伝単
味方(米兵)から狙われ、抗日ゲリラや日本兵から狙われた二世は戦場に出てはいけない存在であった。語学兵の存在が前線に伝わらず、米兵や連合軍兵士に誤って殺されるケースもあった。
その為、戦地では二世兵を護衛する白人兵がつけられた。語学兵の存在は貴重だったからだ。大事な任務として、日本兵の投降つまり、戦闘行為をやめさせ降参させると言うものがあった。
しかし、この行為は逆襲される可能性の高い危険な任務であった。呼び掛けやラジオ放送が、対話によるプロパガンダなら、文字によるプロパガンダが、"紙の爆弾"と称された「伝単」であった。
「伝単」とは、諜略全伝文が書かれたビラやパンフレットの事で、その多くの文面裏面には日英両語で、「私は降参します。」と記載されており、兵士が「伝単」を持参して敵陣に誘い込む様に仕掛けられていた。
これ等の「伝単」は、飛行機や大砲等で大量に散布された。1942年(昭和17年)4月18日、ドゥーリットル航空隊が初めて日本本土を空襲した際に落とされたと言われる「伝単」の文面は以下の通りである。
「桐一葉落つるは軍権必滅の凶兆なり散りて悲哀と不運ぞ積るのみ」
ラジオ放送で最も有名なのが、マニラ司令部作の「落下傘ニュース」、他にはブリスベン司令部が作った「時事週報」、ハワイ太平洋方面司令部による「マリアナ時報」、インドの英国軍が日系一世の社会主義者岡繁樹の協力を元に発行した「軍陣新聞」等があった。
日本兵は、ビラを拾うのが軍規で禁止されていたが、「命を救う紙。このビラを持っていれば米軍の捕虜を大切に扱います。」等と書かれては、読まない訳には行かなかった。戦時中日本本土に投下された「伝単」の総数は約458万4千枚と言われている。紙で人間を救えるのならば、これ程安上がりな事はない。これも米軍の絞り出した戦略の一つと、言って良いだろう。




