広島と二世
広島・長崎に原子爆弾が落とされた事は、あまりにも有名であるが、二世と広島は切っても切れない関係性にあった事は、ほとんど知られていない。
と、言うのも多くの二世の両親が広島県出身者が多かった為である。その為二世は両親の安否を非常に気にしていたと言う。だが、立場上それを行う事は出来ず歯がゆい思いをした。
原子爆弾の製造から使用までは、米国政府が立案して、実行したのは「マンハッタン計画」よるものであり、現場責任者はトーマス・ファーレル准将が担った。また、情報収集の為原子爆弾投下後、国際赤十字や合衆国公衆衛生局や、戦略爆撃調査団や、米国陸海軍軍医部と言った所謂、「原子爆弾調査グループ」が相次いで広島入りしている。
世界初の核兵器使用は、彼等の貴重な"研究対象"であり、このデータを収集する事はまたとない好機となった。広島だけではあきたらず、長崎にも原子爆弾を投下しているのだが、二つの都市には共通点がある。
それは日本海軍の巨大な軍港があったという点である。(呉、佐世保)とは言え、米軍の狙いは明らかに民間人が集中する都市部を狙っていたのは確かであり、許されるはずもない暴挙である。
当時の日本人の一人は以下のような想いを、短歌に表している。「人間供が余りバカバカしいので、虫けら供が笑っているだろう。俺達の世界には原子爆弾も戦犯も無いのだと。」
混乱の絶頂期にあった日本であったが、1952年(昭和27年)4月28日午後10時30分、サンフランシスコ平和条約締結により、日本は沖縄を除き主権を回復した。




