聖女の任期終了後、婚活を始めてみたら六歳の可愛い男児が立候補してきた!
「聖女メルリラ、本日をもって聖女の任を解く。聖女として魔獣と対峙し、この国の平穏に貢献したことに感謝の意を表す」
白く長い顎髭を持つ神殿長が、しわくちゃな声でそう告げた。
「はい、ありがとうございます」
そう言って深く頭を下げると、滑らかな銀色の髪が肩を流れる。
これにより、私は聖女メルリラからただのメルリラ・ジーニに戻った。いや、正確には今日が終わるまではまだ聖女だ。ゆえに、あと十二時間と少しは聖女を名乗ってもよいだろう。
そもそも私は、ジーニ男爵の娘、いや、商人の娘である。父の商売が成功して財を成し、男爵位を授かったのだ。昔からの知人には、ジーニ男爵よりも「ジーニ会長」という呼び名のほうが馴染み深い。
そんな私が聖女に任命されたのは、今から五年前、十七歳のときだ。魔獣の魔力に対抗できる聖力に目覚めたのがきっかけだった。両親も兄も姉も、そんな力は持ち合わせていなかった。顔はよく似ており、宝石のような紫の瞳はジーニ家三兄弟の共通の特徴だ。
それなのに、私だけが突如として聖力を発現したのだ。
聖力とはその名のとおり聖なる力であり、魔獣が放つ魔の力――魔力に対抗できる唯一の力とされている。
聖力に目覚めた者は、聖女や聖騎士と呼ばれ、神殿に仕えることになる。なお、男性に比べて女性が聖力に目覚める確率は低く、聖騎士十人に対して聖女は一人いるかいないかという割合だ。
現在、神殿には聖女が三人、聖騎士が五十人ほど所属している。その三人の聖女のうちの一人が私だったが、明日、二十三歳を迎えるため、聖女の任期満了を迎える。
これは、聖女の任期が二十二歳までと定められているためだ。この決まりは、聖女も一人の 人間であるという考えに基づいている。神殿に一生縛られるのではなく、一定期間聖女としての役目を果たした後は、自由に人生を歩んでほしいという意味が込められていると聞く。 昔は聖力が続くかぎり聖女を続けていたらしいけれど、何年か前の聖女がそんなふうに決まりを変えたとか。
だから二十三歳になる私は、今日をもって聖女の役目を終えるのだ。
「お世話になりました」
聖女は神殿内の聖女宮と呼ばれる場所で暮らしている。一人一部屋が与えられるが、共有の広間もあり、今そこには私以外の聖女二人と、明日から聖女となるサアラがいる。彼女たちの後ろには聖騎士たちが控えている。
聖女には必ず専属の聖騎士が一人つく。専属は、聖女の聖力と相性の良い者、または聖女が望んだ者の中から選ばれる。
聖騎士の役目は、聖女が結界を張るのを補佐したり、魔獣の攻撃から守ったりと、聖女を支えることだ。専属聖騎士と一般の聖騎士の違いは、聖女の聖力を回復できる点にある。
聖女の聖力は無限ではない。結界を張って魔獣を封じるには相当な聖力を消費するし、負傷した聖騎士のために治癒能力を使えばさらに消耗する。夢中になりすぎて聖力の制御を誤り、聖力枯渇状態に陥ることもある。そのまま放置すれば命に関わるため、専属聖騎士が聖女の聖力を回復させるのだ。もちろん、聖女が聖騎士の聖力を回復することも可能だ。
聖力の回復方法には、聖騎士が自身の聖力を分け与える方法や、聖女自身の残存聖力を練って高める方法がある。ただし、具体的な手法は個人によって異なり、聖女と専属聖騎士だけがその詳細を知る。これは、過去に聖力回復を悪用した事件が起きたためだとされているが、事件の具体的な内容は伏せられている。
要するに、聖女と専属聖騎士がいれば、互いに聖力を回復し合えるのだ。
「メルリラさん。いなくなっちゃうんですね。サアラ、メルリラさんがいなくて大丈夫かなぁ?」
聖女見習いのサアラが不安そうに顔を曇らせると、聖騎士のウィリーが彼女の腰に手を回しながら声をかける。
「サアラなら大丈夫だよ」
二人の間には、見るからに一線どころか二線、三線を超えたような親密な空気が漂っている。
「メルリラさん、私たちだけでは不安です」
顔を見合わせてうなずき合うのは、聖女のリンダとベスだ。二人とも二十歳で、任期満了まであと二年ある。一方、サアラは今日まで聖女見習いだったが、明日から正式な聖女となる。十八歳の彼女は、この中では最年少で、ピンクの髪がひときわ目立つ。聖女候補の間、私は彼女の教育を担当してきた。
サアラが悪い子ではないのはわかっている。ただ、リンダやベスとは少し気質が異なるため、そこが心配だった。
「ウィリーが言うように、あなたは聖女としての教育をすべて終えているわ。だから、自信を持って」
「メルリラさぁあああん」
子犬のようにはしゃぎながら、サアラが私に抱きついてきた。
「リンダとベスも、サアラのことをよろしくね。あなたたちも」
ウィリーとは異なり控えめに立つ彼女たちの専属聖騎士たちにも声をかけた。
「それよりも、メルリラさんの聖騎士はどこに行ったんですかぁ? 聖女を辞めたら、専属聖騎士と結婚するんですよね? それが慣例だって。だったら、サアラの聖騎士がウィリーでよかったなぁ、なんて?」
サアラの無邪気な言葉が、痛いところを突いた。私は彼女の頭をそっとなでた。
「慣例と言っても、絶対じゃないわ。聖女の百人中九十八人くらいが、任期満了後に専属聖騎士と結婚したってだけよ」
「ですよねぇ? だって、メルリラさんとあの人が結婚するとは思えないですしぃ、なんでメルリラさんの聖騎士はあの人なんですかぁ?」
そう言ったサアラは、唇の下に人差し指を当て「なんで? なんで?」と目で訴えてくる。
それは私自身も聞きたいことだ。だが、神殿長によると、私と彼の聖力の相性が抜群に良いからだという。
聖女の専属聖騎士を選ぶ方法は二つある。一つは聖女が聖騎士の中から指名する方法、もう一つは神殿長が選ぶ方法だ。前者の場合、聖女が聖騎士に好意を抱いていることがほとんどだ。リンダとベス、そしてサアラは自分で聖騎士を選んだ。リンダとベスは幼なじみの相手を選んだようだが、サアラは「顔で選んだ」と笑いながら言っていた。
だが、私は自分で選べなかった。数多くの聖騎士の中で顔見知りの者はいなかったし、直感も働かなかった。その結果、私の専属聖騎士となったのはフェイビアンという男だ。彼は少々どころか、かなり厄介な性格の持ち主で、聖力の相性は良いかもしれないが、性格の相性は最悪だった。
そのことは、サアラが心配するほど。 「私がフェイを選んだのではなく、神殿長が選んだから、かしら?」
その言葉に、サアラは納得したようだった。
「ですよねぇ? だってぇ、少し話しただけでわかりますもん。あの人、『邪魔だ』とか『退け』とかしか言わないじゃないですか! メルリラさんがよく耐えてるなぁって、ずっと思ってましたぁ!」
サアラの語尾を伸ばしたり、調子を上げたりする話し方は、彼女の癖なのだろう。それでも、フェイビアンの口調を真似する様子は、笑いをこらえるのが難しいほどそっくりだった。
彼女の話し方については、気づいたときに直すようと伝えている。それでも「だってぇ~」と語尾を伸ばしながら言い訳されたのは、記憶に新しい。
「私が聖女じゃなくなるんだから、フェイもきっとせいせいするわ。たぶん、彼は聖騎士として残ると思うから、これからもよろしくね」
そう言いながらサアラのピンクの髪をなでたが、彼女は少し不満げな顔をしていた。
「メルリラさんが辞めるなら、あの人も聖騎士を辞めればいいのにぃ……」
「聖騎士は聖女と違って任期がないのよ。自分で辞めたいときに辞められるわ」
「だってぇ、あの人、聖騎士じゃなくてもいい家柄だって聞いてますよぉ? サアラなんて平民ですしぃ? それに、あの人、けっこういい年ですよねぇ?」
聖力は誰に発現するかわからない。サアラのような平民の娘もいれば、フェイビアンのような名門の出身者もいるし、発現する年齢も人それぞれだ。
だが、神殿に入れば身分は関係なくなる。それどころか、聖女は王族に次ぐ地位となり、聖騎士は貴族に準じる。これは、聖女の聖力だけが魔獣を寄せ付けない結界を張ることができ、怪我を癒す治癒能力を持つためだ。
「いい年……そうね、たぶん二十八歳くらいだったかしら?」
「サアラと十歳も離れてる! もう恋愛対象じゃないですよぅ。それで、メルリラさんは聖女を辞めたらどうするんですかぁ? 結婚しないんですよねぇ?」
「うーん、フェイとは結婚しないけど、私もそこそこいい歳だし、結婚はしたいなと思ってるの」
「え、え? 誰ですかぁ? 誰と結婚するんですかぁ?」
さすがに他人の恋愛話には興味津々な年頃なのだろう。
リンダとベスもさりげなく聞き耳を立てているし、彼女たちの聖騎士たちもだ。
「そうね、残念ながら相手がいないのよ。だから、婚活しようと思ってるの。」
私のその宣言に、そこにいた六人はきょとんとした顔をしていた。
名残惜しかったが、彼女たちとの会話を切り上げ、神殿長のもとへ向かった。てっきり今後のことを話し合うためにフェイビアンもいると思っていたが、彼の姿はなかった。
神殿長に挨拶をする。先ほどの終了式では厳かな雰囲気での挨拶だったが、今回は互いに軽い口調で言葉を交わした。
「いつでも遊びに来てください」
そう言ってくれたのが、少し心に響いた。
その後、フェイビアンを捜して神殿内を歩き回り、すれ違う聖騎士たちに別れの挨拶をした。ついでにフェイビアンの居場所を尋ねると、彼は自室にいるとのことだった。
神殿長との話し合いもなく自室にこもっているなんて、ひょっとして引きこもり気質だったのだろうか。そうだとしたら、五年間彼を振り回してしまったのは少し申し訳ない気がする。
そんなことを考えながら、フェイビアンの部屋の前に立った。ノックをすると、すぐに中から返事が返ってきた。
「メルリラです」
「……どうぞ」
たっぷりと沈黙が流れた後、フェイビアンの声が聞こえた。
「失礼します……って、あれ?」
室内はがらんとしていた。いや、もともとこういう部屋なのかもしれない。余計な物を置かない主義――彼ならじゅうぶんにあり得る。
そんな殺風景な部屋にぽつんと置かれた寝台の上に、フェイビアンが腰掛けていた。深い森のような深緑の髪は、窓から差し込む陽光を受けて明るく輝き、紺青の目は手元の書物に注がれている。
「フェイって、ほんと余計なもの持たないタイプよね。この部屋、殺風景じゃない?」
「ああ。俺も今日で聖騎士を辞めるからな」
彼は書物に視線を落としたまま答えた。
「は? え? ええっ!?」
「なんだ、そんなに驚くことか?」
そこでようやく彼は私に顔を向けた。
「そりゃ驚くわよ! 私は規則で聖女を終えるけど、聖騎士のあなたは別に辞める必要ないよね?」
「ああ。俺たちは好きなときに辞められる」
「じゃあ、なぜ?」
「なぜ? わかりきったことを聞くな。辞めたくなったから辞める。いや、続ける必要がなくなったから辞める、が正しいか」
彼の表情は、微塵も揺らがない。
「そ、そう? フェイが自分でそう決めたのであれば、別にいいんだけれど……」
誰かに強制されたのであれば問題だが、どうやらそうではないらしい。
「それで? 聖女メルリラ様はわざわざ俺の部屋にまでやってきて、どんな用だ? 聖力が枯渇したのか?」
「ち、違います。お別れの挨拶に来たんです。五年間、私の専属聖騎士として務めてくださってありがとうございました」
「あ、あぁ。専属としてやるべきことをやっただけだ。礼には及ばん」
「でも、五年間も私の側にいてくれたわけだし。フェイがいなかったら、死んでたかもしれないって瞬間、何度もあったもの……」
「そうだな。おまえはすぐに聖力を暴走させる。人を守りたいという気持ちはわかるが、その気持ちの大きさ故に、聖力の制御を手放すのをやめてくれ。俺たちが何度、ヒヤヒヤさせられたかわかるか?」
彼の瞳の奥に、青い炎が揺れているように見えた。初めて見る、彼の感情の動きだった。
「も、申し訳ありません……」
「いや、だから謝ってもらいたいわけでもない。過ぎたことだ……それよりも……」
彼が真っすぐに私を見つめてきた。
「おまえは聖女を辞めたらどうするつもりなんだ? 今までの聖女はすぐに結婚をしていたようだが」
「あぁ、それね。今、サアラたちにも言われたんだけど。結婚といっても、残念ながら相手がいないのよね」
「……そう、なのか?」
「そりゃ、そうでしょう? 神殿という閉鎖的な場所で、男女の出会いなんて限られているでしょ?」
「そ、そうか……」
なぜか彼の目がきょろきょろと動いている。
「だからね、婚活しようと思って。父や兄は商売やっているから顔が広いでしょう? その伝手で誰かいい人がいたら、紹介してもらうつもり」
「なるほどな。早く結婚できるといいな」
「何よ、それ。私に対する嫌み? 見てなさいよ、すぐに結婚式に呼んでやるから」
「……わかった。そのときは祝いの品をたくさん贈るとしよう」
そう言って、彼は再び書物に視線を落とした。それ以上話す必要はないと悟り、私は口を開いた。
「五年間、お世話になりました。ありがとうございました」
もう一度同じような言葉を伝え、頭を下げたが、どこか感情のこもらない言い方だった。
フェイビアンは私のほうを見ようともせず、返事もなかった。
まるで、フェイビアンの形をした置物に挨拶したようなものだ。そう思うことにした。
¶¶¶¶
聖女を終了した私は、実家へと戻った。姉は他家へ嫁いでしまったが、ここには両親と兄夫婦がいる。小姑が戻ってきてしまってごめんなさいという気持ちはあったけれど、義姉のヘンリエッタはそんな私にもやさしかった。
というのも、婚活をしているのにさっぱりと相手が見つからないからだ。
「どうやらね。聖女だったというのが、マイナスのイメージになっているみたいなのよね」
兄夫婦とサロンでお茶を飲みながら婚活状況について報告したところ、義姉からそんなことを言われた。
「ええ? どうしてですか?」
「聖女だったってことは、その……聖騎士とそういう関係にあったってことでしょ?」
「そういう関係?」
「男女の関係よ。一線を超えた、みたいな? 身体を重ね合わせたみたいな?」
言い方を濁しているが、つまり性交渉をしていたと言いたいようだ。
「な、何を言ってるんですか。私、こう見えてもぴっかぴかのしょ……」
「はい、はい、はい! お兄ちゃんは妹のそんな赤裸々な話は聞きたくないなぁ?」
兄が止めてくれなければ、私は自分の性事情を赤裸々に話してしまうところだった。
「まぁね? あなたを見ていれば男を知らないだろうなというのはわかるけれど、世間はそう思ってはいないのよね。だって聖女様ですもの。聖女は聖騎士のもの。聖女の任を解かれれば聖騎士と結婚する」
「だ~か~ら~。それだって絶対っていうわけではないんですって。そりゃ、長年、あんな閉鎖的なところでもっとも側にいる異性が専属の聖騎士ですから、そこから男女の関係に発展したっておかしくはありませんし、私以外の聖女たちは、そんな関係でしたし? だけど私の聖騎士は、そんなんじゃないんですって。もう、冷たいなんてもんじゃないです。凍える? 冷凍? あ、冷酷か?」
「なんか、あれよね。聖女になったってだけで、傷もの的扱い、みたいな?」
ヘンリエッタのその言葉はある意味間違ってはいない。
「おい、メル。誰に穢されたんだ? お兄ちゃんが敵を討ってやる」
「だから、お兄ちゃんが話しに入ってくると、わけがわからない」
「ちょっと、あなたは黙っていてください」
私とヘンリエッタから邪険に扱われた兄は、いじけてクッキーをばくばくと食べ始めた。
「一応ね。私たちの伝手でいろいろ情報は仕入れているし、あなたも積極的に社交の場には参加しているようだけれども……」
そこで言葉を濁すということは、言いにくい結果であると推測できる。
「まぁ、縁談もないってわけじゃないの。あるのはある。だけどお義父さまよりも年上の男性との縁談とか後妻とか……」
「ですよねぇ? そんなうまくいくはずないですよねぇ?」
はははは……と渇いた笑いで誤魔化す。
「でも、酷くないですか? 聖力があるからって勝手に人を聖女にしておいて、それが終われば傷もの扱いって。なんなの、この制度! 私も結婚したいんですけどぉ?」
兄に負けじと、私もクッキーを頬張った。
「責任をとってもらえ」
突然、兄がそんなことを言う。
「へきにん? だへに?」
「おまえの聖騎士だ。そいつに結婚を迫ればいい。あなたのせいで傷ものにされました。結婚してくださいって。おまえが言いにくいなら、お兄ちゃんから言ってやろうか?」
「いやいやいや。だから、お兄ちゃんは余計なことをしないでって。フェイと結婚したら、精神が凍えます」
魔獣討伐で結界を張ろうとしたら「そこにいられたら邪魔だ」と言い、勝手に人を持ち上げて別の場所におろすし、怪我をした聖騎士に治癒能力を使おうとしたら「こいつらに使う必要はない。かすり傷だ」とか言って、仲間にも冷たかったし。
フェイビアンとの思い出なんてそんなもの。でも、悪い人ではない。悪い人だったら五年間も一緒にいない。よく耐えたと思う、お互いに。
特に私が聖女の中で最年長となってからは、フェイビアンに対して八つ当たりすることも多かったかもしれない。それは悪いとは思うけれど、私の文句も彼は左から右に聞き流していたから、さほどダメージはないはず。
「若旦那様、お客様が来ているのですが……旦那様が不在でして……」
執事がやってきて、兄に耳打ちした。
「わかった。部屋に通してくれ」
兄が真面目な顔で答えた。
「メル。どうやら君に客人のようだ。君の婚活を知って、ここに来たらしい。だが安心したまえ。相手は父さんよりも若い男だ」
先ほどのヘンリエッタが紹介しようとした縁談に対抗してそう言ったに違いない。
「え?」
私は義姉と顔を見合わせた。きっと神様が頑張った私にご褒美をくれたのだ。
兄に連れられて、私もすぐに応接室へと向かう。
いったい、どのような男性だろう。
傷ものとか性女とか言われている私にわざわざ会いに来てくれる男性とは。
結婚の申し込みだろうか。
あまりにも嬉しくて、応接間に向かう足はリズミカルに弾んでいた。
「行儀が悪い。落ち着きなさい」
ヘンリエッタに注意されなければ、そのまま部屋に入っていただろう。
兄と一緒に応接室へと足を踏み入れる。ヘンリエッタは隣の部屋で待っているとのこと。
「お待たせして申し訳ありません。こちらが妹のメルリラ・ジーニです」
「突然の訪問、失礼しました。僕はイドリス公爵家のハリソンと申します」
そう立ち上がって頭を下げる様子は、好感が持てた。
絹糸のような金色の髪に、夜空のような瞳。鼻筋も通っていて、ぽってりとした唇は愛らしい。
そう、ハリソンは愛らしいのだ。男性というよりは男の子という表現が合う。
「お初にお目にかかります、ハリソン様。私がメルリラです」
見た目は子どもだが、公爵家の人間だ。つまり公爵子息。
私は兄と並んでハリソンの前に座った。使用人が静かに私たちの前にお茶とお菓子を並べると、ハリソンは目礼する。
堂々とした振る舞いの中に見え隠れする幼さが、私の胸をきゅんきゅんと締めつける。
どうしよう。そちらに目覚めてしまったかもしれない、と不安になるくらい、彼は可愛らしいのだ。
「単刀直入に言います。僕はメルリラさんと家族になりたいと思っています」
あまりにものド直球の物言いに、隣の兄が息を呑んだのが伝わってきた。
「その……失礼ですが、ハリソン様はいったいおいくつでしょうか?」
兄だから聞ける。私なら聞けない。気になっていたけれど、こんな聞き方はできない。
「はい。今年で六歳になりました」
「ですが、妹のメルリラは二十三ですよ? いいんですか?」
「はい。僕は気になりません。僕が成人を迎える頃には、もっと気にならなくなると思います。えぇと……」
そこで指を折って数えるところが、また母性本能をくすぐってくる。
「僕が十八歳のとき、メルリラさんは三十五歳……?」
未来を突きつけられ、少し心がえぐられた。
「そうですね。私とハリソン様は十七歳、年が離れております」
「十七歳……ちょっと微妙なところかもしれませんが……でも、おかしくないです!」
一生懸命声を張り上げる姿も可愛い。もう、可愛いしか出てこない。
「メルリラさん。お願いです。僕と家族になってください」
婚活がうまくいっていない私にとっては魅力的な提案だ。だが、相手が十七歳年下というのは、良心的に引っかかるものがある。
私が困って兄を見やると、兄も困って口元を手で覆い、少し考え込んでから口を開いた。
「ハリソン様。妹にはもったいない話です。そして今、我が家は家長である父が不在です。この件は、父と相談してからの返事ということでよろしいでしょうか?」
ものすごくまともなことを言っているように思えるが、すべての答えを父親に丸投げしているだけである。
「はい。今日は僕という人間を知ってもらいたくてここに来ました。ジーニ男爵には公爵家から手紙を出します。でも、前向きな返事をいただけると嬉しいです」
少し寂しそうに笑うハリソンを抱きしめたくなった。
¶¶¶¶
本当にイドリス公爵家からジーニ男爵家宛てに、手紙が届いた。内容はやはり私との縁談だったようだ。
両親と兄夫婦から、変な圧力をかけられる。
もったいないくらいのいい縁談だ。これを断ったら、無理やりにでもどこかに嫁がせる。
父親からはそんなことまで言われた。
もったいないという気持ちは私もよくわかる。だがしかし、相手が六歳の男の子というところは問題ないのだろうか。
そんな私の気持ちは無視され、とにかく母と義姉の手によって着飾らされ、イドリス公爵邸へと向かっていた。
ハリソンの両親と顔を合わせるためだ。
「でもね? お義姉様。いきなり息子が結婚したい相手として、十七歳も年上の女性を連れてきたらどう思います?」
介添えとして侍女の他に義姉までついてきてくれた。それは私が変なことをやらかさないかという監視も兼ねて。
イドリス公爵邸はジーニの屋敷とは比べものにならないくらい、立派なものだった。広さだって倍以上ある。
馬車から降りたとたんに、「来てくれて嬉しいです」とハリソンが私にひしっと抱きついてきた。
その姿に私の心はめろめろに蕩けだし、別世界への扉が開かれそうになって、慌ててそれを閉じた。
「メルリラさん。手を繋いでもいいですか?」
「はい、もちろんです」
別世界へと通じる扉を心の中できつく閉ざして鍵をかけた。
きっと弟がいたらこんな感じなのだろう。
エントランスに入ると、ハリソンが執事に何か言付ける。
「メルリラさん。庭を案内します。今日は天気がいいので、外でお茶にしましょう。それからすぐに父も来ますから」
「は、はひっ……」
緊張のあまり噛んでしまった。
公爵家という格上の屋敷で、公爵夫妻とこれから顔を合わせるわけだ。緊張するなというほうが無理な話である。
それでも庭という開放的な空間が、速まる鼓動を落ち着けてくれた。
「素敵なお庭ですね」
「はい。父も仕事を辞めてから、僕と一緒に花の世話をしてくれるので……」
「もしかして、こちらのお花をハリソン様が世話をされているのですか?」
「そんな、全部じゃないです。ここの一部だけ……」
ハリソンは照れたのか、頬を赤くした。
弟がいたらこんな感じと、私は何度も心の中で唱える。
「ところで……ハリソン様のお父様、イドリス公爵はお仕事を?」
「はい。お仕事で家を空けることが多かったんですけど、辞めました。今は、領地のほうのお仕事をしています」
公爵ということを考えれば、王城務めでもしていたに違いない。それを何か理由があって辞めてしまい、今は領地経営に力を入れているようだ。
「でも、お仕事の合間に、僕に勉強を教えてくれたり、剣術とかも……」
「まぁ、素敵なお父様ですね」
「ですよね? メルリラさんもそう思いますよね?」
「はい」
きっと子ども思いの父親なのだろう。それなのに、十七歳も年上の女性を連れてきた。
今後、起こることを想像したら、修羅場しか思い浮かばない。私がどこで身を引くか、それが問題だ。
ガゼボに案内され、そこで公爵が来るのを待つ。
その時間が異様に長く感じられた。ふわりと風が吹き、庭園の花を揺らす。
「ハリソン、待たせて悪い」
「父様。今日は、会わせたい女性がいると言ったじゃないですか」
どうしよう。顔を上げられない。
「それで? 彼女が俺に会わせたい相手だと?」
「そうです。メルリラ・ジーニさんです」
「……メルリラ?」
「はい、父様もよくご存知ですよね? 半年前まで聖女であられたメルリラさんです。メルリラさん、こちら父です」
「あ、どうも……」
顔を上げたら、紺青の目が真っすぐに私を捉えていた。
「メル? どうしてここに?」
「どうして? それは私も聞きたいのですが。今日はハリソン様にご招待を受けました」
「ハリソン? これは、どういうことだ?」
「どういうこともこういうことです。メルリラさん、聖女を辞めた後は婚活していたみたいですけど、元聖女という肩書きだけで相手が見つからなかったんですよね?」
どうしてハリソンがそのようなことを知っているのだろうか。
「でも。聖女様は辞めたときに聖騎士と結婚するのが慣例じゃないですか?」
だからどうしてハリソンはそのようなことを知っているのか。
「だが、慣例であって絶対ではないな」
低く響く通る声が答える。
「ですが、そういった慣例が続いたおかげで、メルリラさんは結婚できないんです。縁談があったとしても、自分の父親よりも年上の男性ばかり。もしくは後妻とか、ですよね?」
「ハリソン様。どうしてそのようなことを知ってるんですか!」
「だって、ジーニ男爵が手紙に懇切丁寧に書いて教えてくださいましたよ? でも、途中で筆跡が変わったので、もしかしてお兄様かもしれませんね」
間違いなく兄だ。兄が、人の婚活情報を包み隠さずハリソンに横流ししていたのだ。
「父様だって、メルリラさんのことが好きなのに、その気持ちを伝えることができずに聖騎士を辞めて屋敷に引きこもるって。子どもの恋愛ごっこですか? どこまで好きな女性に対してぽんこつなんですか!」
「……うっ」
「それとも、僕がいるからメルリラさんに気持ちを伝えられなかったのですか? そうであれば、僕はあなたの息子をやめます」
今にも親子喧嘩が始まりそうな勢いだ。
「あの~、ちょっと状況が飲み込めないのですが?」
「あ、すみません。メルリラさん。こちら、僕の養父であるイドリス公爵、フェイビアンです」
「養父、イドリス公爵……って、フェイ。あなた、公爵様だったの? しかも子持ち?」
私の声に、フェイビアンは深くうなだれた。
「というわけで、邪魔者は消えますので、あとはお二人でどうぞ。あ、そうそう、メルリラさん。勘違いしていると思うので、言っておきますが。僕はメルリラさんと家族になりたいと言っただけで、結婚したいとは言ってませんので」
――騙された!
いや、違う。私が勝手に勘違いしただけだ。
でも、あの状況で家族になりたいと言われたら、求婚だって思うじゃない。
年の差もばっちり確認されたし。って、それはもしかして、親子としての年の差だったのだろうか。
いや、でも――。
「ハリソン様!」
二人きりにしないでと思って助けを呼んだが、ハリソンの姿はもう見えなかった。子どもはすばしっこい。
困って目の前に立つフェイビアンを見上げると、また目が合った。
「座っても……いいだろうか?」
「あ、はい……」
「まぁ、あれ、だ。その……ハリソンが世話になった」
「い、いえ……」
「ハリソンは姉の子だ。姉夫婦が北部へ視察に向かったときに、魔獣の群れに襲われて、それで姉夫婦は命を失った」
聖女の力だって万能ではない。魔獣を防ぐための結界を定期的に張ってはいるが、その結界にほころびがあれば、魔獣が襲ってくる。フェイビアンの姉夫婦は、その結界のほころびから入り込んだ魔獣に襲われてしまったのだ。
「だから、残されたハリソンを俺が引き取った。俺が聖騎士になろうと思ったのもそれがきっかけだ」
いきなりフェイビアンの身の上話が始まった。
「あれ? フェイはもしかして……聖力があったのに、隠していたタイプ?」
たまにいる。聖力が出現しても、神殿に入りたくないからという理由で隠す人が。特に、彼のようにお貴族様だとその傾向が強い。私やサアラのように身分が低い者としては、貴族の仲間入りができるから、それだけでうま味があるのだが。
それでも結婚についてこれほど障害があるのは盲点だった。すべては今までの慣例のせいだ。
「そうだ。それで、その……おまえの婚活はうまくいっていないのか?」
「そうですねぇ? 元聖女っていうだけで、傷もの扱いですよ。失礼だと思いません?」
「傷もの……なのか?」
「そんなわけないでしょう? 今までの慣例がそうさせているんです。聖女は聖騎士のものだって。お務めが終わったら、幸せな結婚を夢見ていたのに、私の希望は全部パァですよ」
こうやって彼に愚痴を言うのは半年ぶりだ。悪い気はしない。
だが、一度口にしてしまったら、箍が外れたかのようにどどっと次から次へと愚痴が出てくる。それはすべて婚活失敗談。
「悪かったな。俺のせいで」
元聖女が結婚できないのは、専属聖騎士が側にいすぎたせいだ。いや、それでも私たちは適度な距離を保っていた。
聖力回復のために身体を重ねることもなかったし、粘膜接触とされる口づけすらしていない。
何よりも私の聖力回復方法は、寝ること。文字通りに眠ること。
フェイビアンは、私の聖力が回復するまで手を繋いでくれた。それは私が眠りこけてしまった後も。フェイビアンも私と手を繋いだまま眠ることもあった。そうやって繋いだところから互いに聖力を高め合うのだ。
「そうですよ。悪かったと思っているなら、責任を取ってくれませんかね?」
「いや、だが……俺と結婚すればすぐに母親になってしまう」
彼は間違いなくハリソンのことを言っている。
「でも、ハリソン様は言っていましたよね? ハリソン様の存在がフェイの気持ちを邪魔するなら、息子を辞めるって……それでもいいんですか?」
「それは、困る。だが、しかし――」
意外とフェイビアンは優柔不断だった。もしかして、魔獣がいるときといないとき、いや魔獣に関する内容とそうでないときでは、人格が変わるのだろうか。
「私は、ハリソン様から家族になってほしいと言われ、それを承諾しております。って、意味、わかりますぅ?」
サアラのように語尾を伸ばして、上目遣いで問いかけてみると、フェイビアンは観念したように唸る。
「わかった……ここは腹をくくるところだな」
さぁっと心地よい風が庭の花を揺らし、彼の低音の声も風に乗る。
冷酷な彼だと思っていたのに、姉夫婦の息子を引き取っていた。それに今だって、黙って私の愚痴を聞いてくれた。
魔獣討伐においての相性は最悪だった。いや、互いの命に関わる場所だからこそ、厳しくなっていたのだ。魔獣によって家族を失った経験がある彼だからこそ、なおのこと。
だけど、それ以外は意外とうまくいっていたと思う。言い合いは多かった。それもあって周囲からは仲の悪い二人と思われていた。
言い合いができるのも彼を信頼しているからだと気づいたのは、聖女を辞めてからだった。
近くにいるときには気づかなかったのに、離れてからわかることはたくさんあった。
私は、フェイビアンに好意を寄せていたのだ。
それに気づいた私は、彼の言葉に対して「はい」とうつむいて答えていた。
【完】
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