排日②
米国は、立て続けに排日関連法を実施。一種の"断行"政策を採った事で日系社会にはは、それっきり日本の新しい血や文化が入らなくなった。結果として日本人は、いよいよ「古い日本」をそっくりそのまま、冷凍保存するかの様に、保持した。
また、たまに日本からの映画や本、雑誌が入ると、くいる様にそれらを見たり、読んだりした。日系人が大切にしていた「古い日本」とは、明治時代あるいは、江戸時代末期(幕末)を生み育てた武士社会の伝統や文化、思想、伝統、教育である。
大抵の日系家庭には、当たり前の様に、天皇陛下の写真がかけてあった為、あたかも自分は日本人だと思っていた日系人は、多かった。また、日系人は日本が強くなれば、米国における自分達の地位向上に繋がると考えた。実際には逆で、日本が軍事力を膨張させれば、させる程排日運動はが盛んになった。
日系一世は、また日本語教育を熱心に二世に施した。日本語学校町場だけではなく、農村にも作られ、日系二世は米公立学校に加えて、そこに通った。日本語学校は地域によって差はあるが、毎日あるいは、週末に開校したが、日本語だけではなく、柔道や剣道、修身の授業もあった。
天皇陛下誕生日には、全日本語学校で万歳三唱をしたと言う。義理や人情、大和魂は、こうして育まれて行った。と、同時に日米の二重性や二重苦との戦いでもあった。ルーマニアの思想家であったエミール・シオランはこう言った。
「私達は、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。」
日系二世は、英語と日本語の二つの言語を身に付けさせられた訳であるが、それが二重苦の要因ともなって行く。無論、ヘイトクライムは、白人以外の有色人種にも行われた歴史がある。日系移民よりも、黒人へのヘイトクライムは、度を越したものに、なっていたことはあまりにも有名である。




