語学兵②
アイソは、二世の中でも飛びきりのエリートであった。1909年(明治42年)ロサンゼルス郊外に生まれた彼は、日本では成城学園と中央大学で、米国では東部の名門ブラウン大学と、二世では初めてハーバード・ロースクールで教育を受けた。
その後は、ウォール街や満州で弁護士として働いたが、1941年春以来兵役についていたところをラスマスン大尉にスカウトされた。「第4軍語学学校」は、真珠湾攻撃の5週間前の1941年11月1日に、サンフランシスコのプレシディオ陸軍基地内に極秘で開校された。学校とは言え、予算はたったの2000ドルであった為、教室は古い格納庫であり、当初は机や椅子が果物箱であった。
学生達は目的を告げられぬまま、日本語の特訓を受けたが、その生徒の中には二世の他に、日本居住歴のある二人の白人の姿もあった。
1942年6月「第4軍語学学校」は、米国陸軍省情報部直轄の学校に格上げされ、名称も「陸軍情報部語学学校(MISLS)」と、された。場所もサンフランシスコから、ミネソタに移動していた。その理由は、アリューシャン列島やガダルカナル島に送られた卒業生の活躍が目覚ましかった事や、学校が強制立ち退き指定区内だった事に由来する。ミネソタ州が選ばれたのは、人種間親睦が最も良好であった為である。
サベッジの卒業生も数々の殊勲を上げた。その為、当初は日系兵士の忠誠を疑っていた前線も続々と派遣を要請した。現状拡大に迫られた学校は、1944年8月、再び近隣のスナリング要塞に引っ越しして、さらには白人語学将校養成用に、ミシガン大学内に予科を設け、予科履修後スナリングに送るシステムも設けた。
語学将校最盛期の生徒数は1836人。同校からは、戦後閉校するまでの間に二世兵5000人(WACの二世女子46人を含む)と、他人種米国兵1000人の合計約6000人の卒業生を輩出したのである。




