移民①
1906年(明治39年)のサンフランシスコ大震災が、日系移民にとっての転機となる。震災後の不景気で、各地で排日運動が発生。サンフランシスコ教育局に至っては、公立学校から日系学生を隔離するヘイトクライムの決定を下している。
流石にこれは日米間の協議により、撤回されているが翌年米国は、ハワイ他米国本土以外を経由した日本人の入国を拒否。1908年(明治41年)には、「日米紳士協定」が交わされ、日本政府は旅着の発給を著しく制限した。
しかし、これ等の排日の流れはまだ序章に過ぎなかった。既に米国本土及びハワイに移民していた日系人達は、重労働低賃金の所謂"ブルーカラー"の仕事をしていたし、その子孫である日系二世がどんなに優秀であり一流大学卒業者てあっても、満足な仕事に就く事は出来なかった。
アメリカンドリームと言う言葉があるが、この時代に移民した日系人達は、アメリカンバットドリームとしか言えなかった。米国と言う国は建国以来、移民国家として発展して来たにも関わらず、米国国内は人種差別で溢れていた。白人第一主義は米国の抱える、単純ではなく根の深い問題である。
肌の色で差別されていた時代。黒人のヘイトクライムは人智を越えるものがあった事は言うに及ばず、日系人も肌の色が黄色い黄色人種として差別の対象になった。欧米出身ではないアジア、アフリカ系移民は"異端"扱いされた。中国人も朝鮮人も有色人種として差別された。
移民国家とは言え、米国は人種の坩堝と言うのは、表の顔。だが、米国の裏の顔は、ヘイトクライムが激しい人種差別国家であると言う事である。日系移民にとっての本当の試練は、これからが本番であり、ヘイトクライムへの戦いは始まった。