ハワイ臨時大隊
1942年(昭和17年)5月末、米国陸軍はスコフィールド兵営に日系二世だけの部隊「ハワイ臨時大隊」を編成した。その大隊は、ミッドウェー海戦が始まると、即その翌日に1432人を秘密裏にホノルル港から出港させている。6月12日には、ハワイ臨時大隊は、太平洋を越えてカリフォルニア州オークランド港に到着。
そこで、「君達は第100歩兵部隊だ。」と発表されて、それから3組に分かれて、列車も経路も別々に米国内陸部を移動している。理由は、人々が日本兵と日系人を間違えるとパニックになる。と言う事で極秘扱いの移送であった。
第100歩兵大隊と言われても、半信半疑で収容所行きを疑わない者が多かった。3本の軍用列車が到着したのは、ウィスコンシン州のマッコイ基地であり、収容所ではなく、訓練基地であった。第100歩兵大隊を率いたのはファラント・ターナー米国陸軍中佐で、その部下にも白人将校が続いた。
第100歩兵大隊の編成は変則的であった。通常米国陸軍の大隊は、本部の他に4つの中隊からなるが、第100歩兵大隊は、A中隊からF中隊まで6個の中隊があった。
また、第100歩兵大隊の正式名末尾には「セパレート」の文字がつくが、これは親となるべき連隊や師団の無い事を意味していた。つまり、ハワイ臨時大隊は、よく言えば素早く動かせる「自由な駒」で、悪く言えば「孤児」の存在であった。
その事や、ハワイ臨時大隊の名称からも察せられる通り、米軍はハワイの日系二世兵の扱いに苦慮した。そこで、とりあえず彼等を米国本土に送り、後の事はいずれ考えるという曖昧な判断を下したのである。
それでも、肝心の日系二世達は、ようやく徴兵された事を知ると、ヤル気がメラメラと湧いてきた。命の危険があると分かっていても、下克上を成し遂げる千載一遇のチャンスである事に違い無かったからである。




