ジークフリート・ライン
第552野砲大隊が越境したのは、ヴォージュ山脈の北、ザール川である。1945年3月12日の事だ。この川は独仏国境線上にドイツ軍が要塞郡を構築した「ジークフリート・ライン」の中央部にあたる。
ドイツに入った第552野砲大隊は、ハイデルベルグ→シュッツットガルドと東南方面に侵攻し、同年4月26日にドナウ川を越えた。ドナウ川から更に南下した第552野砲大隊は、5月20日ミュンヘンの手前15㎞付近でダッハウに到着した。
ドイツ・イタリアの国境は地理的にみても、歩くだけで息切れしてしまうような所謂"僻地"であった。二世兵を中心とした部隊は、足の長い米国本土兵に比べ、日本人由来の胴長短足の持ち主がほとんどであり、国土の約70%が山林であった国家の民族のDNAを持ち合わせた、彼等にとっては造作もない事であった。これは、生まれ持った天性であり、彼等にとっては天命であったと言えるかもしれない。
無論、それだけの理由で彼等が暴れまわったとは言わない。だが、民族にはそれぞれのオリジナリティがあり、欧州の地元民よりも米国本土兵よりも、二世兵の方が活躍出来たのはそう言った要因が少なからずあったと言っても良いだろう。
第二次世界大戦の欧州戦線もフィナーレを迎えようとしていた。それはつまり、二世兵にとっての戦争も終わる事を意味していた。だが、彼等の本当の意味での戦いは終わらない。二世の地位を米国社会において確立させる事こそ、彼等がこの戦争を通じて勝ち取りたかった"モノ"である。ドイツ兵にもイタリア兵にも恨みはないが、彼等にとって後退する事は出来なかった。致し方の無い犠牲者達であったと言える。




