米国本土移民
ハワイではその後、民間移民会社時代(1894年~)、自由渡航時代(1900年~)を経て、ハワイを含む全米で日本人の移住が禁止される1924年(大正13年)までの間に約22万人の日本人が移住している。
さて、会津人の移住以降米国本土に日本人移民がぽちぽちと現れ始めたのは1880年代(明治13年~)半ばの事である。福沢諭吉の「西洋事情」に触発された苦学生がサンフランシスコ港に上陸し、サンフランシスコとその周辺に暮らしたと言うケースもある。
1890年(明治23年)の米国の国勢調査によると、米国の日本人移民は2039人。それが1910年(明治43年)には7万2257人。1930年(昭和5年)には、13万8834人と、飛躍的に増加した。特に日露戦争(1904年~1905年)後は、日本が不景気に陥り、戦地帰りの独身者を中心に渡米者が膨れ上がった。また、日本人移民は西海岸に集中して、語学力を求められない低賃金の農場労働者、鉄道人夫、缶詰工等の職を得た。中には毛布1枚を担いで各地の農場を転々とする「ブランク担ぎ」と呼ばれた季節労働者も多かった。
稀に米国の有名大学に入学して、卒業する人間もいたが、そんな秀才でも就職先には恵まれていなかった。米国に移住する事で収入増を狙った人間もいたが、思う様には行かなかった。
日系米国人と言うカテゴリーが出来たのは、この時代からであり、本作の主要テーマである日系二世とは、この時代に移民した日本人の子息の事である。それはきちんと理解しておいてもらいたい。