ブランク担ぎなんて嫌だ
日系移民の生活は総じて苦しいものであった。日系移民の多くは米国西海岸に集中して、語学力の求められない低賃金の農場労働者や、鉄道人夫や缶詰工等の職を得た。中には毛布一枚を担いで全米各地の農場を転々とする「ブランク担ぎ」と呼ばれた季節労働者も、多かった。
春彦はそうした職だけには就きたくなかった。彼が、勉学に打ち込むのはその様な訳でもあった。高学歴ならブルーカラーの低賃金重労働の職には就かなくて済む。と言う安心感もあったのかも知れない。ハワイに住んでいたとは言え、日系人の苦労を知る春彦にとっては、同じ辛酸を舐めたくないと言う強い反骨心があった。
大学生になっても、春彦は努力を惜しまなかった。学費や生活費を、日本から送ってくれている父・三郎の想いに応える為にも、結果を出す必要があった。聞くところによると、三郎は日本で自動車工場の現場監督になったと言う。
まだ自動車の普及率が低かった時代であった為にそれほどの高給とりにはなれなかっただろうが、ハワイでサトウキビを作っているよりは、遥かに給料は良いだろう。この自動車工場が戦争中戦闘機の受注を始め大儲けするのは、もう少し先の事である。
いずれにしても、ハワイにいるよりは、遥かに豊になっていた。春彦も米国のTV局に勤めてニュースキャスターになりエリート街道に乗ってやる。そうした野心を抱いていた。野心は人をやる気にさせる。貧しさからの脱出。それこそが日系人の目指すゴールであった。
しかし、時代はそれを許さなかった。戦争と言う大きな障害が多くの人間の運命を変える事になる。神様は悪戯好きだったのかもしれない。




