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君の隣で眠らせて  作者: 上丘逢
11/19

疑心

「よかった……」


 絢音のその声を聞いた途端、心が固くなった。思わず、絢音の手を思い切り握りしめそうになる。


 微睡の中、「樫井さん」という名前を聞いたときには誰のことかわからなかった。その樫井が男だとわかったときには、眠気を押し殺してそっと顔を伺った。

 バーベキューの男だと、一瞬にしてわかった。何かにつけて、絢音を助けていた爽やかな若手の男性だ。


 男が絢音に近づいて何かを囁くと、絢音の頬が薔薇色に染まる。首を竦めるような仕草に、胸がギュッとつかまれた。


 その男とどういう関係なのか。

 昨日、樫井と何があったのか。


 起きて絢音に何度も聞こうと思ったけれど、勇気が出せずにいるうちに絢音が眠ってしまった。


 ストンと頭が晃宏の肩に乗る。

 いつも自分が眠るばかりで、絢音の寝顔を見ることはあまりない。

 絢音のまつ毛が緩やかにカーブして、影を落としていた。柔らかい髪の毛が晃宏の頬を優しくなでて、抱きしめたくなる。

 シャンプーの香りだろうか。ドキリとするような甘い香りが晃宏を包む。


 絢音が隣にいる。それで十分じゃないか。

 ──今は眠ろう。

 晃宏は自分に言い聞かせると、絢音の匂いに包まれながら、ゆっくりと眠りに落ちた。



「英会話教室に行ってるんですか?」

 絢音の楽しそうな声が晃宏の頭を揺さぶる。


「はい。年末から。最初の時は、面接だって言われて、ついスーツで行っちゃいましたよ」

「へえ。そんなのあるんですね」

「ただのクラス分けの面談だったんですけどね。あ、では、また」


 減速とともに電車のドアが開いた音がして、樫井が降りていく気配がした。

 あれから、あの年末の契約の日から、晃宏は絢音と手を繋いで電車で眠るようになった。それと同時に、樫井が御徒町駅で乗り込むようになった。絢音といくらか会話して上野駅で降りていく。


 たった、一駅。


 けれど、それが束の間の逢瀬のように思える。

 手を繋ぐと絢音が映画を見ることができないとわかっていながら、そうでもしないと、不安で仕方なかった。


 晃宏が隣にいるのは契約だからだ。眠っている間は牽制もできないし、よく考えると付き合っているわけでもない自分が、樫井に何が言えるだろうか。

 むしろ、隣で寝ているだけの晃宏よりも、絢音を一駅でも会話して楽しませている樫井の方が、よほど彼氏のようだ。


 いつものように山手線を二周して秋葉原駅で降りる。

 繋いでいた手は降りるときに離してしまった。絢音から繋いでくれたら、たぶんこの不安も消えるのだろう。


「今日もありがとうございました。では」

 繋がれることなく横にただ揺れていた手をポケットに入れて、絢音に頭を下げる。


「あ、いえ、ありがとう、ございました……」


 うまく笑えている自信がないので、なるべく絢音と視線を合わさないように踵を返す。


「あの、晃宏さん」


 呼び止められたことに、身体中が喜びを感じる。期待しすぎないように振り返ると、絢音は手を握り締めながらそっと伺うような表情で晃宏を見上げた。


「体調どうですか?」


 その言葉に、目まぐるしくいろいろな考えがよぎった。よぎってしまった。普通に考えれば、素っ気ない晃宏を心配してくれたのだろう。いつもだったら、むしろ心が温かくなる言葉だ。いつも絢音は晃宏のことを気にかけてくれている。


 それなのに。


「悪いですよ」


 そう言ってしまった。たしかに良いわけじゃないけれど、決して悪いことはない。絢音のおかげでずいぶんとよくなっている。そう感じているのに。

 そう言ってしまったら、契約を解除しよう、と言うんじゃないのか。そう思えて仕方がない。


 本当は晃宏とこうやって休日を過ごすよりも、あの男とデートしたいんじゃないのか。青空の下、相手の体調を気にせず、好きなところへ好きなだけ行ける。絢音は本当は晃宏に付き合うのに、飽き飽きしているんじゃないのか。


「そうですか……。お大事にしてくださいね」


 樫井と会えないのがそんなに寂しいのか。

 残念そうな絢音に、黒い感情が止まらない。

 晃宏は踵を返した。


 これ以上、絢音のそばにいたら、この感情を絢音にぶつけかねない。


 自分だけを見ていてほしい。

 自分だけの隣にいてほしい。

 大切にしたいのに、自分の言葉に傷ついてほしくなる。


 こんな凶暴な想いを絢音に見せれるはずがない。

 歩いて、歩いて、意を決して振り返ったときには、絢音の姿はもう見えなくなっていた。

 


 2月に入ると寒さが厳しくなるどころか、ますます温かくなった。今年の冬は暖冬らしい。


 温かい陽気を横目に、晃宏は縮こまる気持ちを持て余しながら電車に乗っていた。この頃は、絢音の隣で、頑なに手を繋ぎ寝たふりをしながら樫井との会話を聞き、泥に埋もれたような重い眠りにつく。


 そして、その眠りは、澱のようにゆるやかに密やかに、払うこともできない淀みを、晃宏の中に確実に蓄積していく。

 迫り上がるような胃のムカつきが、晃宏の気をさらにささくれ立たせる。


「絢音さん、おはようございます」


 今日も樫井の声が晃宏の耳を鋭く打ち付ける。

 絢音と呼ぶなと言い出しそうになる自分を必死で抑える。その呼び方は晃宏のものだと叫びたくなる。


「おはようございます」


 そっと晃宏を伺うような気配を感じる。

 晃宏に隠れて話したいのなら、この契約の電車以外で話せばいい。


「今日も寝てるんですね。何も話さないんですか? 寝てるだけ?」

「そういう約束なんで。起こさないでくださいね」


 他愛もない雑談をしていたのに、晃宏へと話題の矛先が変わった。約束。その絢音の柔らかい言葉が晃宏をチクチクとさす。


「ふうん。毎週面倒じゃないですか? 病気だからって、絢音さんがそこまでやることないと思うんですけど」

「面倒だなんて。少なくとも晃宏さんの体調がよくなるまでは、こうしたいんです。それに、約束したって言ったじゃないですか」


 晃宏の体調がよくなるまでは。

 絢音のその言葉に、頭を殴られたような気になる。

 晃宏の体調とは関係なしに、絢音は隣に座ってくれるような気になっていた。

 絢音はそうじゃなかったということだろうか。


「約束って言いますけど、それって病気で絢音さんを縛りつけてるってことですか?」

「違いますよ! 樫井さん、なんで晃宏さんが病気だって──」

「絢音さん、僕にしませんか? 僕なら、横で寝てるだけじゃなくて、一緒に話したり、出かけたりできますよ。病気を理由に、隣で座ることを強制したりしない」

「強制って──」

「強制じゃなかったとしても、歪ですよ。そこに同情がないって言えますか? 本当はわかってるんじゃないですか?」


 たたみかけるように言い募る樫井に絢音が押し黙る。

 病気を理由に始まったこの関係が歪だなんて、ずっと前からわかっていた。わかっていて、絢音との関係を一歩進めたのは自分だ。歪な関係でも良いと思っていた。病気を無視しても、絢音との関係なら問題ないと、そう思っていたかった。


 けれど、やはり、この病気が絢音を縛っているのか。この契約がある限り、絢音は約束だと言って晃宏の隣に座るのか。同情して、晃宏と手を繋ぐのか。


「それでは、考えておいてくださいね」


 樫井が電車から降りていく足音がした。

 電車が揺れる音が響く。押し黙った絢音が深く息を吐いた。

 最後の希望のようにゆるやかに繋いでいた手を、そっと外す。この手が絢音の手をとるのは間違いだった。


 はっと絢音がこちらを見たような気配がした。

 目を瞑ったまま下を向く。

 いつも寝ている時は沈黙が落ちるけれど、今日のそれは分厚い雲に覆われた空のような暗い沈黙だった。


 いつもなら、樫井が去れば、重い気持ちにはなっても眠ることはできたのに、もはやそれも叶わない。

 どうしようか。起きてしまおうか。

 けれど、それも怖い。今の絢音の顔を見てしまったら、もう二度と引き返すことができないような気がする。


 しばらく電車の揺れとともに逡巡していると、ガタンと電車が止まった。

 体がガクンと前のめりになる。


「──緊急停止信号が押されました。少々お待ちください」


 電車内にアナウンスが流れる。

 流石に不自然かと思い、薄らと目を開けた。

 絢音が真剣な表情でスマホを見ている。体を起こすと絢音がこちらに顔を向けた。とっさに目を逸らす。


「晃宏さん、この先の電車で──」

「車両トラブルにより、山手線全線で運転を見合わせています。この車両は次の駅まで運行いたします。各線で乗り換え輸送を行なっているので、お乗り換えください。復旧の目処は立っていません。繰り返します──」

「ということらしいです」


 絢音がアナウンスを指差す。

 ちょうど良かった。この状態で眠れるわけもない。


「それでは、今日は次の駅で解散にしましょうか」

「でも、まだ、全然寝てないですよね?」

「ちゃんと今日の分もお支払いしますから大丈夫ですよ」

「そういうことを気にしてるわけじゃ──」

「今日の契約は終わりです。隣に座る必要もないですよ」


 ちらりと伺った絢音の顔は苦痛を感じるように歪んでいて、放った言葉が大きく絢音を突き飛ばしたのがわかった。

 その表情に、晃宏は思わず胸をつかんだ。


 突き放したくて放った言葉だったはずなのに、いざ絢音が傷つき絢音に嫌われるかもと思うと、動機が激しくなる。


 嫌われたくない。

 隣にいてほしい。

 そんな想いが晃宏の中に渦巻く。


 好きという気持ちだけで向き合いたいのに、晃宏の病が邪魔をする。


 電車は次の駅の鶯谷駅で止まった。ぞろぞろと乗客が不満とともに出口から吐き出されていく。

 一向に動こうとしない絢音を横目に、晃宏は立ち上がった。この乗客にもみくちゃにでもされて、消えてしまいたい。そんなふうに自暴自棄的に立ち上がったからか、グラリと視界がゆれた。

 ガタンと空いていた座席に倒れ込む。


「晃宏さん!」


 ザワザワと周りの乗客が振り返る。

 しまった。急に動きすぎた。

 なんとか体勢を立て直して座席に身を預ける。ほとんどの乗客が席を立っていて良かった。


「顔色が悪い。晃宏さん、大丈夫ですか? 駅員さん──」


 絢音がホームを振り返ると、唇をかみしめたのが見えた。ホームの様子はわからないけれど、駅員はこの急な車両トラブルでてんやわんやだろう。当分つかまるはずがない。


「晃宏さん、もうちょっとしたら動けますか?」

「……たぶん」


 絢音がリュックからペットボトルを出してくれる。水を飲むと粘ついた口内が少し落ち着いた。

 前かがみになって顔を覆うと、絢音が丸まった背中を優しくなでてくれた。

 呼吸に合わせるように動く手が優しくて、絢音の気持ちを錯覚してしまいたくなる。


「もう少し人がいなくなったら、駅を出ましょう」


 絢音がスマホで何かを調べながら険しい顔で言う。

 万全に歩き続ける状態にもない晃宏としては頷くしかない。

 顔を動かすだけで頭痛がする。思うように動かない体に泣きたくなる。絢音を突き放したはずなのにこのザマだ。


「くそ……」


 呟くと絢音の手がびくりと止まった。

 ギュッと目を瞑る。顔をさらに両手に埋める。

 この体を剥ぎ取って、脱ぎ捨てて、やぶり裂いてしまいたい。

 絢音の手がためらうように何度か晃宏の背中を往復すると、小さい声であやすようにささやいた。


「大丈夫、大丈夫」


 それは、晃宏の荒立った気持ちを凪いだ海のように平らかにしてくれるような、柔らかな声だった。



「絢音さん、ここ……」


 晃宏と同じように建物を見上げて、絢音がゴクリと息を呑んだ。

 やっと歩けそうだとなった頃には、駅前のタクシー乗り場には長蛇の列が並んでいた。鶯谷は山手線しか通っていない。歩いて近くの駅に行くかタクシーやバスしか手段がない。

 バスは15分待ち。タクシーは無理。歩くのは論外。


「ホテルに行きましょう」


 絢音が言った案に乗ったのは、立っているだけでもしんどかったからだ。


 でも、ここは。


 絢音が意を決したように中へと入る。


「予約したんですぐに入れるはずです」


 努めて冷静に事実を伝えてくれているけれど、晃宏はまた違う意味でクラクラとしそうだった。

 ここは──。


「カップルが行くようなホテル……ですよね」

 鶯谷というところで気づくべきだった。


「ホテルはホテルです。休日だからか、電車が止まった影響か、近くのビジネスホテルは取れなかったんです」

 絢音の頬が赤い。そうだ、絢音は晃宏のために探してくれたのだ。電話をするのだって恥ずかしかったはずだ。


「いえ、すみません。あの、絢音さんはすぐ帰って大丈夫ですからね」

 こういうホテルは、二人一組で入らないと不審がっていれてくれないことが多い。絢音もそれを気にして、ついてきてくれているのだろう。


「──」


「どうぞ」

 絢音が口を開けると同時に、壁に小さく開いた窓のようところからスタッフが短い声とともに鍵を渡してくれた。


 何かを言いかけた絢音が出鼻を挫かれたのか、何も言わずに首を振った。意味をとらえかねていると、絢音が鍵を受け取ってエレベーターへと向かってしまう。晃宏も絢音の後についていくしかない。走っていきたいけれど、そんなことができるはずもなく、ゆっくりとエレベーターに乗ったときには焦りでどうにかなってしまいそうだった。


 同情があると知りながら抱くような軽い気持ちでも安いプライドでもないけれど、絢音とこんな場所に来て、平静でいられる自信もない。


「302号室です」


 絢音が先導して晃宏を部屋へと連れて行ってくれる。

 ドアを開けると、ビジネスホテルには絶対にないだろうダブルベッドこそ目に入ったものの、あとは普通で胸をなでおろした。これで、シャワー室が全面ガラス張りだったなら、どんな手を使っても帰るしかなかった。


「普通のお部屋みたいですね」


 物珍しそうに絢音が部屋を見回す。流石にやぶへびになりそうで訊けないけれど、こういうところへ来たことはないのだろうか。

 部屋の赤色のソファーに腰を落ち着けると、疲れがどっと出たのか思わず足を放り出して身を預けた。

 ファンシーな色が目に痛いが、座れるというだけでありがたい。


「晃宏さん、お水です」

 絢音が甲斐甲斐しくリュックからペットボトルを出してくれる。


「ありがとうございます」

 所在なさげに立つ絢音の後ろにダブルベッドが見えて心臓に悪い。さりげなく目線を逸らした。

 茶色のシーツがそれこそ部屋のベッドのようで、ドギマギとする。


「もう、大丈夫ですよ」

「えと、それなんですけど」

「なんですか?」

 はやく、早く言ってくれ。


 晃宏は顔を上げるのもしんどいのを、耐えながら絢音の言葉を待つ。

 絢音がしばらく口籠ったあと、一気に言葉をはきだすように言った。


「外出禁止で、出る時も二人ってことになってるんですよ」

「え?」

 絢音との間に沈黙が落ちる。


「あ、ああ。そうですか」


 不自然な相槌をつく。

 気力で持っていた平静なフリも限界だ。項垂れるように顔を手のひらにつける。

 もう、だめだ。しんどい。


「じゃあ……あれ、ですね。僕の体調が……戻らないと……出られない、と」

「はい……」


 晃宏が最後の力を振り絞って立ち上がると、びくりと絢音の肩が揺れたように見えた。

 頭痛を耐えながら、絢音の方を見ないようにベッドへと倒れ込んだ。


「晃宏さん!」

「横に……なるのが……一番、体調、戻るのが……早いんで」


 靴と靴下を脱いで、ジーンズのベルトを緩める。セーターを脱ぎ捨てると、ロンTのままベッドの上へと這い上がった。

 背に腹は変えられない。絢音とずっとこの部屋で悶々としているよりかは、ベッドでもなんでも寝てしまって体調を戻した方が良い。


「布団、かけますか?」

 コクリと頷くと絢音がそっと晃宏に布団をかけてくれる。


「暖房、消して……もらっても……いいですか?」

 蒸し暑いほどの温風に部屋の空気が重くなっている。息がしづらいような気がする。


 エアコンのスイッチが切れる音がした。

 体を丸めながら横を向いて、浅く呼吸を繰り返す。


 ムカムカするような気分と頭痛と体のダルさに耐えながら、ギュッと目を瞑る。

 気持ちよく眠ることができれば、この頭痛も少しは軽くなるけれど、この状況ですっきりと眠りにつけるはずもない。


 胃が迫り上がってくるような感覚に口を抑える。冷や汗が体から吹き出して、ベタベタとして気持ち悪い。

 口が粘ついたようにカラカラと乾く。


 嫌だ、嫌だ、辛い、嫌だ、辛い。


 ──辛い。


 耳を塞いで体を丸める。この嫌な波はやり過ごすしかない。落ち着け落ち着けと念じながら、ゆっくりと首をふる。


 ひたと、ひんやりとしたタオルが晃宏の頬に触れた。

 ゆっくりと額や首筋の汗を拭いてくれる。

 腕や背中にもひんやりとした感触が滑らかに滑っていった。


「気持ちいい……」


 呟いた言葉に手が止まった。

 身動ぎをして体を仰向けにすると、さらにひんやりとした感触が遠ざかった。


「もっと……」


 手を伸ばすと、細くて柔らかい指が晃宏の手を握ってくれた。両手で覆うようにその手を握る。


 トントンと優しくもう一つの手が晃宏の背中を叩いてくれる。一定のリズムで触れるその手に安らぎを感じる。

 うっすらと目を開けると、絢音が優しく微笑んでいた。


 ──笑ってる。


 最近はあまり見ていなかったような気がする。

 晃宏は、少しずつ遠のいていく頭痛に安堵しながら、その笑顔に微笑みかけて、ゆっくりと眠りについた。




 うっすらと目を開けると、見慣れない天井が見えた。

 あれ、と思ってしばし考える。


 ──ああ、そうか。


 絢音とラブホテルにいるんだった。

 早く起きないと、と思いながらゆっくりと寝返りを打っていると、気がついた。


 隣に、絢音が寝ている。


 ──近い。


 その距離に心臓が跳ねる。


 寝たあとは、頭はすっきりしているけれど、体はすぐにはいうことを聞かない。ここで無理をすると、1日不調になりかねないので、いつもは慎重に起き上がるのだけれど、今すぐにでも跳ね起きてしまいたい。


 晃宏の顔のすぐ下に絢音がいる。起きた時には気がつかなかったけれど、指先に少し手が触れている。

 もしかしたら、ずっと握っていてくれたのかもしれない。


 起き上がれない自分がもどかしい。甘い香りに頭が痺れる。鳩尾が熱くなる。


 ──やばい。


 これ以上、一緒にいるのは厳しすぎる。

 それなのに、目が離せない。絢音の前髪が少し目にかかっている。思わず、手でその髪を避けた。伏せられたまつ毛と、うっすらと開いた唇に目が釘付けになる。


 なぜ触れてしまったのか。


 だめだと思いながら、手が止まらない。

 髪の毛から頬に指が滑り落ちる。さらりとした頬の感触にクラクラとしながら、晃宏は顔を近づけた。


「絢音さん……」


 絢音の唇に触れる。晃宏の唇に触れる絢音の柔らかいそれに、理性が完全に飛びそうになるのをなんとか抑える。


 ついばむように何回かキスを落とすと、ゆっくりと唇を離した。絢音をそっと抱きしめる。


「絢音さん……」


 好きだとは言えない。言えるはずもない。


 病気の自分が触れて良いのは、触れられるのはきっとここまでだ。絢音の髪に唇で触れながら、晃宏はこの感触をずっと忘れないでいよう、と心に誓った。

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