補充兵
兵力が激減した第100大隊には、米国本土シェルビー基地の第442連隊戦闘部隊から、3度に渡り約600人の補充兵が送られた。
アンツィオは、周囲を高地に囲まれている。そんな高地の中でも重要なのが、アンツィオ港から内陸に24㎞にあるアルバノ高地である。ローマまで、20㎞と至近な上に国道が通っているので、ここを収めればローマへの道が開かれる。海岸線を占領した連合軍と、例によって高地に陣取るドイツ軍。両者は一進一退の攻防を繰り返し、戦いは長期化した。
しかし、1944年5月にカッシーノが陥落した事で連合軍に勢いがつく。1944年5月23日には、総攻撃が開始され、戦闘は初日から激戦となった。米軍はこの日だけで、死傷者1000人に加えて、戦車100両を失う。これは、米軍が一日で被った被害の中では第二次世界大戦の中では最多であるとされている。
アルバノ高地にも6個大隊が挑んだが、全て虚しく敗退した。そのアルバノ高地を遂に攻略したのが、第100大隊であった。1944年6月4日、全世界が注目する中で、米国第5軍の先遣隊がローマに入城。第100大隊も国道沿いのドイツ軍要塞を落としながらローマを目指した。
だが、翌日ローマ一歩手前と言う所で、米軍は第100大隊を脇に追いやり、中心部を後続の白人部隊に道を譲らせた。その上日系兵は、ローマ中心部を通過せず、街のはずれから北進を続けよ、と命令された。この命令に地団駄を踏んだ二世は多い。第100大隊が道を譲らせられたのは、彼等がアンツィオに到着する以前から戦っていた部隊であった。
従ってその部隊を、先に入城させると言う米軍の判断は納得出来なくもない。しかし、全世界が見守るローマを敢えて外させたのは何故か?大いに疑問の残る1944年6月5日の軍令であった。奇しくも、連合軍が史上最大の作戦である「ノルマンディー上陸作戦」を実行する前日の事であった。にしても、力のある二世部隊が獲物を仕留める寸前で交代させられたのも、ヘイトクライムなのだろうか?




