グスタフ・ライン
日系部隊も上下下達の部隊である事に変わりはなかった。全体など見えない。特に初戦など右も左も分からない。教練では上手く行った戦法も何処かに吹き飛び皆で大混乱。それに、ドイツの戦車部隊や武器に圧倒されてしまった。勝手が全て違っていた。
機関銃にしたって、敵はブルル、こっちはタタタ。速さが全く違う。戦に不慣れであった二世達ではあったが、初戦は何とか辛勝した。だが、初戦において、欧州戦線初の戦死者を出す等の犠牲もあった。
第100大隊は、その後北進を続ける。ヴゥルトゥル川を背丈の低い二世兵士達は、胸や顔中浸かって渡河し、山の裾野では高所攻撃の洗礼を浴びた。彼等が切り立った山々から連なる中部山岳地帯にたどり着いた時に、季節は既に晩秋を迎えていた。それまでの戦死者が75人。重傷者239人。サレルノ上陸からたった2ヶ月で5人に1人が戦線を離脱する苦しい状況であった。
イタリア中部山岳地帯にはドイツ軍による強力な防衛線が敷かれていた。通称グスタフ・ラインは、ドイツ軍のアウトバーンを造った、フリッツ・トート軍需大臣の陣頭指揮で、東海岸のアドリア海から西海岸のティレニア海を突っ切る全長150㎞のグスタフ・ラインを構築した。そのグスタフ・ラインの中心にカッシーノと言う街がある。ローマから南におよそ120㎞。ナポリとローマを繋ぐ主要道がある為、連合軍・ドイツ軍双方が譲れぬ要衝となった。1944年(昭和19年)1月12日、欧州戦線司令官のマーク・クラークをして、"イタリア戦線における最も熾烈で悲惨且つ悲劇的な戦い"と言わしめた、「モンテカッシーノの戦い」が始まった。
このグスタフ・ラインを落とせば、イタリア戦線における米軍及び連合軍の戦いの優位性は、揺るがないものとなる。




