名誉勲章
リボルノ港から北イタリアに上陸した二世部隊は、大理石で有名なピエトラサンタ市に移動し、山中にて野営をする。そして出陣の機会を待った。
いよいよ1945年4月3日~4日の夜間にかけていくつかの部隊に分かれ、ドイツ軍の最後の砦である"ゴシック・ライン"の切り立った山岳地帯に向けて出発する。
ゴシック・ラインの名称は尖塔が特徴的なゴシック建築から採っている。大理石が露出している事により、頂きは白銀に輝いていた。だから滑りやすく下手をすると、谷底にまっ逆さまである。そんな滑る険阻な山道を暗闇の中で、地雷を避けながら日系部隊は進軍した。
目標は、米軍がジョージア高地と呼んだモンテ・デ・リパと標高911メートルのフォルゴリート山である。戦法は夜明け前の奇襲で、二世部隊は南北に分かれ1945年4月5日午前5時を合図に、挟み撃ちに打って出た。ドイツ軍は予期せぬ奇襲に混乱を来すも、猛烈な砲弾を浴びせた結果、二世部隊は他の部隊が5ヶ月も難渋したモンテ・デ・リパをわずか32分で、フォルゴリート山を2時間の速攻で攻略してみせた。
だが、これはゴシック・ライン攻防戦のほんの序章に過ぎなかった。二世兵達はその後も、来る日も来る日も、険俊な山や屋根を登り続け、敵と戦った。中には遠くジェノバやトリノまで遠征した二世兵もいた。
ゴシック・ラインの突破口を開いた第442連隊戦闘部隊は、その後ピエトラサンタやラスペテアなど、イタリア北西部緒都市を解放。イタリア戦線は1945年5月2日に終了した。
この二世兵達の活躍は米国大統領も認めざるを得なかった。軍人個人に与えられる最高位の勲章である、名誉勲章を二世兵一人一人に与えたのである。そのくらい、彼らの働きぶりは郡を抜いていた。ジャパニーズ・アメリカンと差別されたのも今は昔の事であった。




