合流
さて、1944年4月中旬から5月中旬にかけて、志願兵達はミシシッピー州シェルビー基地で、2月に本土の既存兵で編成した第442連隊戦闘部隊に合流した。その地でまず彼等を驚かせたのは、同州のヘイトクライムであった。
ミシシッピー州では当時、公共の場で白人と黒人が同席する事が禁じられていた。バスも映画館も、座席は別で、トイレも同様であった。幸運にも、二世兵達は白人待遇を受けたが、生まれて以来ヘイトクライムに苦しんでいた身としては、複雑な気持ちに成った。
第442連隊は、それから1年余り長期の野営、寒冷地や雨中の戦闘訓練や、不眠不休の行軍等、厳しい軍事基礎訓練を受けた。二世兵の成績は極めて優秀であったが、一つだけ重大な問題を抱えていた。ハワイ出身の兵士と本土兵士が、不仲であった事である。理由の一つは言葉にあった。
ハワイ出身の兵士が話すのはプランテーションで生まれた「ピジン英語」。これは一種のなまりの様なもので、本土兵には野蛮で下品に響いたし、第一何を言っているのか分からなかった。反対に本土兵の話す標準英語は、ハワイ兵には自分達を散々こき使ったハオレ(白人)の忌むべき英語に響いた。
それに何より、最大の違いは本土兵が強制収容所から来たと言う現実であった。にも関わらず、ハワイ兵は強制収容所の存在すら知らされていなかった。そこで、上層部は週末にハワイ兵にアーカンソー州のジェロームやロウアーの強制収容者を訪問させる事にした。それにより、収容所の現実を見たハワイ兵は、本土兵の現実を知った。
収容者達は、二週間分の配給を大事に貯めてハワイ兵をもてなした。本土兵はこんな酷い境遇から"志願"したのかと、ハワイ兵は尊敬の念を持つに至った。それ以降本土兵とハワイ兵のわだかまりは無くなった。この辺りの戦略は米国陸軍の巧みなところであり、ようやく第442連隊戦闘部隊の足並みが揃おうとしていた。




