MIS 情報語学兵
米国陸軍情報部(通称 MIS:military intelligence service)語学兵の存在は、長い間軍事上機密扱いであった。
それが解除されたのが、ニクソン政権下の1973年(昭和48年)。戦後30年近くになってようやく情報開示を許された彼等の話から、日本攻略の2本柱が、「暗号解読」と、「捕虜からの情報」である事が判明している。
戦時中、日本は敵性外国語として、英語の使用や表記を禁じていた。だが、米国は逆に必死で日本語を兵士に教育させた。それが情報語学兵であり、その核となったのが、二世兵であった。ダグラス・マッカーサー陸軍元帥は、二世語学兵をして「米国陸軍史上、これほどまで敵を知り抜いて戦った戦争は無い。」と、評している上に「日系兵は、100万人の米国人の命を救い、太平洋戦争を2年は縮めた」と、チャールズ・ウイロビー情報参謀に語ったと、されている。
トルーマン大統領も、「二世は我が秘密兵器」と評して二世兵の存在感が大きい事を評価している。米国陸軍が日本語情報兵の養成を本気で考え始めたのは、日米交渉が決裂の様相を帯びた1941年(昭和16年)夏頃の事であった。
米国陸軍省軍事情報部極東課は、第4軍内に語学校を創設する事を決定して、同軍ケイ・ラスマスン大尉がその任務にあたった。ラスマスン大尉は、1936年(昭和11年)から4年程米国大使館駐在武官として、日本に滞在した事がある。当時の米国陸軍では、数少ない日本通であった。
ラスマスン大尉は早速3700人の二世兵を面接して、人材確保に着手する。ところが、意外なことに一定レベルの日本語力のある二世兵士は、全体の1割に過ぎなかった。会話はともかく、漢字の読み書き等、高難度の日本語となると、話は異なるようであった。
ラスマスン大尉は、その1割の二世兵士の中から、選りすぐりの二世58人を語学学校の第一期生に選抜して、一兵卒の二世兵士ジョン・アイソを教育主任に抜擢した。こうして、MIS情報語学兵は誕生した。




