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君の隣で眠らせて  作者: 上丘逢
10/19

暗雲

 それから一週間はほわほわとしていた。

 我ながら、晃宏の匂いを嗅ぐなんて大胆なことよくできたと思う。その瞬間だけを思い出すと恥ずかしさで悶えそうになるけれど、同時に思い出される、晃宏の体温や体の硬さやかすれた声が絢音の体の奥をギュッと握って離さない。


「絢音さん、何かいいことありました?」


 職場でもそんなふうに言われた。中には、彼氏できたんだ、と当たらずとも遠からずな指摘をしてくる後輩もいた。「彼氏」という言葉に、また赤くなったりにやけそうになったり。それでまた囃し立てられたりしたけれど、嫌ないじられ方じゃなかった。


「よかったじゃん、西野」


 クリスマス会以来会う天宮は澄ました顔で言った。今日は年末最後の出社日だ。


「それ、そっくりそのまま返すよ」


 天宮に昼食に誘われたのは、久しぶりだった。いつものハワイアンカフェで、今日もまた天宮はトロピカルジュースを飲んでいる。


「覚えてるの?」

「覚えてるけど! 忘れて! 迷惑かけてごめんー」

 澄ました顔を崩した天宮が机に突っ伏す。


「末広さんにも謝った?」

「謝った! けど」

「けど?」

「私、明後日の約束どうすればいいと思う!?」


 天宮がテンパっているのが面白い。ロコモコハンバーグを頬張ると、肉汁がじゅわっとはじけた。


「天宮もはじければいいと思う」

「え!? どういうこと?」

「可愛くしていけばいいじゃん。水族館だっけ? 楽しんでおいでよ」

「それができるなら今西野に相談してないよ!」


 頭を抱えている天宮の手をポンポンと叩く。


「まずは、服を決めて。天宮らしいやつでいいよ。仕事着はダメだよ。次は、ちゃんと寝て。夜更かししたり、緊張しすぎて眠れなかったってのはなしだよ。朝ごはんはちゃんと食べてね。あとは、混雑に紛れて手でもつないだらどうかな」


「西野、したたか! そんなに恋愛スキルあったっけ?」

「私は相談スキルは高いんだよねえ。自分のスキルは低いんだけど」


 天宮が突っ伏していた顔をあげる。


「今は東野さんといい感じでしょ? 東野さん、今週は仕事休みなんだっけ?」

「うん。いろいろ検査したり、カウンセリング受けたりするんだって」


 朝の通勤でも会わないので、晃宏とはクリスマス以降会っていない。正直、少し恥ずかしいので、絢音としてはありがたい。


「明日契約の日なんでしょ? 楽しみだね」

「うん」


 顔が自然と綻ぶ。晃宏の病気のための契約だと思うと喜んではいけない気もするけれど、晃宏と会えるのが嬉しい。


「可愛い顔しちゃって。最近、西野の株上がってるよ。美人になったって」

「え! そんなことないよ」


「いやいや、自覚しといたほうがいいよ。ほら、バーベキューのときの若い子わかるかな? 西野にビール持ってきてくれた子。うちのチームの樫井って言うんだけど」

「かしいさん?」


 たしかに、元気な若い子がいたような気はする。名前と顔が一致していなかったので、名前はわからなかったけれど。


「バーベキューのときもっと押せば良かったって、この前、飲み会で嘆いてたよ。西野には、東野さんていう素敵な人がいるんだって言っておいたけど」


「知らないメンバーがいたから、ちょっと目に止まっただけだよ。そう言ってくれる人がいるのは嬉しいけど。天宮も気をつけなよ。飲んだときのギャップにどれだけやられた人がいるか。末広さん、気が気じゃないだろうなあ」


「ちょっとそういうのやめてよ、意識しすぎて、飲めなくなっちゃうじゃん! ていうか、褒め合うの恥ずかしくない!?」


 天宮がますます可愛らしくて、これは末広が大変だなと絢音は苦笑した。



 絢音の会社では、年末最終日は夕方から会議室を使って納会を始めるのが通例だ。お酒とご飯を買い出しての飲みだが、車内で一斉にやるので、別部署の人が合流することもよくある。

 絢音もこのワイワイ感が好きで、陽気に飲むことが多い。


「西野さん、ほら天宮さんのとこの樫井くん」

「お久しぶりです!」

 部長に呼ばれたと思ったら、噂の彼だった。思わず持ってきたビール瓶を持ちながら突っ立ってしまった。昼の今でタイムリーすぎる。

「あれ、知り合いだっけ?」

「八橋さんのところとやったバーベキューでお会いしました」

「天宮に人が足りないから来てくれって頼まれたんです。お久しぶりですね」

 部長と樫井にビールを注ぐ。西野も注いでもらうと、みなで乾杯した。


「部長って樫井さんと知り合いだったんですか?」

「母校が一緒でね。何回か大学のつながりで飲んだことがあるんだ」

「SEも経験したくて、相談してたんです」

 目が爛々としていてハキハキと話す姿は微笑ましい。


「そうなんですね」

「西野さんにも仕事内容聞いてみたいんだって」


 部長の顔を見ると、完全にデバガメの顔をしていた。仕事もできるし、優しい部長だけれど、少しお節介なところがある。


「西野さんが後輩の教育してるって聞きました」

「教育なんてしてないよ。みんなに仕事分担してもらってるだけ」

「そういうところがいいんだよなあ。天宮さんはすごい仕事できるんですけど、自分でやっちゃうから、やりがいないなって思ってて」


 思わず出そうになった「は?」という言葉は、かろうじてビールと一生に飲み込んだ。

 不満はあるのかもしれないが、ほとんど知らない別のチームのメンバーに話すのは、ちょっと口が軽すぎないだろうか。


「天宮さんはテンポが早いからね。でも、着いていくとすごく力がつくと思うよ」

 さすが部長は見ている観点が違う。伝え方も柔らかい。


「そうだと思うんですけどね。目線合わせてほしいなって思います」

「天宮は自分の背中を見て育ってほしいってタイプだからね」


 あ、これは合わないなと思った。


 天宮は末広に対しての愚痴こそ言っていたけれど、チームメンバーの悪口は絶対に言わない。


「それって、怠慢じゃないですか?」

「天宮は聞いたら丁寧に教えてくれるよ」

「お客さんへのセミナーもすごく好評だもんねえ」


 部長がいて良かった。「そうですかね」とまだ文句を言いそうな樫井に、思わず尖った声が出てしまいそうになるのをぐっとこらえる。


「樫井くんも5年目だからね。自分でやってかないとね」


 5年目だというとさらに脱力を感じる。育成期間なんてはるか昔に終わっている年次だ。


「はーい。あ、ビールいりますか? 僕、とってきます」


 樫井が、気を利かせたのか、この場を逃げたかったのか、立ち上がった。絢音が持ってきた瓶ビールは隣のグループにも遠征していて、いつの間にか空になっている。


「どちらかというと目端が聞いて弁の立つ、できる筆頭なんだけどね、ちょっと言いすぎちゃうような若さが悪目立ちすることがあるんだ」


 樫井のことだろう。部長が独り言のように絢音に呟く。


「彼みたいなタイプには君のような自主性を引き出すタイプは相性が良いと思うよ」


 部長もどちらかというと見守るタイプの上司だ。近所のおじさんのような風貌だけれど、絢音にとっては、和やかで周りをよく見てる部長は目標でもある。


「天宮さんについても僕はよくやってるなと思ってるよ」

 細やかなフォローも忘れない。


「さて、申し訳ないけれど、僕は本部長のところに行ってこようかな」

 部長はグラスを片手に立ち上がると、絢音に断りを入れる。いつの間にか、部署でトップの本部長が来ていたらしい。


「樫井くんにも謝っておいてくれるかな」

「はい」


 そう言われると、絢音まで一緒に行くわけにはいかない。本部長にはあとで挨拶するとして、樫井の姿を探す。広くない会議室なのに、樫井はまだビールを探しているのだろうか。


「お待たせしました! ビールなくなってて、別の会議室まで取りに行ってました」

 焦ったように樫井が戻ってくる。にこやかにお酒を配っていて、こういうところを見ると、部長のいうとおり若さゆえに気になるところがいろいろあるのかもしれない。


「西野さんもお待たせしました」

「いえ、ありがとうねビール。あ、あと、部長は本部長のところに挨拶に行ってますよ」

「あ、あとで行きますよね? 僕もご一緒して良いですか?」

「もちろんです」


 こうしていると、先ほどの天宮への不満を言っていた姿が嘘みたいだ。


「さっきはすみません。やっぱり西野さんにはかっこ悪いと思われたくなくて、なんか変に天宮さんを意識しちゃいました。変ですよね」


 絢音にビールを注ぎながら、えへへと笑う樫井は、可愛いとモテはやされそうだ。

 いくつか気になる言葉が端端にあったけれど、こういうのはスルーしかない。


「私も天宮のことになるとつい熱くなっちゃうから」

「西野さんのそういうところ、僕は良いなと思ってます」

「あ、樫井くん、ご飯食べる? 何か取ってこようか?」


 こういう直接ではないけれどあけすけなアピールは苦手だ。波風立てずにやり過ごすのは、話がわからないフリをするに限る。樫井が絡みつくような瞳で絢音を見ながら、ビールを煽る。さすがにわざとらしかったろうか。


「はい、お願いします」


 樫井がグラスを置いてにこやかに笑う。

 ホッと息を吐きながら、料理を取りにその場を離れた。

 料理を取りに行くと、丁度よく本部長のところにいたチームの若手のメンバーに行きあった。


「本部長のところに持って帰るの?」

「はい。つまむものをと思いまして」


 ピザやケータリングのサラダを器用に紙皿に乗せながら彼女は後ろを振り返ると素早く絢音にささやいた。


「絢音さんの隣にいるの、樫井ですよね?」

「そうだけど」

「気をつけてくださいね。樫井って同期内では、ちょっと変わってるって噂になってるんです」

 変わってるだけで噂になるのだろうか。


「変わってるって、どんな?」

「その、なんていうか、ちょっと恋愛気質でそれが行き過ぎちゃうときがあるというか……。よく言えば一途なんですけど、それが強すぎて、男女問わず巻き込まれて大変だった人もいるらしいですよ」


 背筋がゾワリとした。樫井の絡みつくようなねっとりした瞳を思い出す。


「わかった。ありがとう。あ、私もあとで本部長のところへ行くね」

「はーい。あ、私も絢音さんに聞きたかったんですけど、最近彼氏できました?」


 彼女の問いを笑っていなした。

 運良く絢音が座っていたところには隣のチームの課長が座って話しをしているようだった。ご飯だけ置いてそそくさとその場を離れる。樫井とは目が合って、彼はありがとうございますと言ったが、その瞳はまったく笑っていなかった。


 会社を出ると首の隙間に冷気が入り込んできた。思わず首をすくめる。

 結局、お手洗いのあとに本部長と少し話したあとは帰ってきてしまった。樫井がこちらを見ているような気がして、気が気じゃなかったというのもある。

 スマホを取り出して、晃宏の連絡先を呼び出す。


 電話したい。晃宏の声を聞きたい。もう、3日も顔を見ていない。それは、今の絢音にとって電話をかけるのに十分な理由で、えいと晃宏の番号を押した。


 コールが鳴るうちに電話の理由をなんで言おうか考えてしまう。

 晃宏の声が聞きたかったからというのは恥ずかしすぎるので、体調が心配だったからにしようと決めると、丁度コールがやむ。


「お待たせしました。東野です」

 会社の電話のように名字を名乗る晃宏にクスッと笑ってしまう。


「はい、知ってます」

「あ、そうですよね。つい」

 照れた顔が思い浮かぶようだ。


「体調大丈夫ですか?」

「はい。おかげさまで。散歩も行ってますし、検査も良好とまではいかないですけれど、去年より良かったみたいですよ」

「よかったですね! 検査ってもっと結果が出るまでに時間がかかるって思ってました」

「正式な結果はそうですね。先生が問診のときに前より良さそうだって教えてくれたんです」


 晃宏の少し高めの声が心なしか弾んでいるように聴こえて、絢音も嬉しくなる。


「そうなんですね」

「あ、何か用でしたか?」

「いえ、倒れたりしてたら大変だと思ってお電話しました」


「はは。大丈夫です」

「寝込んだりしてないですか?」

「うーん、一昨日は検査で疲れたのか、体調良くなくてずっと布団の中にいましたけど、もう大丈夫です」


 元気そうな晃宏の声と言葉に安堵する。


「もう大丈夫なら良かったです。明日、7時に秋葉原でいいんですよね?」

「いつもより早くてすみません。年末は電車の混雑が激しいので」

「セールとかありますしね。大丈夫です」


 スーと息を吸う。


「明日晃宏さんに会えるの楽しみにしてます」


 晃宏が言葉に詰まったように押し黙った。

 顔は見えないけれど、この沈黙は不安にならない。むしろ心地よいとすら思う。


「僕も楽しみです。明日、手を繋いで寝てもいいですか?」


 晃宏のいつもの高めの声が掠れて甘く絢音の耳に響く。

 いつも晃宏はさらに絢音をドキマギさせてくる。


「ご、ご自由に」

 ふふっと晃宏が笑い声をあげる。


「絢音さん」

「はい」


 好きです、と続くような気がした。


 晃宏の絢音を呼ぶ声があまりにも優しくてそう錯覚したのかもしれない。


「いつもありがとうございます」

「あ、はい。いえ、こちらこそ」


 自分の考えに自分で赤面する。

 なんてことを考えてるんだ、自分は。

 顔が見えなくてよかった。絶対に真っ赤な顔をしている。絢音は首を振ると、努めて元気な声を出す。


「じゃあ、また明日」

「よろしくお願いします」


 名残惜しいけれど、晃宏の負担になってもいけない。

 電話を切ると途端に周りが静かになった気がした。


「絢音さん」


 突然近くで声をかけられてビクリと体がはねた。

 振り返ると樫井がいる。


「ああ、樫井さん、おつかれさまです」

「先に帰っちゃうなんてひどいじゃないですか。本部長にも勝手に挨拶にいっちゃうし」


 その言い方にゾクリと背中が粟立つ。一緒に帰るなんて言ってない。先ほどまでの晃宏と話した温かい気持ちに冷や水をかけられたような気がした。


「すみません、急いでいたので。失礼しますね」


 あまり刺激するのも良くないだろうけれど、樫井から早く離れたくて駅へと足早に歩き出す。


「さっきの電話をするためですか?」

 勝手についてくる樫井が後ろから質問を浴びせてくる。


「あなたには関係ありません」

「彼氏なんですか? 電話の人」


 嫌な気持ちがお腹の中でぐるぐると渦巻きだす。ズカズカと土足で家に立ち入られるような気分になって、思わず樫井を振り返ってしまった。


「そうです。大事な人です。もう、ついてこないでください」

 樫井の口角が薄くあがった。月明かりに不気味な笑顔が浮かび上がる。


「そうですか。わかりました。お疲れ様です」

「……お疲れ様、です」


 樫井が会社の中へ戻っていく。最後の笑顔が気になるが、わかってはもらえたらしい。


「帰ろう」


 絢音は首元のマフラーをもう一度しっかりと首に巻き付けながら、駅へと急いだ。



 師走の朝7時。家を出たときには薄暗かった空には、日が昇り始めていて、徐々に光に照らされていく地上が生気に満ちあふれていくようだ。


「お久しぶりです」

 いつもの待ち合わせ場所には、晃宏がすでに待っていて、柔らかい微笑みが絢音を迎えてくれる。


「お久しぶりです」

 一週間ぶりに会う晃宏に胸がいっぱいになる。


「行きましょうか」

「はい」


 歩き出す晃宏の後ろをマフラーに顔を埋めながらついていく。胸がキューとなるような、お腹の中を優しく引っ掻かれるような、むず痒い気持ちになる。


「年末忙しかったですか?」

「はい」

「お酒のみました?」

「はい」

「手繋いでいいですか?」

「はい……えっ?」


 晃宏が立ち止まって振り返ると、右手をとられた。


「ちょっと、すみません」


 するりと手袋を外される。なんだか、その手つきにドキマギとしてしまった。渡された手袋をそそくさと鞄にしまう。


「絢音さんは冷たくて申し訳ないんですけれど」

 晃宏は、そう言うと、絢音の手を自分のジャケットのポケットに入れた。

 優しく引っ張られた体が、晃宏に一歩近づく。


「これなら、温かいと思うんで。すみません、わがまま言って」

「いえ……」


 晃宏の香りもグッと近くなって、全身が火照ったように熱くなる。体の中を這い上ってくる甘い何かに、絢音はギュッと目を瞑った。


「晃宏さんは、この一週間眠れましたか?」

「そうですね。前よりは眠れていると思うんですけれど、やっぱり絢音さんの隣にはかなわないですね」


 気を取り直して聞いた質問にも甘い言葉で返されて、また絢音はマフラーに顔を埋めることになった。

 電車で隣に座っても手は握られたままだ。


「映画は見づらいかもしれないんですが、このままでいいですか?」


 隣を歩いている時よりも近い距離で聞かれて、絢音は目も合わせられずに頷いた。

 正直、映画を見るどころではない。


「ありがとうございます」


 ふっと笑った気配の後、そっと横を見ると、晃宏は目を瞑っていた。口元が少し微笑んで見えるのは、自意識過剰かもしれない。

 久しぶりにスマホを出さずに、ゆっくりと電車の外を流れていく景色を眺める。


 電車の中にキラキラと朝陽が舞い込んでくる。太陽を背にして座っているので、心なしか背中があたたかい。

 電車が減速して、御徒町駅に着いた。絢音の座席の横のドアが開く。


 晃宏は微かに寝息を立て始めている。

 席を取ろうと足早に入り始めた乗客が、まだちらほらと空いていた席を埋めていく。


 ひととおりの乗客が乗り終わると、ホームから発車のメロディが流れる。そのメロディに合わせるかのように、ゆっくりとドアからもう一人車両に入ってくる人がいた。


 この年納めの頃に、朝からスーツを着ている。

 年末なのに大変だなと、なんとはなしに見ていると、血の気がひいた。


 スーツの客が、絢音の見える場所で背中を向けて吊革につかまる。

 ゆっくりと振り返った樫井は絢音を見て笑った。


「樫井、さん……」

 漏れた言葉に晃宏が身動ぐ。はっと口をつぐむと、樫井は、笑顔のまま絢音に近づいてきた。


「絢音さん、おはようございます」

「おはようございます……」


 なぜ、樫井が同じ電車に?

 昨日の電話を聞いて、ついてきたのだろうか。


「樫井さん、なんで……」

「僕も上野に用があるんです。昨日、聞いたときは、会えるかなくらいには思ってたんですが、まさか同じ時間の電車なんて。つい、見かけて乗り込んでしまいました」

 樫井が絢音に近づいてこそっとささやく。


「隣の方が、大事な人なんですか?」

 繋いでいる手を指差されて、かっと顔が熱くなる。樫井は、にっこりと笑うと体を遠ざけた。


「昨日は、すみませんでした。僕、この手の話になると暴走気味になっちゃって。怖かったですよね」

「いえ……」

 ここまで、素直に謝られると、警戒していた自分が考えすぎだったかと気がぬける。


「それだけ、言いたくて。あ、僕、おりますね。よいお年を」

「よいお年を……」

 樫井は爽やかに電車を降りていく。なぜスーツなのか聞くのを忘れたが、転職活動か何かだろうか。


 たしかに、昨日の電話では、秋葉原に7時とは言った気がするが、そうしたら秋葉原駅で会っているはずだ。


「よかった……」


 薄気味悪いと思ってしまっていた分、安堵した。同時に、樫井に申し訳ないような気がする。恋愛ごとで少し自己中心的になってしまうのは絢音にも覚えがある。


 隣の晃宏を見ると、気持ちよさそうに寝ていた。繋がれている手が温かい。ゆっくりと目を閉じると、晃宏の香りを近くに感じる。電車の揺れに身をまかせながら、絢音もやがて眠りについた。

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