二重国籍
春彦は、晴れて米国いや、世界最高学府であるハーバード大学に合格した。それと時を同じくして、父・三郎、母・スティーブン、それに二人の弟達は日本へと渡った。春彦以外の家族全員が日本国籍を取得。米国籍を捨てた。二つの国籍を持つのは、一見すると便利な事かも知れないが、日米の二重国籍は、二重苦を生み出す元凶であった。
こんなデータもある。日米開戦時に滞日中であった二世は約二万人。その内日本軍に入隊した二世は約3000~5000人。人により差こそあれ、二世の誰もが、日米二つの国の間で苦悩した。
1942年(昭和17年)9月、米国陸軍省の調査によると、徴兵可能な日系人は、約36000人と推算していて、実際に米軍に入隊した二世は約33000人である為、米国にいた二世はほぼ全員に近い二世青年が戦場に送られた。日米合わせると少なくとも、約36000人の二世兵士が戦場に赴いた事になる。
大学に入学する事が決まっていた春彦も、次第に戦争の影響を無視出来なくなって行く。そもそも、吉永一家が日本に向かったのは、ハワイでの生活が一向に良くならない為であった。サトウキビをいくら作っても、三郎は日本にいる時程の稼ぎには遠く及ばなかった。
それは、米国本土でも同じ事であり、夢を持って異国の地を踏んだ三郎には、シビア過ぎる程の現実が突き付けられていた。それも、三郎には大きな経験なのかも知れないが、三郎は次第に日本へ帰りたくなっていた。無論、三郎が米国に来ていなければ、スティーブンと出会い春彦や二人の弟達も生まれる事は無かった。
その事実には三郎の後悔はない。かくして、吉永一家は春彦と別れる事になった。




