捕虜の生活
連合軍が、第二次世界大戦中に獲得した5万人あまりと言われている日本兵捕虜の内、約1割にあたる5000人の日本兵が、米国本土に送られている。全米にあった収容所の中には、2つの秘密捕虜尋問センターもあった。
これ等は、米軍が重要情報を保持していると判断した捕虜達を、特別に拘留した収容所で、カリフォルニア州バイロン・ホットスプリングスと、首都ワシントンD.C郊外のハント要塞にあった。
バイロン・ホットスプリングス秘密捕虜尋問センターは、「トレイシー」の暗略を持ち、ハント・フォートでは、日本人捕虜の中で最上位階級の沖野前星日本海軍大佐と、ナチスドイツ降伏後は大島浩駐独大使等を収容している。時に日本兵の頭蓋骨を灰皿に使うなどの、蛮行も見られたものの、米軍の捕虜に対する扱いは総じて、寛容なものであった。
そもそも、国際的には1929年に結ばれた「ジュネーブ条約」によって捕虜の待遇は、保障されていたからだ。ただ、日本兵の多くはその教育が不充分であった為、捕虜になってから知った人間も少なくない。「激戦にもならない」戦いでひたすら死に向かって行く日本兵に対して、米国のプロパガンダ(心理作戦、室伝工作)は、これをどう「生」へと、導くかの戦いでもあったと言える。硫黄島の星条旗で有名な写真家のジョー・ローゼンタールはこう語る。
「二世兵はギリギリまで敵の懐に接近した。沢山の二世兵が負傷し、更に命を落とした。我々は彼等の英雄的行為をしっかりと記憶するべきだ。」
と。こうした二世語学兵の活躍は、盗聴・解読にも活かされる。アドルフ・ヒトラーの作戦を東條英機より先に、ルーズベルトやトルーマンが知っている事も珍しくなかったとされ、日本軍が作成した地図は部隊配置から兵力や計画を解読出来る資料の中でも一級品とされたが、その解読にも一役かっている。




