パール・ハーバー②
ハワイ・オワフ島の南端には、熊手を開いた様な複雑な形をした入江がある。パール・ハーバー(真珠湾)のちょうど真ん中辺りにフォード島と言う小島があり、日米戦の始まりと終わりを告げた二隻の戦艦が横たわっている。
一隻は、海底に沈む戦艦アリゾナ号。日本軍に撃沈されたこの艦は、およそ900人の遺体を抱いたまま、船体からドス黒い重油を出し続けている。
もう一隻は、紺碧の湾上に大艦巨砲時代の、威容を誇る戦艦ミズーリ号である。1945年9月2日日本が連合国に敗けを認めて、日本国全権大使で外務大臣の重光葵が降伏文書にサインした艦である。
1885年(明治18年)、ハワイではようやく本格的な日本人移民の時代がようやく幕を明けようとしていた。その時代を遡る事、4年。1881年(明治14年)明治天皇が訪問されたハワイ・カラカウアモでは、人口減少に悩むハワイへの日本人労働者の移住を要望した。
反対に当時の日本は、人口に匹敵するだけの産業が未だ無く、深刻な余剰労働者人口問題を抱えていた。そこで、日本政府は「官約移民制度」を実施。1885年2月に蒸気船「シティオブトーキョー」号で、「第一回官約移民」944人をハワイに送った。以降9年間に渡り日本からハワイへの労働者移民事業は行われて、統計的には約3万人が主に3年契約で、ハワイの土を踏んだ。結局、3万人のうち13861人が日本に戻り、2034人がハワイで死亡。877人は米国本土に渡り、残りの1万3000人がハワイに定住した。(定住率40%余)
だが、移民の暮らしも楽ではなかった。大移動した移民が職を得たサトウキビやパイナップルの大農場では、早朝にサイレンで叩き起こされて、番号札を首からぶら下げて、炎天下で働かせられ続けた。
住居も貧弱で、移民曰く「豚小屋の様に不潔でいつも、すえた匂いが漂っていた。平屋の一棟には、数十人の労働者が押し合いへし合い住んでいた。」その上低賃金であった為に、夢破れて日本に帰る者が後を絶たなかった。
尚、877人の官約移民が米国本土に向かったのは、ゴールドラッシュ後の労働者不足で、ハワイより賃金が高かったからと言われている。