滅。


(…これで、よかったのです)

 彼女は、心の中で、血の滲むような微笑みを浮かべた。

 アレスの苦悩も、リアンの悲しみも、全て、私が終わらせる。


「フィーリア!?」

 リアンの驚く声を背に、彼女は、彼の腕の中からそっと抜け出した。振り返らない。振り返ってしまえば、この覚悟が鈍ってしまうから。

 彼女は、学園で最も神聖な場所――大聖堂へと、瑠璃色のドレスの裾を翻し、迷いなく走り出した。


 背後で、建物の崩れる轟音と、仲間たちの悲鳴が聞こえる。

 リアンが、自分の名を絶叫している。

 その一つ一つが、彼女の決意を固めるための、最後の音楽となった。


 走りながら、彼女の脳裏に、リアンとの思い出が、星屑のように、しかし、あまりにも鮮やかに蘇る。

 故郷の村の丘で交わした、幼い日の約束。『ずっと、隣りにいます』。

 大図書館の片隅で、彼の横顔を見つめながら、二人で過ごした、穏やかな午後。

 進級試験で、初めて彼がリーダーとして立ち上がった時の、誇らしさ。

 そして、たった一夜前の、ダンスパーティでの、彼の不器用な優しさと、その腕の温もり。


(これら全てを、失わせはしない)

(たとえ、私が、この思い出の中にしか生きられなくなっても)

(あなたが生きる未来を、私が創る。それが、私の愛!)


 彼女は、アレスにだけ聞こえる、魂の囁きを送った。

『今度こそ、私が、あなたを救います』

『だから…私の愛したリアンを、よろしくお願いします』


 背後で、アレスの、悲痛な絶叫が聞こえたような気がした。

「やめろ…フィーリアァァッ!」


 彼女は、その声さえも振り切り、大聖堂の重い扉を、その小さな身体で、力いっぱい押し開けた。


 中は、外の喧騒が嘘のように、荘厳な静寂に包まれていた。

 月明かりが、高い天井のステンドグラスを通して、神聖な光の帯となって差し込んでいる。その光は、祭壇に突き立てられた一本の剣を、神秘的に照らし出していた。

 聖剣「ソウル・ケージ」。

 まるで生きているかのように、世界の悲鳴に呼応するかのように、その刀身は、微かに、そして悲しげに脈動していた。


 フィーリアは、祭壇の前で、ゆっくりと膝をついた。

 彼女は、祈りを捧げる。

 それは、神への祈りではない。ただ一人、リアンへの、最後の言葉。


「リアン…どうか、忘れないでください」

 その声は、静かな聖堂に、鈴の音のように凛と響いた。

「あなたには、レオさんがいて、リナさんがいます。あなたを支えてくれる、かけがえのない仲間がいます。独りだと、思わないで」

「カイさんのことも…いつか、許してあげてください。彼もまた、自分の強さに、恋い焦がれていただけなのですから」


 彼女は、そっと自分の胸に手を当てた。そこにある、リアンへの想いの、その全てを、言葉に乗せる。

「そして…私のことは忘れて、幸せになってください」

 一筋の涙が、彼女の白い頬を伝い、冷たい石の床に落ちて、小さな染みを作った。

「あなたが、心から笑ってくれる未来こそが、私の、唯一の救いですから」


 彼女は立ち上がり、涙を拭った。

 その顔には、もう迷いはない。ただ、愛する者を救うため、自らを捧げる聖女のような、気高く、美しい微笑みが浮かんでいた。

 彼女は、聖剣の柄に、そっと手を触れる。ひんやりとした、しかしどこか懐かしい感触が、彼女の指先から伝わってきた。


 彼女は、禁書庫で解読した、禁忌の古代魔法の術式を、澄んだ声で、紡ぎ始める。


「――我が魂を礎とし」

 詠唱と共に、彼女の体から、銀色のエーテルの光が、オーロラのように溢れ出した。

「我が記憶を楔とし」

 彼女の銀色の髪が、光そのものとなって、一本、また一本と、ふわりと宙に舞う。

「我が愛を、灯火とせよ」

 彼女の肉体は、銀のダンスシューズの爪先から、徐々に、しかし確実に、美しい光の粒子となって、聖剣へと吸い込まれていく。

 痛みは、なかった。

 ただ、リアンとの思い出だけが、温かい、温かい光となって、彼女の消えゆく魂を、優しく、優しく、包み込んでいた。



 その頃、リアンは、魔王が放った、時空ごと全てを消滅させる究極魔法の奔流を前に、ただ絶望していた。

 彼が、全ての終わりを覚悟した、その時だった。

 大聖堂から、世界を白く、白く染め上げるほどの、巨大な光の柱が、天を突いて放たれた。

 その光は、恐ろしく、禍々しい魔王の闇を、いとも容易くかき消していく。

 そして、その光は、あまりにも優しく、温かかった。

 まるで、フィーリアの腕の中に、そっと抱き締められているかのように。


 リアンは、その光に包まれながら、最後に、確かに、彼女の声を聴いた。


『さようなら、私の、たった一人の、勇者様――』


 彼の意識は、そこで途絶えた。

 愛する少女の名を叫ぶことも、感謝の言葉を伝えることも、許されないまま。

 彼の魂は、時空の奔流へと飲み込まれていった。


 こうして、一人の少女の愛は、世界の理を書き換え、たった一人の少年を、過去という名の、希望へと送り届けた。

 彼女の魂を新たな鞘として、聖剣は再び永い眠りにつき、そして、この世界は、その役目を静かに終えた。

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