沖縄戦①
日系語学兵が最も多く投入されたのは、太平洋戦争末期の沖縄戦である。沖縄の方言が、標準の日本語と著しく異なる事を承知していた米国陸軍は、この戦闘に沖縄の「帰米」や、親戚や祖父母が沖縄出身の語学兵を送り込んだ。
沖縄戦時の米軍は、日本軍の手の内をすっかり見透していたと言われているが、それは沖縄の地図や戦闘計画書を入手して、ハワイの情報部に送り、英訳後に大量印刷して沖縄に返送していたからである。そのスピードは早く、たった3日で万単位のコピーが沖縄に届く事もざらにあった。
その獲得書類の重要度を沖縄の前線で迅速に判断し識別していたのが他ならぬ、日系二世語学兵であった。沖縄戦と言えば、イメージとしては追い詰められた日本軍にトドメをさし、降伏させる為の戦いであったと言うイメージが強いが、細かく見て行くと、米軍の緻密かつ周到な作戦計画は、まるで米軍が劣勢であるかの様な、神経の使い方であった事に驚く。
結果的に沖縄戦は、多くの民間人を巻き込む形となったが、それは米軍が直接殺害した人数よりも、自殺を選んだ人数の方が多い。これも、生きて虜囚の辱しめを受けず精神の教育のせいである。沖縄戦が必要だったかそうでないかの議論は、議論の余地があるが、少なくとも戦後の米国の対日政策を見ている限りでは、米国にとっての沖縄戦は、やむを得ない戦いであったと推察出来る。
事実、日本本土が早い段階で国際社会に復帰したにも関わらず、沖縄は1972年まで米国の統治下にあり、沖縄の米軍基地は今尚沖縄県民と共にある。これはつまり、日米同盟と言う間接統治が
続いている様なものである。




