パール・ハーバー①
ハワイに日本軍の第一弾が投下されたのは、昭和16年(1941年)12月7日、日曜日の午前7時55分の事であった。
真珠湾は米国海軍太平洋艦隊の主力基地であり、日本軍の攻撃の際には、基地の業務開始を告げる国旗掲揚の5分前であり、二日前の金曜日に給料を支給されたばかりの水兵達は、前夜ホノルルの酒場で、酔い潰れてからの悪魔の日曜日となった。
一方で、ハワイの一般市民はと言えば、いつもの様に常夏の太陽が昇る、日曜の朝をうららに迎えていた。
日本軍の攻撃に驚いたアナウンサーが、逆上した声で言った。
「これは演習ではありません!本物の戦争です!!」
と、マイクに向かった事で、いよいよ混乱に拍車がかかった。米国の記録によれば、大体96隻の艦艇がひしめいていて、真珠湾攻撃で日本軍は、戦艦アリゾナ他戦艦5隻と駆逐艦2隻を沈めて、航空機188機を撃破。米国海軍の戦死者を含む米国海兵隊の戦死者は3077人、戦傷者876人米国陸軍の戦死者は226人、戦傷者396人を数えた。
日本海軍機動部隊360機と特殊潜航艇5隻が、約二時間をかけて、2度に渡る攻撃の標的は真珠湾の太平洋艦隊だけでなく、ヒッカム、ウィーラー、ベローブ、カネオヘ等4ヵ所の航空基地にも及んだ。民間人にも死者を出す事で、さらに米国世論は対日強行路線に舵を切る事になった。
そんな真珠湾攻撃で、先祖の国に撃たれて亡くなった沢山の日系人がいた事はあまり知られていない。これが所謂パール・ハーバー(真珠湾攻撃)の、全容である。しかしながら、日本側の不手際もあって、この真珠湾攻撃は"騙し討ち"(スニーク・アタック)と呼ばれる事になり、米国国民のファイティングスピリットに火をつけてしまうのてある。
また、日本海軍機動部隊は、ハワイの重要施設である石油コンビナートや、米国海軍空母に手を付けられず、作戦内容としては、実は言う程の戦果を挙げられなかった低調な物であったことは、以外と知られていない。