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君の隣で眠らせて  作者: 上丘逢
16/19

病めるときも

『次は起きてる時に来てください』


 晃宏の声が耳の奥に染み渡っていく。

 まさか、電話がかかってくるとは思っていなかった。


 優しい声音が絢音の頭を撫でるようで、泣きたくなった。気づいてもらえるだろうとは思ったが、なかったことにされることもゼロじゃないと思っていた。


 スマホを握りしめて、床に座り込む。

 私たちの恋は、まだ繋がっていると思って良いのかもしれない。




 天宮との電話を切ってしまった後にきた着信は末広からのものだった。


『天宮さんが相当に荒れてましたけど』

 末広の第一声は明るくて、今の状況を茶化すようで、お腹に力を入れて空笑いする。


「やらかしました」

『西野さんはそういうタイプじゃなさそうなのに』

 そんなことはない。いつでも間違えているような気がする。

「ごまかしてるだけです」


 そう、いつも、薄く笑ってやり過ごして、仕方なかったねと言い聞かせてるだけだ。


 ごまかして、なかったことにして、あったかもしれない未来には蓋をして。

 そうやって過去に埋めてきただけだ。


『ごまかせるなら、やらかしてないんじゃないですか?』

「無理矢理ごまかすから、たまに制御できないんです」


 自己分析が完璧ですね、と末広がソツのない相槌を打つ。

 その声に見透かされているような気がして話題を変えた。


「天宮から何か言われたんですか?」

『いいえ、お願いがあって電話しました』


 自分は仕事でどうしても面会時間に行けないからお使いを頼まれてくれ、と末広がなんでもないことのように言う。


『いくつか入れ忘れたものがあって』


 あの完璧超人のような末広が入れ忘れなどあるだろうか。

 まさか、断らないですよね、という無言の圧力なようなものをスマホから感じる。


「私も仕事があるので」

『西野さんのところから近いので17時に出ても間に合いますよ』


 最後の足掻きのように抵抗してみるが、即座に論破されてしまった。さすが、天宮の天敵だっただけはある。下調べも完璧だ。


『なんだったら仕事だと思ってくれてもいい。お金も払います』

「いいえ、いりません」

 自分でも少し驚くほどに力強い言葉が出る。


「仕事とかお金とか、もういいんです」

 怒っていると思われたくなくて慌てて付け足した言葉は、弱音のように響いた気がした。


『すごく余計なことをいうんですが』

「いらないです」

 電話の奥で末広が苦笑したのがわかった。


『西野さんのせいじゃないですよ』

 この恋が終わったのは。そういうことだろうか。おなかの中に苦いどろりとした気持ちが広がる。


『あいつが西野さんを大事にしすぎただけです』

 大事にする方法は間違えてると思うけど、と末広が付け足す。


 大事に?


 大事にしてくれていたとは思う。けれど、ああいう風に終わらせることが、大事にすることだったのだろうか。


「大事ってなんなんですかね?」

『え?』

「手放したものを大事だったって言うのって、ずるいですよね」


 大事だった。それで終わるようなものだったのなら、その程度だったのかもしれない。

 そう考えてしまって、俯く。


 病気なんて知らない。私を見て。大事にしたいなら手を離さないで。


 そう叫びたい。そう言って、なりふり構わずに晃宏の目の前を塞いでしまいたい。


『なんで、相手のことを考えると言えなくなっちゃうんでしょうね』

 沈黙を破ったのは末広だった。


『この年になると、制御を覚えすぎてダメですよね。我慢しすぎて、結局言いたいことの半分も言えない』

 末広がまるで自分のことを話すかのようにこぼす。


「末広さんも言えないことありますか?」

『ありますよ! でも、天宮さんがストレートしか投げてこないので、バッドを振ることを余儀なくされてます』

 なんだか様子が目に浮かぶようだ。


「天宮は超正攻法ですからね」

『西野さんも使っていいんですよ』

 末広の言葉がするりと絢音の心に入ってくる。


『思いっきり投げつけて困らせてやっていいんですよ』

 思いきりぶつけて、良いのだろうか。叫んで、わがままを言って、ふてくされても、晃宏は絢音にがっかりしたりしないだろうか。


『天宮さんならこういうでしょうね。当たり前じゃん、デッドボール上等で投げつけて震え上がらせればいいのよ、って』

 末広の天宮のマネが絶妙に下手で思わず笑ってしまった。


 そうだろうか、晃宏はそう思ってくれているだろうか。

 ささくれ立っていた気持ちが、少しずつ凪いでいくような気がする。


 でも、やっぱり。

 まだ会うのは怖い。

 離された手を自分から握り返す自信がない。


「末広さん、ありがとうございます。病院の方にお渡しするなら代わりに持っていきます」


 末広が大きくため息を吐いて、「わかりました」と静かにいう。晃宏の入院先と必要なものを聞くと、通話を切った。

 紙を握りしめて、ずるずると床にへたり込む。


「意気地がないなあ」

 呟いた言葉は床にコトンと音を立てるように落ちていった。




 晃宏が入院しているのは新木場駅の隣の駅の総合病院だった。感染対策のためか、入り口で検温と消毒を求められる。

 受付に取り次いでもらうと、4階を案内された。4階で改めて、要件と訪問先の患者の名前を記入する。


 外に出たのは久しぶりだった。絢音の最寄駅からは一本で行けるので、電車に揺られるだけだったけれど、空席の目立つ社内から外を見たときは、晃宏が隣に座っていた時のことを思い出して泣きそうになった。もうずいぶん離れた過去に置いてきてしまった。


 先生にお渡しするものが、と伝えると、少々お待ちください、と受付前のロビーで待たされる。


 末広から持っていくように頼まれたのは、「東野」と書かれた印鑑とお薬手帳の画像を印刷したものだ。

 100均で「東野」の苗字を探すとき、これを探すのがもっと違う意味を持つものだったら良かったのに、と思った。

 「東野」の印鑑が必要になる、そんなイベントは普通ひとつしかないのに。


 ばかみたい。

 思い出して嗤う。そんな妄想までし始めたら、本当に末期だ。首を振って、天井を見上げると、人が近づいてくる気配に気づいた。

「すみません、東野さんの面会の方ですか?」

 よく通る声で話す看護師が少しかがみ気味で絢音の顔を見る。名札には佐倉と書いてある。


「はい、あ、先生にお持ちしたものがありまして」

 お薬手帳の画像は、医師向けのものだ。


「患者さん本人にご確認いただいてから受領するので、今は大丈夫ですよ」

「あ、そうですよね。すみません」

 柔らかく押し止められたファイルをぎゅっと握る。晃宏に会わずに渡してしまいたいのに、そう言われると引っ込めざるをえない。


「面会なさっても大丈夫ですよ」

 病室の感染予防対策もバッチリです、と看護師の女性が朗らかに付け加える。


 おそらく、感染が怖くて入ろうとしていないか、感染予防のために遠慮していると思っているのだろう。

「いえ……」

 顔を見合わせたくないんです、振られたようなものだから。

 なんて、言えるはずもない。


 そうですか、と看護士の女性がマスクの下でも微笑んでいるのがわかる。

 その表情に押されて、絢音は言葉を押し出す。

 気になって寄り添いたいと思うのに、面と向き合うのはまだ怖い。


「あの、彼の病状は……?」

「申し訳ありません。ご家族の方以外にはお話できないんです……」


 それは、そうだ。

 絢音が、そうですよねえ、となるべく明るい声で返す。

 家族でもなんでもない、絢音が聞ける話ではない。


 でも、と女性が続ける。

「ご心配にならなくて大丈夫ですよ。それに、これは経験則ですが」

 顔を見るともっと安心するんですよ。

 女性が内緒話をするように絢音に小さな声で伝える。


「差し出がましいようですが、会えるときにぜひ、会っていってください」

 少し悲しい瞳をしているように見えた。


 看護師だ。このご時世で、戦の第一線で戦っている。

 そんな人の言葉は、絢音には重く響いた。

 こんなご時世で会いたい人にも会えなくなってしまう。

 その怖さを誰よりも知っている人の言葉。


 思わず、頷いていた。


「ご案内します」


 女性が破顔する。その表情に、思わず、絢音も笑顔になった。

 晃宏がどんな顔をするかはわからない。なんて言われるかはわからない。


 けれど。

 会えるときに。会いたいときに。

 顔を見て。目を合わせて。それだけでいいのかもしれない。満足するかもしれない。


 大きく深呼吸をする。

 末広さんから頼まれて、持ってきました。貧血なんて、ご飯食べてますか? 朝はしっかり食べるって約束しましたよね。


 なるべく、重くないように。しつこくないように。普通に。明るく。前みたいに。


 泣かないように。


 そうやって、散々シミュレーションして覚悟を決めて向かった病室では、晃宏が安らかな表情で眠っていた。



「あれ、東野さん、寝てますね」

 佐倉が申し訳なさそうに絢音を見る。


「あんまりお昼寝されてるところを見たことなかったので……」

 その言葉に苦笑して、首を振った。


 大丈夫です。

 その言葉は、本心だった。晃宏を見ることができたのも、晃宏が眠れていることにもホッとした。


 晃宏の少し垂れた眉毛や、薄く空いた唇、乱れた髪の毛、眠る顔をまじまじと見たのは初めかもしれない。


「あれ」

 看護師が、晃宏の手の横に転がっていた小瓶を拾いあげる。


「あ……」

 思わず声がこぼれた。

 それは、絢音がクリスマスにあげたアロマだった。


「これ、アロマ、ですかね?」

 香りで気づいたのだろう。絢音が頷くと、佐倉は眉を下げて「液体だとちょっと……」と声をひそめる。


「ハンカチに1、2滴たらして香りを楽しむっていうやり方があるんですけど、それならどうですか?」

 自意識過剰かもしれないが、これがあるからこそ、晃宏は眠れている気がする。


「それなら、大丈夫そうです」

 絢音の必死な物言いに佐倉が微笑む。恥ずかしくなって目を伏せた。


「では、東野さんが起きないようでしたら、再度受付にお越しください。書類をお預かりして、西野さんにお渡しします」

 佐倉が小瓶を絢音に託し、お辞儀をして出て行く女性を見送る。


 ベッドわきの椅子に腰かけた。背中に手を伸ばす。ゆっくりとさすると、晃宏が人の気配を感じたのか少し身じろぎすると、うっすらと目を開けた。


 ドキリとして背筋を伸ばす。


 晃宏はふっと微笑むとまた目を閉じた。

 病院着の固い生地が指に少しつっかかる。だから。だからと言い聞かせて。ゆっくりゆっくりと時間をかけて、晃宏の背中の上に、あやすように手をすべらせた。

 晃宏の背中の大きさや温かさや息遣いに泣きそうになる。


 晃宏の眠りが少しでも、安らかなものでありますように。

 晃宏の毎日が少しでも、楽しいものでありますように。

 晃宏の夢が少しでも、優しいものでありますように。


 祈りを込めて、背中をなでる。

 何度もなんども。

 これまで一緒にいられなかった時間を埋めるように、何度もなんども晃宏の背中をさすり続けた。




「ありがとうございました」

 面会時間いっぱいになっても、晃宏は起きなかった。


 受付に赴くと、佐倉が申し訳なさそうにやってきて、絢音から書類を受け取った。その下がった眉毛に向かってお願いする。


「あの、アロマをハンカチで使う件、看護師さんから伝えていただけますか?」

 絢音がきたことは言いたくない。


 その言外の言葉は伝わったと思う。

 目を瞬かせたあと、佐倉は優しい声で了承してくれた。その声に慰められる。


 晃宏が眠れているならそれでいい。

 絢音のアロマの小瓶を大事そうに持っていてくれた、その事実だけで、生きていけると思う。


 売店で買ったハンカチはあまりセンスが良い柄ではなくて、それだけが心残りだった。




『ちょっと納得いかない』


 晃宏の病院へ行ったことと、昨夜の電話を切ってしまったことを謝るために天宮に電話をかけた。

 「ごめんね」と素直に言うには少し大人になりすぎていたけれど、電話の向こう側では、天宮はぷりぷり怒っていて、「ごめんね」と言いやすい空気を作ってくれた。


『なんで、私にはわからないよで、末広さんにはありがとうございますなわけ?』


 天宮の言い分はもっともで、絢音には平謝りしかない。

「ごめん、天宮に甘えた」

 天宮だから八つ当たりもできた。天宮だから、八つ当たりしても許してもらえると思った。


『もう、そんなこと言われたら怒れないじゃん! ずるい! 卑怯! でも、西野が考え直してくれてよかった!』


 会えて、良かったね。

 天宮の暖かい声が耳と胸を打つ。


「ありがとう」


 怒るそぶりを見せながらも、いつでも絢音のことを考えてくれる天宮に、改めて伝える。

 絢音の気持ちを宥めてくれたのは末広だったけれど、天宮がいなかったら、もっとずっと前にこの気持ちを押さえつけてダメになっていた。


『それにしても、東野さんはタイミングの悪い男だねえ』


 留守番電話の件だ。入院先での話を交えて晃宏から留守電が入っていた、絢音を後押ししてくれた天宮と末広には伝えないといけないだろう。そう思ってメールに簡単に書いておいた内容だ。どうがんばって書いても、嬉しさが文章の裏から透けるようで、事務連絡らしく書くのに苦労した。


「それを言うなら、私もお風呂に入ってたし」

 病院内の通話できる場所は限られているので、かけ直してはいない。


「次は起きてる時に会いに行きます、って送ったよ」

 なんでもないことのように付け足した。声は震えてなかっただろうか。


 心の底からそうしたいと思っているけれど、あの留守番電話が実は社交辞令だったらどうしよう、なんて弱気な自分がいつでも表に出てきそうな気がしてる。


『おー、いいね。起きてたら私が怒ってたって言っておいて』

「え、どうゆうこと?」

『西野を泣かすな、ばかやろうって』


 その言い方に思わず笑ってしまう。

 天宮が絢音の少しの恐怖を笑い飛ばすように、絢音のなけなしの勇気を後押しするように言ってくれる。


 心がじんわり暖かくなる。天宮はいつもそっと優しさを差し出してくれる。


「私、天宮大好きだわ」

『なによ、いきなり』


「ううんー、末広さんに取られちゃったなあって」

『ちょ、え!? なんか聞いた!?』

 聞かなくてもわかる。天宮が傷ついた時に一番に電話するのが末広になったのだ。


「よかったね、天宮」

『……ありがとう』

 天宮がぶっきらぼうに小さい声で言う。


「何、照れてるの?」

『なんか、この年でこんなくすぐったい気持ちになるとおもってなくて、さ。ちょっとどうしていいかわかんないの』

 なんだ。よかった。思わず笑い声が漏れた。


『なによ』

「いや、良い恋してるなって」

 心の底からそう思えた。天宮の恋がステキなもので、本当に嬉しい。


 そう思えている自分に少しホッとした。


『西野の恋も、そうだよ』

 天宮の優しくて力強い声が絢音の耳に響く。


「え?」

『病めるときも健やかなるときも、ってあるけど、私さ、病める時に愛し続けるほうがずっと難しいと思うんだよね』


 だから。


『病めるときに恋した二人は最強だなって思ってる』


「……天宮、末広さんに似てきたねえ」

『え!? どこが?』

 天宮の驚いた声に笑い声をあげた。


 病めるときに恋した。


 笑いながら、目尻を拭う。

 そうだ。私は、病めるときに恋をした。病めるときも愛しいと、そう思えるような恋をした。


「私さ、晃宏さんが病気だから自分が重荷になっちゃうかもとか、下心で契約したからこれ以上を望むのは病気を利用するようでズルな気がするとか、そういうことばっかり考えてた」


 うん、と天宮が優しく相槌を打ってくれる。


「全部、晃宏さんの病気を終わらせる理由にしてたけど、病気を始まる理由にしてもいいよね」

「あたりまえじゃん」


 電話の向こう側で天宮が力強く頷くのが見える。


 私の気持ちの横には、ずっと晃宏さんの病気があったけれど。

 それって、病気まるごと愛せるってことかもしれない。

 それって、最強な恋なのかもしれない。


「今度はちゃんとお見舞いに行ってくる」

『うん。行っておいで』


 天宮との通話を切る。

 晃宏からもらったアロマを引き出しから取り出した。


 晃宏に会えなくなってからは、使うこともやめていた。アロマキャンドルに数滴垂らす。ほのかなフレグランスな香りが絢音の体を包んでいく。


 アロマみたいに優しく晃宏を癒せる存在でいたかった。晃宏の日常を香りづける、そんな存在になれたらいいと思っていた。


 晃宏に会いに行こう。

 きっと晃宏は、絢音を見て笑ってくれるような、そんな気がした。

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