アイデンティティ
純粋な日本人でも米国人でもない。日系米国人と言う新なカテゴリーこそ、彼等に与えられるべきアイデンティティである。
戸籍上は米国人である二世にとっての母国語は日本語と英語。祖国は米国と言う事になる。しかし、一世の影響もあって、日本への思い入れも決して小さくはない。とは言え、日系米国人と言うカテゴリーが本土の米国人に認められたのは、戦後になってからの事であり、戦前は認められるどころか、受けられてすらいなかった。
あくまで余所者扱いである。しかし、一世も二世も共通の想いがある。米国で認められたい。ただその一心である。だがその機会は中々訪れて来ない。皮肉にも、戦争がその役割を果たす事になる訳であるが、日系人の中でも、特に二世にとってはアイデンティティの確立と言うものは、後の戦争でターニングポイントになる。
春彦もこう言っている。
「決して、今の状況に満足している訳ではないけれど、残念ながら日系人はチャンスすら与えてもらえない。肝心なところで門前払いで、何一つやらせてもらえない。一流の大学を出たところで、生粋の米国人や白人系統の移民と同じポジションは与えてもらえない。日系人は黄色人種の血を引いていると言うただそれだけの理由で、社会の底辺でくすぶって行くしか、僕ら日系移民には方法がない。悔しいが、それが現状だ。」
日系人が米国人や他の国の外国人より、能力的に劣っていると言う事はない。寧ろ、日系人の方が優れているかも知れない。にも関わらず日系人の地位は低い。それを打破する為には、何かきっかけが必要であった。
やがて日系人は、アイデンティティを力に変換し戦争で大活躍していく事になる。自分は一体何者で何をしなければならないのか?それは古今東西万人が直面する課題でもある。それを乗り越える為に、多大なる努力と犠牲を払う事になる。それが日系人の宿命なのであった。




