表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パープルハートフォース・ストーリー~Go for Broke ~   作者: 佐久間五十六


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/120

戦時中二世の一部が日本に居た理由

 有罪により市民権を剥奪され無国籍になったアイバは、ウエストヴァージニア州アンダーソン女囚刑務所に6年2ヶ月服役した。釈放後は、シカゴで父の店を手伝う他には世間との関わりを避ける孤独な生活を送った。

1977年(昭和52年)、ジェラルド・フォード大統領の特赦によって、米国国籍を回復した時にはもう、既に還暦を過ぎていた。2006年(平成18年)9月26日、脳梗塞でアイバは永眠。享年90歳であった。

 戦時中日本で結婚した夫のフィリップ・ダキノ(日本人とポルトガル人の混血)とは、共にカソリックの為、離婚はしなかったが、服役前に会ったきり生き別れたままであった。

 さて、戦時中日本に居住した二世は、約2万人にものぼるが、彼等が来日及び在日していた理由は、大きく3つに大別する事が出来る。

 ①親戚の訪問や、日本での教育を目的に、数ヶ月から数年の短期滞在の予定が、開戦により米国に帰国出来なくなったケース。

 ②排日の為に、米国に見切りをつけ、より良い職を求めて日本に渡ったケース。

 ③「日米交換船」により、日本に来た人達。日米交換船とは、日米間で相手国に居住する自国民を交換し合う船の事であり、2隻の船が日米から同時に出港して、中間地点の中立国で落ち合い乗船者を総入れ換えした後、再び互いの国に戻った。

 しかし戦時中、日米間で日米交換船が出港したのはわずか2度だけ。「第一次交換船」(1942年6月出港)の乗船者には、野村吉三郎やジョセフ・クルー両国大使他、日米共に政府関係者が乗船者の中心であった。ツールレイク隔離センターにいたノーノー組が乗ったのは、「第二次交換船」(1943年9月出港)の際であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ