ノーノー組とツールレイク
ノーノー組が収容されたツールレイクは、元々一般の日系人の強制収用所であったが、忠誠登録開始後には、ノーノー組専用の強制収容所になり、日本への帰国希望者を含む1万8789人を収容した。
ツールレイクの生活は、日の丸の掲揚から始まり、日本語学校もあった。はちまきを巻いて日本軍式の体操やランニングをする人も多かった。戦後になっても、日本の勝利を疑わない者もいて、それらの人は"勝ち組"と呼ばれ、ブラジルでの勝ち組同様米国にも、存在した。
忠誠登録後米国陸軍は、着々と第442連隊への志願者を選別した。また、1943年後半には、米国陸軍女子部隊(WAC)が、日系人に門戸を開放し、そして1944年(昭和19年)1月、米国陸軍は男子の日系人の徴兵を再開する。
日系兵士のイメージと言えば、「弾除け」であったが、各地の収容所では、米国に拘留された親(日系一世)が、「弾除け」となり、米国の為に死んだ息子の戦死通知を受け取ると言う矛盾に満ちた光景が繰り返された。
「第442連隊戦闘部隊」志願兵募集の報を受け、ハワイでは日系二世が徴兵局に殺到した。米国陸軍は当初、志願兵4500人の内訳を本土3000人、ハワイ1500人と想定したが、ハワイで一万人近い二世が志願した為、最終的に当初予定の倍近い2686人の入隊を認めた。一方、本土の強制収容所では、米国陸軍の原案3000人に対して、志願者は1181人に過ぎなかった。
やはり、強制収容所に入れておきながら、志願を募る事に対する矛盾が響いたのであろう。しかも、自分が戦死したら、財産も土地も失った両親の事を心配するという不安も、二世達の頭をよぎった。さらに、忠日派の勢力も強く、郷土の誉れと呼ばれたハワイとは異なり、大方の本土日系二世にとっては、軍に志願するのは、一種の後ろめたさを拭えない行為であった。
出征する兵士には千人針が渡された他、「あいつがやれば、僕もやる。見てろ、今度の激戦地にタンクを一つ分どって、ラジオニュースで聴かすから、待ってて下さい、お母さん。」(上原敏、昭和13年日中戦争の頃のヒット曲)もトレンドとなった。




