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プロローグ

 爽やかな風が、吹いている。

 彼方にそびえ立つ山脈から、その稜線を越えて吹き下ろす風は、この地に初夏の空気を運んできていた。

 春先は柔らかな霧に覆われることの多いこの盆地に、湿度の低い涼風が吹き始めると、夏も近い。魔封学園「暁の境界」は、盆地の中央に位置する湖のほとりに、静かなたたずまいを見せている。


 数百年の歳月を経た城壁を、生命力に満ちた緑の蔦が覆い、城壁の下には名もなき青い花たちが、初夏の涼風に揺れている。

 そして学園の建物は、無数の尖塔が青い空を突き上げ、威風堂々とした姿を誇っていた。風が大理石の回廊を勢いよく吹き抜けると、学園の修練場から乾いた剣戟けんげきの音と、生徒たちの若々しい笑い声が微かに運ばれてくる。


 その日の放課後、夕刻の大図書館は、蜂蜜色の柔らかい光に満たされ、心地よい静寂に包まれていた。古い紙と乾いたインクの、少しほこりっぽい匂い。細く開いた窓から流れ込む初夏の風が、土の匂いと咽せるような若草の香りを運び込み、それらが混じりあった独特の空気が感じられる。


「――だから、その詠唱の解釈は少し違うと思います。古代ルーンにおける『光』の単語は、現代語の『希望』よりも、『道標』といったニュアンスが近いんです。現代語の方が、より抽象化されていると言いますか」


 フィーリア・クレセントが古文書から顔を上げながら指摘する。さらりと微かな音と共に、彼女の銀髪が頬にこぼれる。射し込む夕陽が彼女の髪を透かし、光の糸が編み込まれているかのように、きらきらと美しく輝いた。フィーリアの穏やかな青い瞳は、向かいに座って腕を組む幼なじみを、真っ直ぐに見つめていた。


「『道標』か…。なるほどな」


 リアン・アークライトは、指で弄んでいたペンをカツンと机に置き、感心したように頷いた。

 二人は、今日提出の魔法理論の課題に取り組んでいた。とはいえ、フィーリアは何日も前に終わらせていて、リアンの先生役をやっているのだが。机に積まれたレポート用紙には、彼が格闘したであろう魔法理論の記述が、お世辞にも綺麗とは言えない字で並んでいる。


「フィーリアがいてくれて、本当に助かるよ。俺一人じゃ、この課題、あと三日はかかってた」

「ふふ、リアンは実技がすごいのですから。座学は私の役目です」


 そう言って微笑む彼女から、ふわりと石鹸の清潔な香りがした。その声と香りは、いつもリアンの心に安らぎを与えるのと同時に、ちくりと微かな痛みをも与える。フィーリアの絶対的な信頼が、今の自分の不甲斐ない実力との差を、残酷なまでに浮き彫りにするからだ。


「それでも、やっぱりすごいのは建国王アルトリウスだよな…」

 リアンは窓の外に視線を移した。夕陽に染まる学園の象徴――中央時計塔が、夕焼けの広がり始めた空にその細身の影を刻んでいる。見つめるリアンの翠色の瞳に、憧憬の色が浮かんだ。

「たった一人で魔王を封印するなんて、一体どれだけ強かったんだか。俺も、いつかあんな風に…聖剣を抜けるくらい、強くなれるのかな」


 それは、この学園の生徒なら誰もが抱く、純粋な憧れ。魔王の魂を封じたとされる伝説の聖剣「ソウル・ケージ」。それを抜き、世界を救う「勇者」となること。


「なれますよ」


 フィーリアの声は、静かな図書館に凛と響く、高らかな鐘の音のようだった。

「リアンは、誰よりも優しい心を持っています。聖剣が本当に求めるのは、きっとそういう人のはずです。だから、大丈夫」


 その言葉に、リアンは何も言えなくなる。遠くから、レオの「おらぁっ!」という気合いの入った声と、リナの「そっちじゃない、この脳筋!」という冷静なツッコミが、開いた窓から風に乗って、微かに聞こえてきた。


「……だと、いいけどな」

 照れ隠しにぶっきらぼうな答えを返しながら、リアンは明日の授業のことを考えて、少しだけ憂鬱な気分になった。明日は、実践形式の模擬戦が組まれている。


「さあ、落ち込んでる暇はありませんよ。続きを終わらせてしまいましょう。明日の模擬戦、応援していますから」

「…おう」


 フィーリアに促され、リアンは再びペンを手に取った。

 今はまだ、知る由もなかった。

 この穏やかな日常が、今日の初夏の陽光のように、有限の輝きであること。

 フィーリアの祈りが、やがて彼女自身を苛むことになること。

 そして、リアンが憧れる「勇者」という存在が背負う、本当の宿命の重さも。


 しばらくすると、中央時計塔の鐘が、世界の心臓の鼓動のように鳴り響いた。

 鐘の音は荘厳で、どこか宿命的な響きをもって、威風堂々たる学び舎に時の終わりと始まりを告げていた。

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