収容所の生活②
米国本土の中でもとりわけ整備が整っていたのが、ウィスコンシン州のマッコイ収容所であった。ここには、ハワイから送られた第100歩兵大隊が最初に訓練を受けた基地があるが、太平洋戦争末期には、日本人捕虜2500人を抱える一大日本人捕虜収容所であった。
捕虜のリーダーには、日本人捕虜第一号の酒巻和男少尉を配した。そのマッコイ収容所では、日本式浴場や、映画館もあり日曜日には、食べきれないほどのケーキが出た。酒保(売店)にはビールも売っていた。ビールは、他の収容所にも販売されていたが、値段は10~20セント。捕虜の労働には日額最低80セントが支給されていたから、充分に買える値段であった。
尚、捕虜の賃金は後日しっかりと日本政府に請求し、日本の戦後処理の費用でこれを支払った。このように、日本人捕虜達は己の生活改善する為に努力した。少しでも快適に過ごしたい。自由になれないのならば、せめて楽しい毎日を過ごしたい。捕虜になっても、日本人としての尊厳を守ろうと努力していた。
そして、日本が戦争に勝って開放される事を信じてやまなかった。と、同時に捕虜がどう言うものであるかを知った。日本人は捕虜に対する知識が欠如していた為、さぞかしカルチャーショックを受けた事であろう。米国人の日本人捕虜に対する扱いは極めて模範的であった。
それだけではなく、収容所の中でもある程度の自治を認めた。そうでなければ、あれほど好き放題は出来ない。米国人捕虜が日本軍の軍人から受けていた待遇とは、明らかな開きがあると言える。それでも、米国は国際法を遵守したに過ぎない。日本人にとって、この事実は戦争で敗れた米国から、学ばなければならない数少ないものの一つであった。




