イヴァリンとセリカ
「アウロス。……あなたがまだこの国を仕切っていたのね」
「いえいえ、仕切るなどと。私はただ、国政の“形式”を守っているにすぎません」
ひとつ、柔らかな咳払い。
「さて、王女殿下の“復帰”と、“神託の娘”のお披露目……実に驚きの連続。
ですが――即位は、後日とさせていただきたく思います」
「……理由を聞かせて? 女神の信託異常に優先する理由を」
「ええ、もちろん。何しろこれは、“女神の娘”が王妃となる、国を揺るがす大儀です。
たとえ神託があろうとも――国民が納得するには、“儀式”という形が必要なのです」
セリカは思う(神託だけじゃ足りない? じゃあ、何なら足りるの……?)
「女神の祝福、血統、信託の奇跡――すべてがそろったからこそ、慎重にことを運ばねばなりません。
……おわかりですね、システィーナ殿下?」
「……ええ。“建前”が必要なのはわかっているわ」
「さすがです。では本日は、王宮の一室をご用意しております。
“姫君とその娘殿”には、まず静養していただき、後日の御前会議にて――正式な発表といたしましょう」
「……監視されるわね。大丈夫、セリカ?」
「……うん。大丈夫。もう逃げないって決めたから」
その夜、通された客室へと向かう途中の廊下で――
ふいに、煌びやかなドレスの衣擦れが、扉の陰から漏れた。
「まあまあ、お久しゅうございます、姉上」
現れたのは、銀糸のドレスを優雅に纏った一人の女。
涼しげな笑みと共に、堂々と歩み出る。
「リディア・アリステーゼ。……お姉様、私のこと、覚えていまして?」
そのすぐ隣には、艶やかに微笑む少女が一人。
「イヴァリン。イヴァリン・フォン・アリステーゼと申しますわ」
「“お母様”――初めまして。ご機嫌麗しゅう」
二人は、まるで幕が上がった舞台の役者のように、優雅に頭を下げた。
「……リディア。貴女、王妃にはなれなかったのね?」
システィーナの声音に、かすかな棘が混じる。
「ええ、残念ながら。弟が生まれましてね。
今ではその後見人など、地味な役をこなしておりますの」
「お姉様が、あの“箱”になど入らなければ……こんなことには」
「そう。大変だったわね」
「ええ、“生き地獄”でしたわ」
リディアは一切、笑わなかった。
だがその横で、イヴァリンは嬉しそうに微笑んでいた。まるで、この場が滑稽で仕方ないかのように。
「ところで、その子は――お姉様の“娘”なのですか?」
イヴァリンが一歩、セリカの前に出る。
「先ほど、“お母様”と呼んでおられましたわよね?」
「さあ。私の知る限りでは、そのような話は一切ございませんが」
と、リディアが柔らかく首を傾げて言った。
イヴァリンは、微笑んだまま。
その目だけが、まっすぐにセリカを観察していた。
(この娘……)
システィーナと自分を、交互に見ている。だが、その視線は決してリディアには向かない。
(何がそんなに楽しいの?)
――この娘、“遊んで”いる。
「では、またお会いしましょうね? 姉様」
そう言ってリディアは軽く会釈し、その場を去っていく。
当然、隣のイヴァリンも一緒に去るものと思われた。だが――
イヴァリンは、その場から一歩も動かなかった。
システィーナが、不思議そうに振り向く。
「……貴女は、私が子供の頃にはまだ幼かったはず。私は、貴女のことを知らないわ」
「ですから。知っていただきたくてまいりましたの」
イヴァリンはにっこりと微笑み、軽くスカートの裾を持ち上げて一礼する。
「よろしければ、寝る前に――お茶会など、いかがですか? お母様?」
ぴくり、と。システィーナの肩が震える。
「……今、誰に言ったの?」
「もちろん、システィーナ様に、ですわ」
微笑みは変わらない。
「私はずっと思っておりましたの。“お母様”と呼ぶのに、最もふさわしいお方は――貴女だと」
イヴァリンの視線が、セリカへと移る。
「ねえ、セリカ? 貴女も、そう思いません?
システィーナ様こそが、“母”にふさわしいお方――そうでしょう?」
即答できなかった。
セリカには、母が三人いる。
それが、彼女の思考を一瞬だけ鈍らせた。
だが、それでも――頷いた。
「ほら。なら、もう決まりですわね?」
イヴァリンは嬉しそうに手を叩いた。
「セリカは、私の“妹”。
そして、システィーナ様――貴女は、貴女の“お母様”ですわ」
そう言って、イヴァリンは何の遠慮もなく、客室の扉を押し開けた。
「夜のお茶会の準備、してまいりますわ。少々お待ちを」
そして、そのまま堂々と部屋の中へと消えていく。
あっけに取られるセリカとシスティーナ。
(……これが、あの娘のやり方なのね)
そう思いながら、システィーナはわずかに目を細めた。
夜。
客室のサロンに並べられたティーテーブルには、銀のポットと三人分のカップ。
そして、第二王女専用のケーキ皿に飾られた色とりどりの菓子たち。
その場に招かれる形で、システィーナとセリカは席に着いた。
「それで……イヴァリン。貴女の“目的”は何?」
沈黙の中、システィーナが切り出す。
その声音には、警戒心が滲んでいた。
「そんなに、“王女の娘”になりたいの? それとも、何か企んでいるの?」
するとイヴァリンは、にこりと笑って首を傾げた。
「何をおっしゃいますの、お母様?」
セリカの眉がぴくりと動いた。
「……えっ」
「わたくしにとって、システィーナ様は、既に“お母様”でございますわ」
「もちろん、周囲がそれを認めぬことぐらい、重々承知の上です」
そう言いながら、イヴァリンは手元のナイフとフォークを美しく使い、
自身の皿に置かれたベリータルトを、静かに一口。
「ただ――今日は、それを伝えたくて参りましたの」
――それだけ? と言いたげな空気に、イヴァリンはさらに上機嫌に笑った。
紅茶をすくい上げる動作すら、舞台のように優雅。
システィーナも、ため息をついた後、静かにケーキを口に運ぶ。
それはかつて、王宮で“第一王女”として教育を受けた者の、当然の動作だった。
一方で、セリカはというと――
テーブルに置かれたナイフとフォークの多さに、完全に困惑していた。
(えっと……どれから使うの……?)
(食べるだけなのに、なんでこんなに道具があるの……?)
手を伸ばしかけて、止まる。
もう一度見て、また止まる。
その様子に、イヴァリンは目を細めて、
「まあ、可愛らしい」とでも言いたげに微笑んだ。
「……でしたら、わたくしが取り分けて差し上げますわ、セリカ」
銀のナイフをすっと手に取り、迷いなくケーキをカットするイヴァリン。
そして、小皿に一切れ乗せ、セリカの前へ差し出した。
「これも、姉としての務め。――そうでしょう?」
セリカは戸惑いながらも、口を開けられたまま、皿を見つめた。
(わたし、この人……何を考えてるのか全然わからない)
でも――たしかに、優しかった。
ほんの少しだけ、それが悔しいと思ってしまった。
何も言えず、セリカはそっと頷いた。
口に運んだケーキは甘く食べたことのない極上の味がしたのだった……
「――さて、お茶も済みましたし、今日はそろそろお休みになりますか?」
イヴァリンが紅茶のカップをソーサーに戻しながら、優雅に言った。
「……うん、そうね」
システィーナが軽く頷く。
セリカも立ち上がろうとした、その時だった。
「ふふ、もちろん――寝室には、わたくしのベッドも用意させてありますわよ?」
「……はっ?」
セリカの声が裏返る。
「な、なにそれ、どうして!? 私たちの部屋なのに、なんで貴女まで――!」
「だって、お母様と妹ですもの」
イヴァリンは涼しい顔で微笑む。
「家族なら、同じ部屋で寝ても問題ありませんわよね?」
「無茶苦茶すぎる……っ!」
セリカが顔を赤くして抗議しようとするも――
「……セリカ」
システィーナが静かに一言。
その声に含まれた無言の「黙りなさい」を、セリカは感じ取る。
仕方なく、唇を噛んでそれ以上言葉を重ねなかった。
そんな空気の中――
コン、コン。
部屋の扉が、静かにノックされた。
「――まあ、訪問者? この時間に?」
イヴァリンが怪訝そうに目を細める。
「夜更けもいいところですのに。誰かしら?」
彼女は自ら立ち上がり、扉へと向かう。
躊躇いなく取っ手を引き、扉を開けた――。