アンツィオの戦い
モンテカッシーノの戦いが未だ続いていた1944年3月末、第100歩兵大隊は軍令を受けて、カッシーノからアンツィオに移動した。アンツィオは、イタリア西海岸に面した港町で、グスタフ・ラインの西端やや北方に位置する。
連合軍は、グスタフ・ラインをカッシーノとアンツィオの両面から攻撃しようと、2か月前の1944年1月22日大軍を、海上から一斉にアンツィオ海岸に上陸させていた。第100歩兵大隊はその部隊に援軍として送り込まれる。
ドイツと背中合わせのヴォージュ山脈一帯は、ドイツとフランス間で争奪の歴史を繰り返した。1940年(昭和15年)6月にパリを占領したナチス・ドイツは、同月ヴォージュ地方も占領した。占領にあたり、ドイツはこの場所を第3帝国予備軍直轄地域に編入した。パリを含めた他のフランス地域が、ドイツ軍司令部と駐仏ドイツ大使の管轄であったのに対して、ナチス・ドイツの中でも最右派のナチ親衛隊(SS)が牛耳っていた事からも、このヴォージュ地方の特殊性が分かる。
1944年10月、ヴォージュの村々はナチ親衛隊の恐怖政治下5年目を迎えていた。かたや、連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させて1944年8月25日には、パリをナチス・ドイツから奪還している。ただ、それ以降は敵を一気に攻められず、中部欧州戦線は、膠着状態に陥った。
攻めあぐねる連合軍と、執拗に抵抗するドイツ軍。二世部隊は、その戦場に送り込まれた。モンテカッシーノの戦いにおける第100歩兵大隊の戦死者は48人。重傷者134人、負傷者多数。サレルノ上陸時1300人いた兵力は、モンテカッシーノの戦いを経て、わずか521人と半減している。それでも、二世兵に逃げ場は無かった。何がなんでも前進するしか選択肢は無かったのである。




