ホレホレ節
「行こかメリケンよ。帰ろか日本、ここが思案のハワイ国。」
所謂、ホレホレ節の一つである。ホレホレ節とはハワイのプランテーションで、日系一世労働者が作った哀愁に満ちた民謡の事である。ホレホレとは、ハワイ語でサトウキビの枯れ葉を取り除く作業の事である。
ハワイ生まれの日系二世は、皆ホレホレ節を聞いて育っている。この唄には、労働、日常、金銭、男女間の事など、日系二世の父母の生活や心情が濃厚に投影されている。
「ホレホレ節」は、ハワイの日系二世の原風景であり、誰もが貧しかった時代の唄である。
「ハワイ、ハワイと夢見て来たが、流す涙はキビの中。」
日本からハワイへの最初の集団労働移民が到着したのは、1868年(明治元年)の事。一行は148人の多勢で、後に「元年者」と呼ばれた。しかし、浪人や流れ者も多かった元年者は、厳しい労働成果は無く、またハワイ側の対処も悪かった為に、日本政府は、その後20年間日本人のハワイ移住を禁止した。
一方、米国本土の移民第一号は「会津戦争(1868年)」で明治新政府軍に敗れた、会津若松の人びとであった。会津藩は、米国に若松領を築き移住すると言う壮大な計画を立てて、1869年(明治2年)に先遣隊数十人をカリフォルニアに送った。だが、この計画は失敗に終わり、日本本土でもその後しばらく、日本人移民は増える事は無かった。
それに遡る事10年。1860年代中国人の鉄道請負人が、コロラド州デンバーで日本人売春婦を沢山連れて来た事があり、彼女達が米国本土で最初の日本人"契約"労働者であった事は、人々の知る所では無かった。いずれにしても、日本人の米国への移民が本格的になるのは、明治時代になってからであった。