バターン号とコーンパイプ
戦艦ミズーリの中は、サウナの様な猛烈な暑さであった。
「you want this?」
「これが欲しい?」
「can not give it to you.」
「否駄目です。」
この英文の通訳は日本の戦後政策を決定する象徴的なものである。正確にはこの訳し方は少し間違いで英文も変わる。
「We want this.that's it.」
「要求はこれ以上。」
と言うのが正しい訳文になる。だから通訳はシンプルさが求められた。日本側のスタンスとしては、無条件降伏であるから、無理もクソも無いのである。
とりあえず横浜にあった慶応義塾大学日吉校舎にあった日本海軍軍令部は、「進駐を行う時間、危険防止の為、横須賀市域居住者は、屋内に止まるべく車馬の運行を禁止せらる。」と、呼び掛け神奈川県では、次の文章を記した「住民心得」を配布した。
「外国兵と色々な事で、個人的に交渉しなければならない場合が発生しても、努めて冷静沈着に応対し、自分の権利(生命・貞操又は財産権)はあくまでも、自分で主張する事が必要である。」
初代、米国海軍横須賀基地司令官となったのは、オスカー・バッジャー少将であるが、C-47で直ぐに物資が運び込まれ、占領政策の準備を滞りなく行った。
ダグラス・マッカーサー元帥の愛機「バターン号」が到着して、6勺1、2寸のマッカーサー元帥がレイバンのサングラスとコーンパイプをくわえ、軍楽隊「アンカーズ・アウェイ」の演奏により日本の大地に降り立ったのは、そんな頃であった。1945年9月2日の戦艦ミズーリ上における調印式に合わせやって来た。爆音と共に米国海軍第3艦隊の艦載機1500機と、B-29が430機も投入され、誇らしげに東京湾上を舞った。




