甘きにひかれ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ヴぁ〜、あつい〜。
もう日中はどこにも行きたくないよ、これ。
なにこの熱中症体験ツアーみたいな大盤振る舞いは。しかも参加不参加の許可もとらず、全員が強制参加ときたもんだ。
治験用のモルモット扱いだか知らないけれど、ちゃんと見返りを用意しておいてほしいな、大自然さん。
環境破壊の自業自得といわれても、少なくとも僕はそこまで大量に壊していないと思うのだけど……やるんだったら、元凶とか頭領だけピンポイントで懲らしめて欲しいものだ。
ヴぁ〜、のどがかわく〜。
麦茶もらっていい? 麦茶。うう〜、生き返る〜。
確か、身体の水分の2パーセントがなくなると、のどにかわきを覚えるんだっけ?
60キロの体重なら、その6割が水分。その2パーがなくなるから……700ミリリットルくらいか。この水の量、多いとみるか少ないとみるか。
そして、僕たちの身体にはまだまだ秘密が多い。もしかしたら知ることなく一生を終えられるかもしれないけれど、触れてしまう可能性もゼロじゃない。
僕も、つい接してしまった記憶があってさ。その時のこと、聞いてみない?
小学生くらいのとき。僕たちの学校にも、不審者についての報告がなされるようになった。
最近、子供の登下校の道の途中で待ち受け、お菓子をあげる素振りをしながら、不意に腕をつかんでさらおうとする……そんな老人がいるという話だ。
知らない人にはついていかない、という年少から聞かされている注意が、先生の口からつむがれる。正直、僕たちには聞き飽きた文言で、昼間の体育の疲れもあり、あくびをかみ殺しながら聞き流していた。
今までも注意、注意の連続で、結局なにも起こらないまま、風化していった経験も大きい。
――どうせ、自分には関係ないことだろうし。
そんな考えもあって、僕の意識はもはや、帰宅後のゲームのことでいっぱいに。ランドセルをとるや、誰よりも早く昇降口めがけて駆け出していた。
曇り空で暑く、湿気の多い日だった。
校舎を出てからずっと走りっぱなしで、身体には熱がこもっているというのに、肌から汗はあまり出ていない。気持ち悪さを感じながらも、僕は足を緩めず、いくつ目かの角を曲がる。
ふと、足元で布をめくり上げる音がした。同時に、僕は全身で何かにぶつかってしまう。
壁にしては柔らかい。そのくせ相手は微動だにせず、跳ね返された僕は尻もちをついた。
がっと、腕をつかまれる。細くて骨ばった小さな手が、僕の手首近くをおさえていた。
「やっと、見つけた」
つぶやく声もしゃがれている。
反射的に顔をあげるや、半開きの口へいきなり突っ込まれたものがあった。
鼻を抜けるミントの臭い。舌に広がり、絡みついてくるのはチョコレートの味。何度か食べたことがある、市販のキャンデーの風味によく似ていた。
すぐに吐き出す。ビー玉を思わせる、透き通った緑色をした球体が、しとどに僕の唾液に濡れながらアスファルトを転がった。
その下げた視線の先に、はためいた布の正体がある。
ゆりかご。えんじ色の布を被せられて、三つほど並ぶそれらが僕の足元へ触れたらしかった。
まだつかまれている手を、乱暴に振りほどく。立ち上がってから、きびすを返すまでの間で、かろうじて相手の顔を見ることができた。
白い高島田の髪型にかんざしをつけ、和服をまとう老婆だったんだ。ひとつ、ふたつ昔前を思わせる格好のまま、振り払われた手を引っ込めるでもなく、突き出したまま固まっている。
履いているのは下駄だ。追いかけてきても、運動靴のこちらに追い付けるわけがない。
そう思い、歩きなれた通学路をよどみなく駆け抜けていくも、背後から下駄の音は一向に聞こえてこなかった。
――追いかけてこない……?
はたと足を止めて振り返っても、そこは長く伸びるバス道路と、いまだ下校途中の生徒を含んだ通行人がいくらかいるばかり。
あの老婆の姿は見当たらなかったんだ。
念のため、直帰ルートから2回の回り道をはさみ、僕はようやく帰宅する。
玄関をくぐるや、安堵と一緒にどっと汗が噴き出す。
うっぷんを晴らすかのような発汗ぶりに、僕は洗面所へ向かったが、タオルで拭って顔をしかめてしまう。
甘ったるいんだ、汗が。顔を拭ったとき、少し口の中へ紛れ込んだ汗は、砂糖でもかじったかのような味がした。
タオルの繊維も、心なしかべとついている。鼻を近づけると、やはりお菓子か何かのような臭いが漂ってきた。
汗がしょっぱくなることは知っていても、甘くなったことなんて、これまでない。
加齢が原因のケトン臭とやらは知っているけど、僕はまだ子供だし、腐った果実のようと評される、かの臭いとはほど遠いものだ。
――あの、飴玉のせいだな!
直感して、僕は何度も口をすすぎ、水をがばがば飲んだ。トイレの近くなるまま、何度も用を足していったんだ。
でも、甘ったるい汗はとどまることを知らない。
それから数日、僕の汗はこの奇妙な甘みを帯び続けた。
ただ鼻の奥に香り続けるばかりじゃない。時間を追うごとに、その臭いは少しずつ清涼感をかもし始める。
鼻の通りが思い切りよくなって、そこへ冷風を注がれるイメージ、できる? その風のなかに細かい氷の粒が、無数に混じっていると思って。息をするたび、痛くなるほどの冷涼さが内側をなでていったんだ。
暑いのに、マスクをつけ始めた僕をみんなは不思議そうに見るけれど、構ってはいられない。汗ばかりじゃなく、よだれや鼻水、そしておそらく小用の跳ねからも、僕は同じ匂いを感じるようになっていたんだから。
――まさか、糖尿病ってやつ? これ、子供のうちになるとか相当じゃないか?
心なしか、激しい運動をしたわけでもないのに、手足にだるさを覚える。
相変わらず水を飲む量は増やし、少しでも身体の糖度を薄めようと、子供ながらに躍起になっていた。
帰り道もまた、変わらずの遠回りによる欺瞞下校。あのばあさんに出くわすわけにはいかない。
そう勝手な四苦八苦をしていた、夜のことだった。
窓を全開にしているにもかかわらず、風はほとんど入ってこず、僕はしきりに寝返りを打っていた。エアコンや扇風機といった贅沢な代物は、まだ僕の部屋には置いておらず、薄い掛布団を蹴散らして、うずうずするよりない。
目を閉じてゴロゴロしていると、ようやく風がそよいで、部屋へ入ってくる。
「やった!」と動きを止めて、風を受け止める姿勢へ移る僕。
その手足が、いっせいに固まった。同時に、胸へずんとのしかかるものがある。跳ね返せないほど、重い。
目を開ける。僕の胸の上に何かが馬乗りになっていた。両腕をだらりと左右へ垂らし、その顔も体も、明かりを消した部屋の闇に溶け込ませていて、輪郭しか分からない。
ただ胸にあてる手だけは、かろうじて見えた。骨ばった、細く小さいそれは、数日前に見た老婆のものじゃないか……!
手足もやはり動かせない。口も満足に開けず、声が出ない。
そして無防備な四肢の指先が、急に生暖かいものに包まれた。
ほどよく湿った弾力、肌をなめるねばつき……口の中にしゃぶられたのと同じ感覚だ。
かろうじて、右手に目をやる。僕の五本の指をまとめて、しゃぶりついている小さい影がある。それはちょうど、生まれて間もない赤ん坊ほどの大きさしかない。
あのゆりかごだ、と直感したとき、にわかにのどへ痛みが走った。
思わずつばを飲み込むも、それがさらに痛みをひどくする。身体に自由がきいたなら、思わず叫んで飛び上がっていたかもしれない。
のどが乾いていたんだ。つばさえ痛みを感じてしまうほどに。
四肢へのしゃぶりはおさまらない。そうしてなめられているうちに、じわじわと吐き気が昇ってくる。頭もがんがんと痛みを発するようになってきた。
身体もほてり、動かしていないはずの視界がぐらりとふらつき出したとき。
ふと、胸の上から老婆は消えた。四肢をしゃぶっていた感覚も一度に失せた。
身体の自由は戻っている。力を振り絞って親を呼び、どうにか水を飲ませてもらう。
夜が明けても体調は戻りきらず、病院へ行った結果、重度の脱水症状と診断された。点滴も打たれたよ。
けれど、その日を境に甘い汗をかくことはなくなったんだ。
あの老婆が待っていたもの。
それは糖分をあの赤子たち向けに熟成できる、僕という人間。いや僕という「皮袋」の存在だったのかも。




