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君の隣で眠らせて  作者: 上丘逢
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嫉妬

 天宮とお昼ご飯を食べていると、絢音のスマホが振動した。通知欄には、東野からのメッセージの着信が

表示されている。


「あらあらあ。嬉しそうな顔しちゃってえ。東野さんかしらあ」


 天宮がわざとらしい口調で、からかってくる。通知を見ただけで、そんなに締まりのない顔をしていただろうか。

 通知欄をオフにして、精一杯澄ました顔をしておく。


「見て大丈夫なのに」

「あとでゆっくり返すよ」


 一度見れば、返信するのにいろいろ考えてしまって時間がかかる。

 天宮は、そうだよねえと感慨深そうに頷いた。


 晃宏とは、一日に2〜3通のメッセージを変わりなくやりとりしていた。朝の通勤では会釈をするだけ。ただ、土曜日には、晃宏の体調がよければご飯を食べに行くようになった。あの契約が始まってから、もう三ヶ月だ。


「体調良いんだって?」


 天宮の言葉に絢音は頷く。今度こそ、きっと嬉しそうな顔をしているだろう。


「最近は、電車で寝る以外にも、2人でいろいろ試してるの」

「いろいろねえ」

「変なことじゃないよ!」


 慢性疲労症候群は、原因不明の病気で、病気の特定も難しければ、治療も人によって効果が異なる。


 幸い、今の晃宏は症状が軽いため、薬を飲みながら、ストレスをかけないように、生活習慣を整えようという方針だ。


 晃宏のかかりつけ医も、眠れるならぜひ、ということで絢音との電車での睡眠時間を推奨してくれている。


「お医者さんにも相談しながらね。少し一緒に散歩したり、あと、やっぱり朝ごはんを抜きがちらしいから、朝少しでも食べて、それを報告してもらったり」


 絢音も電子レンジだけで作れそうなレシピを探しては、いくつか晃宏に送るようにしている。


「作ってあげないわけ?」

「まさか」


 家も知らないのに、作りに行けるはずもない。それに、正直、そんな押しかけ女房みたいなことをして、晃宏の具合が悪くなったらと思うと怖くてできない。


「後半のほうが本音か。たしかに、そうだよね」


 天宮が頬杖をつきながら、絢音に同調してくれる。


「あいつが、絢音をたぶらかすような悪い奴じゃないってのは、わかったけど、これまたちょっと難しいよね」

「別にどうなりたいってわけじゃないよ」


 晃宏が病気を治すのが一番だ。自分の気持ちが晃宏に向いていることはとっくに自覚しているけれど、その気持ちをどうにかしようとは、少なくとも今は思えない。


「そう言うだろうから、難しいって言ったの。西野、いっつも人のことばっかりなんだから。聞いたよ。この間も「かばったんじゃないよ。一緒に謝っただけ」

「それで、あんたが課長からがっつり怒られてたら、意味ないでしょうよ」


 絢音の課のメンバーは若い女の子が多い。ミスをしてしまってもなかなか言い出せなかったり、ミスに焦ってミスをしてしまうこともある。


 それをうまくとりなしてあげたり、フォローするのも絢音の役目だと思っている。とりなし方があまりうまくなくて、絢音が火をかぶることも多少あるけれど、それは絢音の責任だ。


「うちのチームの子たちね、すごくがんばり屋なの。前よりはだいぶミスが減ってるんだよ」

「あんたの、その若手を活かす力、本当すごいと思うわ」


 それを言ったら、天宮の方がすごい。自分でどんどん前に出て、プロジェクトを進めていく手腕は、近くでみている若手には良い勉強になっていることだろう。


「待って待って。今日は褒め合うために、お昼に誘ったわけじゃないんだった」


 天宮が社用のスマホを取り出すと、メールを表示する。


「これ、西野も行かない?」

「バーベキュー?」


 メールには、次の体育の日の休日に、プロジェクトメンバーでバーベキューをする企画が書かれていた。

 

 バーベーキューとは珍しいが、親睦を深めるためにプロジェクトチームで飲み会を開いたりすることはよくある。


「これに、末広さんたちも呼ぼうってなってるんだけど、西野も来てくれないかなあ?」


 天宮が手を合わせながら絢音を伺う。


「いいけど、どうしたの?」


 いくら同じ社とはいえ、プロジェクト外のメンバを呼ぶのは異例だ。


「それが、参加人数が足りなくて……」


 10人以上でエリアを貸し切りにできる場所を借りたらしい。


「開発チームが今、別件の炎上案件に駆り出されちゃってさ」


 休日も出社して対応しないといけない火急の案件に3人ほど行かなければならなくなった、ということらしい。


「末広さんにも1人頼んだんだけど、うちも2人探してて。一人は開発チームの課長がなんとかしてくれるらしいんだけど、正直私って、こう言う時にかるーく頼める知り合いって少ないのよね」


「いいよ、お肉焼いて、お酌して、楽しく話せばいいんだよね」


 休日なら、晃宏との電車の日でもない。


「ありがとう! まじで恩に着る! 私は、他の人と話してて、当日あんまり気をつかえないかもしれないんだけど……」


「子どもじゃあるまいし、うまくやるよ」


 よかったあ、と天宮が肩の荷を下ろしたようにホッと胸をなで下ろす仕草をする。


「やっぱりさ、そこそこ上の人も来るから、見てなくても粗相なくこなせる人じゃないとって、結構人選限られてたんだよね」


 天宮は絢音のことを結構買いかぶっている。

 けれど、ソツなくこなせるだろう人選に選んでもらったのは、悪い気はしない。


 その日のお昼ご飯は、天宮が奢ってくれて、食後のコーヒーまでつけてくれた。、チームの子をかばったんでしょ?」


「あ、僕もそのバーベーキュー行きますよ」


 次の土曜日、電車に乗る前に晃宏にその話をすると、晃宏も末広に誘われたという。


「体調よかったらって。僕も、そろそろ社内の集まりにも顔を出せるようになりたいので、できれば行きたいなって思ってます」


 普段の集まりは途中で具合が悪くなったらと思うと、なかなか行くとは言えないらしい。

 行きたいと思えるようになったのは、良い傾向なのだろう。


「絢音さんもいるなら安心です」


 晃宏に名前を呼ばれてドキリとする。


 最近、晃宏は絢音のことを名前で呼ぶようになった。さらりと呼ばれ始めた名前に、まだ絢音の方が慣れていない。


 電車が到着するアナウンスが流れる。


「では、今日もお願いします」


 晃宏が頭を下げるのに合わせて、絢音もお辞儀する。このやりとりもすっかり定着した。


 電車に乗り込むと、まず絢音はリュックを下ろすようになった。

 初期は小さい鞄だったが、晃宏が倒れた時や具合が悪くなった時を考えて荷物を持ってくるようになった結果だ。


 晃宏は自分で持つと言い張ったが、一緒にがんばる、寄りかかってと頼んだはずだと言うと、渋々引き下がった。

 あまり荷物が重くなりすぎないようには気をつけている。


 隣に座った晃宏は、もうリラックスしていて、何かに吸い込まれるかのように寝息を立てている。


 絢音はその様子に安心すると、スマホを取り出した。今日の映画は、晃宏に勧めてもらった1時間程度の短いものだ。


──良い匂い。


 晃宏の首がくたりとこちらに傾く。

 肩にもたれるほどではないが、顔が近くなった分、晃宏の香りが濃くなった。


 焦燥を覚えるような香りには絢音も慣れて、今は心地よいと感じることのほうが多い。

 絢音もついつい眠くなってしまうので、電車で観る映画は短いものにするようになった。


──このまま、東野さんの病気が良くなるといいな。


 イヤホンをつけて、映画を再生する。


 晃宏の香りに包まれながら、静かに映画の世界に入る、この瞬間が、絢音はとても好きだ。


 晃宏の髪の毛が首筋をくすぐる。その感触に目を覚ました。慌てて振り返ると、新幹線が通り過ぎていくのが見える。

 いくつも立ち並ぶ高層ビルの窓が太陽を反射している。田町だ。


「ん」


 晃宏が小さく呻くと、細く目を開けた。


「あ、すみません、起こしちゃいました?」


 少し驚きながら、小さい声で謝る。晃宏はちょっとやそっとでは起きない。最初こそ絢音も気をつけていたが、あまりにも熟睡する晃宏に、起こす心配はしなくていいと思っていた。


「いえ、もう起きそうでした。最近、夜も少しは深く眠れるようになったので、たぶん前ほど体が睡眠を欲してないんですね」


 晃宏が目をこすりながら、理由を説明する。


「でも、まだまだ絢音さんには続けてもらわないとですよ」


 眠れているのなら、良いことだ。もちろん、絢音も眠れるようになったから、さあおしまいとは思っていない。


「こういうのって、一進一退なんですもんね。本当に気が抜けないなって思います」

「三歩進んで二歩下がるようなもんですからね。僕も何度下がったことか」


 その辛い道のりを歩き続けた晃宏だからこそ、冗談も交えて話せるのかもしれない。

 少しでも眠れるようになったのは良かった。


「絢音さんのおかげです。本当にありがとうございます」

「最強の枕ですからね」


 ビシッと敬礼してみせると晃宏が押し黙った。


「あれ、すべりましたかね……」


 ぶはっと晃宏が吹き出す。


「絢音さん、そんな冗談も言うんですね」

「すみません、調子に乗りました。忘れてください」

「いやいや、ちょっと、可愛くて忘れられそうにないですね」


 晃宏が、ふふっと笑い声を噛み殺す。冗談でも可愛いと言われて、思わず赤面してしまう。絢音は火照った顔をパタパタと手で仰いだ。


 失敗した。


 晃宏と話す時はなんとなく浮き足だってしまうので、気をつけていないと、いろいろとやらかしてしまいそうだ。


「本当に、絢音さんで良かった」


 晃宏が絢音を見返す瞳が優しい。

 その表情に、ドキリとしてしまった。慌てて顔を窓の方に向ける。


「あ、そろそろ秋葉原じゃないですか?」

「次は東京ですよ」


 ちょうどよく、電車のアナウンスが東京への到着がもうすぐだと告げている。

 ダメだ。絢音の顔はますます赤くなった。


 晃宏は、余裕があってズルい。


「もう少し話せますね」


 そうですね、と高鳴る心臓を押さえ込みながら、絢音は精一杯のポーカーフェイスで答えた。


 バーベキューの日は少し肌寒い日だった。


 10月になり、夏の残り香もすっかり風にさらわれて、過ごしやすい日がやっと来たかと思っていたのに、季節は、もうそろそろ冬だよと声をあげている。


「西野さーん、ビールいりますかー?」


 野菜を切っている手を止めて、絢音は顔をあげた。開発チームのメンバーの一人が絢音に手を振る。


「おねがーい」


 メンバーの男の子が、大きく手で丸を作る様に、若さを感じる。


 エリア貸し切りのバーベキューは、手ぶらプランの飲み物・食べ物おまかせコースに、各メンバーが持ち寄った肉や野菜が追加されている。集まった食材をさあどうしようかというところで、手をあげたのが絢音だ。


 プロジェクトのメンバー同士で話す時間があった方がいいはずだ。そう考えてのことだった。


 先輩にそんなことはさせられない、と先ほどの若手の男の子が気を遣ってくれたが、ここは顔を売るところだよ、と執り成しておいた。天宮も目線で謝っているということは、この采配でいいのだろう。


「手伝います」


 絢音の横にそっと立ったのは晃宏だ。


 メッセージでも今日行けそうだと聞いていたが、時間通りに晃宏が来たときには、絢音まで嬉しくなった。

 二回途中下車しました、と笑う彼の姿も眩しかった。

 休んでしまうことを、笑えるようになったのだ。


「じゃあ、しいたけにバターのせてくれますか?」


 十字に切れ目を入れて、石づきをとったしいたけをアルミホイルにのせる。


 晃宏が隣に立って一緒に料理をしているかと思うと、少し楽しい。寝る食べる以外で、何かを一緒にやるのは初めてだ。


「彼と親しいんですか?」

「え?」


 晃宏がバターをのせながら、ビールを両手に、こちらに向かって歩いてくる開発メンバーの子を見る。


「ああ、天宮経由で顔見知りってだけですよ。今日初めてまともに話したかも」

「へえ」


 なんだか素っ気ない相槌に絢音も思わず押し黙る。若手の子が絢音が使っているまな板の近くにビールのカップを置いてくれた。


「西野さん、ビール置いておきますね」

「ありがとう」


 絢音と晃宏が作っているアルミホイルを覗いて、うまそ、と嬉しそうに笑う。


「たくさんお酒ついで、たくさん食べなね」

「まかせてください!」


 元気よく返事をすると会話の輪の中に物怖じせずに入っていく。若々しさ溢れるその様子が眩しい。


「いいなあ」


 ぼそりと晃宏が呟く。


「あ、東野さんも行きます?」


 晃宏も久しぶりの交流の場だ。本来なら、ああやって社内外問わずに話した方がいいはずだ。


 一緒に料理ができるなどと浮かれている場合じゃなかった。


「いや、僕は──」


「東野ー、三笠の課長さんに挨拶しにいこうよー」


 晃宏の言葉をセミロングに緩いパーマをかけた可愛い子が遮った。絢音たちの調理場兼テーブルの前でビールを二つ持っている。


「あ、俺、ちょっと調理を手伝ってから行くよ」

「いやいや、こういうの先にやっておいた方がいいよ。東野、お借りして良いですよね?」

「あ、はい、こっちは大丈夫ですよ」 


 彼女には「俺」を使うのか。


 そのことに、気を取られたのと、彼女の有無を言わさない口調に思わず頷いてしまう。


 でも、そう、そうすべきだ。


「ほら、いいって」

「西野さん一人じゃ大変ですよ」


 食い下がろうとする晃宏の腕を、彼女がつかむ。晃宏が絢音のことを「西野さん」と呼ぶ。

 胸がズキリとうずく。当たり前だ。同僚の前で、恋人でもない女性を絢音さんなどと呼ぶはずがない。


「あー、この人が西野さんなのね! 東野がいつもお世話になってます」

「やめろよ、皆月」


 いいじゃん、同期のよしみでしょ。と皆月と呼ばれた若い子が晃宏の背中をバンバンと叩く。


 いっそ、豪快で清々しいぐらいだが、晃宏には少し強い気もする。


「そんなに叩くと──」

「大丈夫ですよ。昔はめちゃくちゃ丈夫な奴だったんですから。最近調子いいですしね。あ、西野さんのおかげなんですよね、ありがとうございます」


 ほら、いくよと皆月が晃宏をひっぱる。晃宏も諦めたのか、目顔で絢音に謝ると、大人しく皆月と隣に並んで歩き出した。何か文句を言ったのか、また皆月にバシンと背中を叩かれている。


 あんな風に、晃宏と話したことも、触れたことも絢音はない。晃宏がいつもお世話になってますと言える立場でも、晃宏のことでありがとうございますと誰かに言える関係でもない。


 絢音はきゅっと口を引き結ぶと、まな板に向き直った。


 まだ、ナスも南瓜も玉ねぎもある。切るものはたくさんある。

 椎茸を退けて、玉ねぎを手に取る。輪切り、鮭のムニエル用に千切り、串焼き用にくし切り。

 あるだけ切りながら、潤みそうな目を玉ねぎのせいにした。


 野菜を切って、焼き係の若手メンバに持っていく。お手洗いだと言って、その場を離れた。


「西野」


 振り返ると、天宮が微笑んでいた。


「私も、お手洗いって言ってきた」


 野菜、ありがとうね。

 天宮の言葉に首を振る。


「私ね」


 泣きたいわけでもないのに、なんだか声が喉に絡む。

 うん、と天宮が静かに相槌を打ってくれる。


「どうなりたいってわけじゃないって言ったのは本当なんだけど」


 晃宏の体調を戻すのが最優先だ。その想いは今も変わらない。


「東野さんの隣にいるのは自分だって思ってた」

「そうだよ」


 絢音は首を振る。


「違うよ。私は隣にいるけど、それは、電車の中で隣り合うような、そんな隣なの」


 どちらかが下車すれば、解消される関係。


 それが、絢音と晃宏の今の関係だ。


「こんなの知らなくてよかったのに」


 なんで、「西野さん」て呼ぶの?

 なんで、あの子がありがとうって言うの?

 なんで、一緒に行っちゃうの?


 こんなことで誰かを詰りたくなるのは、高校生までだと思ってた。


「もうやだ。自分がバカみたい」

「わかるよ」


 天宮が絢音の背中をさすってくれる。

 もっと、カッコよく恋をしたいのに。


 ギュッと手を握り締めたまま、心を沈める。奥底に。この感情ごと。深く深く沈んでしまえばいい。


 天宮は、きっと早く戻りたいだろうに、絢音が落ち着くまでずっとそばで待ってくれていた。


「天宮、ありがとう、大丈夫」

「ん、行くよ」


 天宮が思いきりよく絢音の両手をひっぱる。


「肉、食べて、飲むぞ!」

「ワインあるかな?」

「課長のとびきりのやつ開けちゃお!」

「怒られない?」

「末広さんと東野さんのせいにしちゃえばいいよ!」


 子どものように手を握って二人でバーベキューの席にもどると、末広が絢音と天宮に取り分けた肉と野菜を持ってきてくれた。


「西野さん、野菜切ってくださってありがとうございました。まだ、あんまり食べられていないかなと思って」


 さすがの細やかさだ。


「末広さん、うちの課長のワイン開けちゃおうと思うんですけど、一緒にどうですか?」


 天宮がイタズラっぽい顔でクイッと手を傾ける。


「いいですねえ。私が持ってきたとっておきのサーロインも焼きましょう」

「いいですね!」


 天宮が手を叩いて声をあげる。天宮の話ぶりからわかってはいたが、絢音が想像していよりも2人はもっと良い関係になっていたらしい。


「どうしたの? 西野?」

「ううん、楽しくて」


 視界に入りそうな晃宏と皆月のことをなるべく見ないようにして、三人で肉とワインを開ける準備をする。

 もちろん、こっそりなんて本当にはやらずに、社会人らしくワインは持参してきた課長に開封してもらって、皆でいただくとすっかり空になってしまった。


 それでも、美味しい肉や野菜を食べて、お酒を飲んで、誰かと話しながら笑っていれば気がまぎれた。


「あ、末広さん、戻ってきた。じゃあ、私、挨拶しに行ってくるね」


 なんとなく、末広と天宮の三人で並んで座った場所が定位置のようになっている。誰かと話しに天宮や末広は遠征するが、必ず戻ってきてくれた。


 晃宏と皆月は、絢音の社のメンバも交えた別の席で盛り上がっている。皆月が晃宏に触る回数が多い気がするのは、気のせいだろうか。


「戻りました」


 末広の声にハッとして、晃宏たちの席に向けていた視線を外した。しまった。


 末広の方を伺うと、気づいていないのか、気づいているけれど気づいていないように振る舞ってくれているのか、全く気にしていないように笑いかけてくれる。


「おおむね挨拶周りは終わったと思います」


 末広がビールを煽った。挨拶のためにセーブしていたのだろう。いい飲みっぷりだ。


「メンバの方はほぼ顔見知りなんですよね?」

「ええ。開発の方は本当に一度お会いしただけですが、名刺交換は済んでいる方ばかりですね」


 末広が絢音にひそひそ話をするように声を落とす。


「あの、そちらの課長の好きなワインの銘柄ってわかりますか?」

「ええと、銘柄はわからないですが、白が好きですよ。あと、焼酎も好きですね」


 焼酎か、と末広が頷く。


「今度は居酒屋で飲もうという話になったんですが、お店選びの参考にします」


 ありがとうございます、と末広が礼をする。

 そんなやめてください、と手をふりながら、そのよそよそしい姿に、絢音も思わず眉を下げた。


 やっぱり、こういう場だといつもみたいには話さない方がいいのかな。


「東野のことですか?」


 呟くように放った言葉に、末広が的確に核心をついてくる。


「いえ、あの、常識としてです。あくまで」


 これでは、晃宏のことだといってしまっている。


 意味不明な取り繕い方をしてしまって、自分の顔が赤くなるのがわかった。

 晃宏以外の前でも晃宏のことになると、変になってしまう。


「本当は秘密にしておきたかったんですよ」


 秘密? 顔をあげると末広が晃宏と皆月を見ていた。末広は聡い。いろいろとお見通しなのだろう。


「私と一緒に西野さんの話をしているところをたまたま聞かれましてね。かなり東野は渋ってたんですが、皆月さんもあの性格でしょう? 東野が折れてしまって、話す羽目になったんです」


 根が悪いというより、自分が嫌じゃないことなら相手も嫌だとは思っていないってタイプなんですよね。

 物言いこそ柔らかいが、末広の皆月への人物評は辛辣だ。


「今回も皆月に押し切られたんですよね。東野が」


 質問というよりわかりきっている口調だ。その通りだけれど、晃宏がいろんな人と交流した方がいいことも確かだ。それを実現したのは皆月とも言える。


「それはその通りですが、今の東野のペースってもんがありますからね。あの人は東野のどん底を知らないから、あんなことができるんです」


 末広が人に陰でこれだけ悪様にいうのはなんだか印象と違うなと思っていたが、わかった。

 怒っているのだ。東野の体調を考えずに振り回す皆月が不満で、かといって、晃宏を差し置いて何かを言えるわけでもない。


「末広さんて、東野さんのこと、大好きなんですね」

「西野さんには負けます」


 さらりと言われた言葉に、赤面する。思わず、両頬をおさえた。


「そんなにバレバレですか?」

「いや、本人はわかってないと思いますよ」


 よかった、と言うと末広が訝しげな顔をする。


「いえ、私の気持ちのせいで、東野さんが思い悩んで体調に影響するとよくないんで……」


 好きじゃない人でも好意を寄せられたら、真剣に考える。

 晃宏がそういう人だというのは、この短い付き合いでもよくわかる。


「その顔で言えば、むしろ元気になりそうですけどね」


 末広が冗談とも本気ともつかない口調で言うけれど、絢音はそんな楽観的にはなれない。


 嫌われてはいないだろうが、好かれているかと言えばよくわからない。

 絢音と晃宏の関係は、契約から始まっているし、今でも会うのはその「仕事」の時だけだ。貴重な枕である絢音に対して、親しみは感じていても、愛情を持っているかはわからない。


 それに──。


「いつも通帳を見るたびに、現実にかえるんです」


 毎月振り込まれるお金に、自分と晃宏を繋ぐのは、この金額なのだと。

 この関係につけられる金額が、絢音と晃宏の間柄なのだと。


「すみません、愚痴ってしまって」

「いやあ、よくわかりました。西野さんの東野への愛」

「愛、なんですかね?」


 ふざけているのかよくわからない末広のトーンに、少し肩の力が抜ける。


「愛でしょう。体調を崩さないように心を配りながら、お金で繋がる関係に思い悩むのが、愛でなければ俺は人を愛したことがなくなります」

「末広さん、ふざけてます?」

「あ、調子に乗りました」


 潔い謝罪に思わず笑ってしまう。末広が真面目な顔で咳払いを一つする。


「恋は自分が傷つかないようにしますけど、愛は相手が傷つかないようにするんですよ」

「は?」


 ワインを片手にわざと格好をつけながら末広が言う。間違って使うと赤面してしまいそうな詩人のような言葉は、末広が言うとさらっとしていて、アクがない。


──愛は相手が傷つかないように。


「人の受け売りですけどね。あながち外れてないなと思ってます」


 恋は自分がするもので、愛は相手とするもの。

 相手との歩調に合わせるために、絢音は今、思い悩んでいるのだと。

 末広が諭すように絢音に語る。


「末広さん、恋愛カウンセラーだったんですか?」

「まさか! 受け売りだっていったじゃないですか。もし、西野さんに響いたんなら、私も思い悩んでいるからかもしれないですね」


 もしやと思って天宮をちらりと見ると、末広も静かに頷いた。


「それは! 素敵ですね!」


 人の恋愛って素敵に見えますよねえ。

 末広がとぼけたように言うと、背もたれに体を預けた。


 末広は「私も」と言ったが、それは絢音とは違う。

 絢音はビールを勢いよく飲み干した。


「ありがとうございます、末広さん。やる気が出ました」

「やる気」


 笑顔でうなずいて見せる。

 末広は愛だと言ったけれど、絢音からしたら、これは初めから負い目のある恋だった。


 絢音の好きな香りを纏った晃宏に心惹かれたからこそ、隣に座ることにしたのだ。それを、末広は知らない。


 その負い目に、晃宏が元気になるのが先決、そういう制約がついただけだ。絢音は、その足枷に近い使命に思い悩んでいる。末広の純粋に思い悩む気持ちとは違う。


 ──それなら、それで。


 自分の役目は、晃宏が心やすらかに隣で寝るように心を砕く。まずは、それだけを。

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