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君の隣で眠らせて  作者: 上丘逢
4/19

契約

 待ち合わせ場所は、秋葉原JR駅のコインロッカーの前だった。土曜日の朝7時半。秋葉原駅は、平日ほどの混雑はなく、つくばエクスプレスからひたすら乗ったエスカレーターで地上に出ると、小ぶりな雨が地面を濡らしていた。


「すみません! 少し遅れてしまいました」


 絢音が小走りに駆け寄ると、すでに天宮、末広、そして今回の事の発端でもある晃宏が揃っていた。


「大丈夫ですよ。さっき全員揃ったところです」


 晃宏が柔らかく微笑む。眉尻が下がる笑い方は愛嬌があってどちらかというと気弱そうな印象を受けるのに、絢音の鼻をくすぐる香りは、どことなく野性的なものに感じる。

 前回、居酒屋で会った時から1週間が経っていた。


「絢音さん、今日はよろしくお願いします。朝早くにすみません。天宮さん、末広さんもお付き合い下さってありがとうございます」


 彼が絢音たちそれぞれに頭を下げる。天宮が強引に、私も付き添わせないと絶対に行かせない、と粘ったからこうなったので、彼のせいでは断じてないと思う。


 あの後の帰り道、天宮に危機感がなさすぎると叱られた。

 ホテルに連れ込まれでもしたら、どうするの、と。

 正直、どこの誰かわかっている分、大丈夫と思っていたこともあるが、そうなったらそうなったでとも少し思っていた。


 そういう人かと少しがっかりするだろうが、見切りをつけられるとも言える。

 だから、あの場面で、断る理由がなかった。


 彼が香りの人なの。

 そう言うと、天宮は絶句していたっけ。


「そりゃあ、いくら朝が早かろうとも、うちの西野のためですから」

「俺は、天宮さんとデートしてるからご自由に」

「は!?」


 天宮が末広の言葉に振り返る。末広がニコニコと悪い顔で笑っていた。


「末広さん、頼みますね」


 晃宏の言葉に、任せてまかせて、と末広が手を振る。天宮は、いやこれはデートじゃ、と否定しているが、こんな風に慌てる天宮は珍しい。


「さあ、行きましょう。切符は買ってありますので、配りますね」

「切符?」


 交通費は支給だと聞いてはいたが、切符を配られるとは思っていなかった。

 しかも、手渡されたのは、新幹線に乗るときの往復乗車券だ。それを、2枚。


「山手線を1周するには、往復切符が必要なんです。二周するので、2枚。駅員さんにみせるのも手間をかけるだけなので、乗車券1枚で入場・退場します」

「へえ。山手線一周ってそういう乗り方なんだ」


 天宮が納得したように頷く。

 山手線は、発車駅からその手前の駅までが往路、その手前の駅から発車駅までが復路とのことだった。


 律儀な人だ。


 絢音は切符を片手にそっと晃宏を見上げる。

 この前、倒れそうになったのを見たので、少し心配だったが、今日の晃宏は少なくとも前回のあの時よりは元気そうだ。


「じゃあ、行きましょうか」


 ゆっくりと歩き出した晃宏の後ろについていきながら、絢音は表情を伺う。


 慢性疲労症候群。


 あの後、少し調べてみたが、確かに不眠症などの症状も起こりうる病気だった。

 初期症状は風邪としか思わないためか、診断がつくまでになかなか時間のかかる病気らしい。うつ病とは違うとあったが、気が滅入ることもあるという。そもそも、動くとかなり疲れを感じるらしい。


「体調は大丈夫ですか?」


 前回、倒れる直前の顔は血がすべて抜かれたように感じるほどに白かった。


「はい。今日はまだ良い方です」


 ありがとうございます、と晃宏が薄く笑う。


「体を動かすと疲れるんですよね? 電車でよかったんですか?」


 晃宏には、いつものように電車で座っていてもらえればいいと言われたが、動かない方がいいのではないのか。


「絢音さん、後で話してやってください。歩きながら話すのは、今の晃宏には酷なんです」


 後ろにいる末広が、冗談めかすように晃宏の脇をつつく。


「おわ!」

「ほらね」

「末広さん、俺の脇が弱いの知ってますよね!?」


 じゃれあっている二人は楽しそうだが、たしかに晃宏は肩で息をしている。


「すみません……」


 自分で疲れるとわかっておきながら、疲れさせてしまっている。


「いやいや、悪いのはこいつの体なんで、絢音さんは悪くないですよ。こいつも本当は話したいはずなんですけど、なかなか厳しくて」


 晃宏も少ししんどそうに苦笑しながら謝る。


「すみません。あとで」


 コクコクと声を出さないように頷くと、晃宏の口からふっと息が漏れた。笑い声を我慢している晃宏は楽しそうで、それで絢音も少し救われた気がした。



 改札を抜けて、山手線の内回り、上野・池袋方面の電車に乗る。


「座れてよかったです」


 絢音は意味もなく鞄の紐を弄りながら、晃宏に明るい声で話しかける。

 二人ずつには分かれたものの、絢音と晃宏、天宮と末広それぞれで席に着くことができた。

 ちょうど向かい側の座席の対角線上に天宮と末広が、そして、絢音の右側、見上げればすぐに顔がある位置に晃宏が座っている。

 小気味よい発車の音楽が流れた。


「早起きしていただいた甲斐がありました」


 聞こえる声が近い。

 隣に立つと感じる香りが、こうやって隣に座るとさらに強く香ってくる。

 触れそうになるほどに近い肩や腕に無性にドギマギする。


「なるべく、実際に近い方がいいと思うんですが、本とかゲームとかは持って来られましたか?」


 あらかじめ、暇つぶし用に何か電車でできるものを持ってきてくれと言われていた。

 ポケットwifiにイヤホンを晃宏に見せる。有料チャンネルで映画も見れるし、音楽も聴ける。

 晃宏がよかったと頷いた。


「僕、たぶんすぐに寝てしまうと思うんですが、もし、肩とかにのしかかってしまったら、遠慮なく押し戻してくださいね」


 申し訳なさそうに言う晃宏に曖昧に笑ってみせる。

 いつもの朝の電車では、晃宏が絢音の肩を使うのも珍しくはない。絢音がいつも先に降りるので、覚えてはいないのだろう。


「では、西野さんが過ごしやすいようにしていてくださいね。何かあれば起こしてください」

「はい。まかせてください」


 気負って出した言葉に晃宏が笑う。


「そういえば、先ほどの質問にお答えしてなかったですね」

「質問?」

「電車でよかったのか、という質問です」


 晃宏が前を向いて、ゆっくりと目を閉じる。

 まるで鳥のささやきを聞くかのような佇まいだ。


「場所的にオープンだって言うのもありますが、あなたに出会った電車にしようって決めてたんです」


 もし、隣で眠れるなら。


 囁くような声が絢音の耳に届く。

 ゆっくりと背もたれに背中をつけた晃宏を見て、絢音もポケットwifiの電源を入れる。


 ──でも、もう少し。


 もう少し、このままでいたい気もする。

 ゆっくりと息を吸うと、身体中に晃宏の香りが広がる。晃宏の息遣いが耳をくすぐる。


 ふと、顔をあげると、心配そうに天宮がこちらを見ていた。

 不安気な顔にひらひらと手を振ってみせる。


 絢音の右側が温かい。晃宏はすでに微睡始めたのか、電車の揺れに抵抗することなく、小さく前後に揺れている。

 その眠る表情を見て、絢音は耳にイヤホンをはめた。


 なるべくじゃましないように。

 映画を見ていると、時折肩に髪の毛が触れた。その回数が次第に大きくなっていき、ポスリと絢音の肩に晃宏の肩の重みがかかった。ずりずりと頭が落ちてきたかと思うと、絢音の肩にストンとおさまった。


 ふふっと思わずにやけそうな表情をスマホで隠す。

 首に触れる髪の毛は柔らかくて、優しくて甘い香りがした。



 代々木を過ぎると、流石に少し首が痛くなってきた。

 晃宏の顔はすでに元の位置に戻っていた。ゆっくりと体を揺り戻した時は、起きたのかと思った。今は、少し上を向いて眠っている。


 映画を止めて、首を回しがてら、車内をぐるりと見渡す。

 天宮は末広に対してそっぽを向いている。敵対心だったはずの何かが、強い関心だったんだろうな、と天宮が末広に相対する姿を見て感じていた。あからさまに無関心を装う天宮の姿は、逆に関心がありますと言っているようなものだ。

 ポスっとまた肩に重みがかかる。晃宏の頭が絢音の肩に乗ってきた。


 ──私も寝ようかな。


 ぽわぽわと温かな体温が近くにあると、こちらも少し眠くなる。相変わらず、ドギマギするような香りを放ってはいるが、ずっと隣に座っているからか、絢音も次第に香りに慣れてきていた。


 寝てはいけないとは言っていなかったはずだ。絢音は晃宏の柔らかい髪の毛を感じながら目を閉じる。鼻を通る晃宏の香りが絢音を包み込むようだった。

 おもちゃが動き出しそうな音楽で目が覚めた。晃宏の頭はまだ絢音の肩にある。あまり動かないようにしながらホームを覗くと駅名が見えた。上野だ。


 ──2周目か。


 山手線をぐるりと回るのは初めてだ。

 8時を過ぎたからか、少し車内が混み始めている。人の合間から天宮たちの方を見ると、いつの間にか二人でイヤホンを分け合っていた。


 思わず二度見する。


 どうしてそうなるのかわからないが、未だに少しそっぽを向いている天宮としては不本意なのだろう。

 電車がスピードに乗って走り出すと、陽の光が差し込んできた。どんよりとした天気だったはずだが、雨は上がったらしい。青空の広がる外の景色に夏を感じる。もう時期、梅雨も終わりだ。


 それから残りの映画を見て、ちょうどクライマックスの頃に晃宏の方から振動が伝わってきた。


「ん……」


 晃宏はガサゴソとポケットを探ったかと思うと、スマホを取り出す。晃宏は、寝ぼけ眼に目をこすりながら、スマホをいじった。今は、新橋だ。


「眠れましたか?」


 晃宏が、ん、と短くうなずく。寝起きだからか、子どもみたいだ。

 その答えを聞いて、絢音も背筋を伸ばす。


「あ、俺、肩使ってましたよね? すみません」


 覚醒し始めたのか、晃宏が眉尻を下げて謝る。慌てているからか、「俺」と言っているが、こちらが素なのだろう。


「大丈夫ですよ。東野さん、本当に全然目を覚まさないんですね」

「夜はあんまり眠れてないので。すごく、すっきりしました」


 確かに、顔色が良い。どことなく朝より元気そうだ。


「あ、僕もその映画最近観ました」

「え? 本当ですか? 私、このシリーズ好きなんですよ」


 アメコミが元になっているヒーローが活躍する映画だ。絢音のスマホは決戦の場面で止まっている。


「眠ろうとすると余計眠れないんで、最近は開き直って映画ばっかり見てるんです」


 話している内容は明るくないが、晃宏の口調はあっけらかんとしている。努めてそうしていてくれるのかもしれない。


「みづらかったですか?」


 最近観たと言うことは、これが2時間弱の映画ということも知っているのだろう。あと30分は残っているこの場面のはずがない。


「いえ。私も少し眠ってしまったんです」


 晃宏が気にやまないように、そっとスマホの画面を閉じる。


「電車ってなんでこんなに心地よいんでしょうね」

「電車内で感じる音が赤ちゃんの胎内の中の音に似ているとか、揺れが眠りにつくのにちょうど良い感覚だとかいろいろ言われてますね」


 思わぬ雑学だ。よくご存知ですね、と晃宏に言うと照れたように笑った。


「どうやったら眠れるかひたすら調べましたからね。西野さんの隣に勝つようなものはなかったですけど」

「光栄です」


 秋葉原に着いた。電車から出ると、絢音の頬を爽やかな風がくすぐっていく。

 ひっそりと腰を伸ばす。流石に2時間ずっとほぼ同じ体勢で座っているのは体が固まる。


 けれど、気分は悪くない。すごく高揚する気分というわけではないが、凪いだ風が波を撫でるような穏やかな時間だった。


「西野、大丈夫?」

「うん」


 天宮は、という言葉は飲み込んだ。末広との微笑ましいようなむず痒いような姿を見たことは、黙っておいた方が良いだろう。なにか声をかけるとその考えが天宮にも伝わってしまいそうだった。


「今日はお付き合いいただいてありがとうございました」


 行きと同じロッカルームの前で、晃宏は頭を下げた。

 朝が早かったからか、まだ街は活気付いたばかりだ。少し窪んだ路面に雨水が溜まって、朝陽と呼べる陽の光を反射している。


「やっぱり、顔色いいな」


 末広が医者のように顎に手を当てて、晃宏の表情を観察する。


「はい。やっぱり、西野さんの隣だと眠れるみたいです」

「まさに救世主、女神だな」


 冗談かと思うような末広の言葉に、晃宏が神妙に頷く。


「西野さん、山手線2週。10000円で交通費支給。バイトにしては安いかもしれませんが、どうでしょうか?」

「たまにお昼もつけますよ」


 末広の冗談にも、もちろんです、と真面目に答え、まるで交際を申し込むように、晃宏は思い詰めた表情で絢音を見つめる。


 いつでも少し困っているかのような表情に、すぐ疲れる体。背筋の伸びた姿勢に、柔らかい髪の毛。少し高めの艶のある声に、気もそぞろになるあの香り。


 いいかな、と思った。


 晃宏が隣で眠る時間は悪くなかったと思う。

 これで断ればもう二度と話すこともないだろう。もしかしたら、朝の通勤の時間もずらすかもしれない。短い間だったが、晃宏はそういう人だろうと思った。


 そうしたら、晃宏はまた、眠れない夜を過ごすのかもしれない。

 あのヒーローの映画を、眠れない夜の時間を数えながら、漫然ともなく観るのかもしれない。


 人助けというほどではない。いつも薄く笑う晃宏のもっとあけすけな笑顔を見てみたい。

 理由としては、十分だ。


「わかりました。お引き受けいたします。その代わり、10000円ではなく、5000円にしてください」


 面白い映画を教えてくれる条件で。


 そう言うと、捨てられるか怯えている子犬のようだった晃宏の表情が、ゆっくりと花開く朝顔のように輝いた。

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