米国海軍の二世の扱い方
米国海軍が日本へ語学将校を派遣し始めたのは、1925年(大正9年)の事である。日本語将校第一号は、エリス・ザガリアス大尉で、彼は後に終戦間際米国本土から、流暢な日本語で降伏を説得した「ザガリアス放送」を流している。
同じく米国海軍は、1940年迄に65人の米国大使館付け語学将校を来日させており、陸軍とは違ったスタンスをとっていた。日米開戦直前の1941年10月、米国海軍はカリフォルニア州立大学バークレー校と、ハーバード大学内に日本語学校を開校している。(翌年、二校は統合して、コロラド州立大学ボールダー校に移動。)
米国陸軍と米国海軍の決定的な違いは、米国海軍が白人学生のみを募集して、日系人を除外した事である。米国海軍日本語学校学生約2000人の卒業生の中には、2012年日本に帰化した日本文学者のドナルド・キーンやエドワード・ザイデンステッカー(後にコロンビア大学日本文学教授)や、フランク・ギブニー(後にTBSブリタニカ社長)や、オーラス・ケーリ(後の同志社大学教授)等、きら星のごとき大物が名を連ねている。
ところで米国海軍は、語学学校だけではなく終戦迄一度たりとも一貫して日系人を徴用していない。日本人捕虜第一号であり、真珠湾攻撃の特殊潜航艇唯一の生き残りであった酒巻和男少尉を尋問した米国海軍諜報機関員のダグラス・ワダ他に例外はなん例かある。また、二世を採用した米国陸軍にしても、花形の航空隊には門戸を広げなかった。
飛行士として、名を馳せた二世に欧州戦で活躍の後、B-29で東京大空襲他、日本本土爆撃にも参加したベン・クロキがいるが、これもまた例外中の例外であった。
さて、MISLSでは日本語の翻訳や会話と言った基本の他に、日本の歴史や地理や候文や草書や日本軍用語、方言に尋問技術力等、専門的な分野にまで裾野を広げた。授業は日中7時間に夜間2時間の一日9時間。語学生は通常4年はかかる内容をたったの半年という短期間で叩き込まれた。それでも足りない者は、11時の就寝後トイレで学習を続けたと言う。




