ゴシック・ライン
ヴォージュにいる大量の死傷兵を補う為に、米国本土シェルビー基地から、1214人の日系補充兵が加わった。
連合軍はその頃、グスタフ・ラインやアルノ・ラインを突破後、北へ北へと勢力を広げたが、イタリア北部の山岳地帯は、依然として敵の手中にあった。ドイツ軍はピサの斜塔で有名なピサ地方から、アペニン山脈に沿った全長約240㎞にゴシック・ライン防衛線を敷き、連合軍の北上を阻止していた。
1800メートル級の山々が連なるゴシック・ラインには、自然の岩石を用いてコンクリートで固めた要塞が2400個も築かれていた。ゴシック・ラインの西部にあたるピサ地方付近の担当は、英軍、ブラジル軍、他米軍は黒人のみで編成された第92師団(兵力1万4000人)別名バッファロー部隊であった。
しかし、5ヶ月もの間進展が見られず、米軍は見かねて精鋭部隊である第442連隊を、投入したのである。二世部隊のイタリア再登板をドワイト・アイゼンハワー元帥に特別要請したのは、モンテカッシーノの戦いやアンツィオの戦いで共に戦い二世部隊の実力を充分に承知した、あのマーク・クラーク大将であった。
リボルノ港から北イタリアに上陸した二世部隊は、大理石の産地で有名なピエトラサンタ市に移動した。山中で野営して、出陣に備えた。そしていよいよ、1945年4月3日~4日の夜間にかけて、幾つかの部隊に別れて、ドイツ軍にとって"最後の砦"であるゴシック・ラインの切り立った山岳地帯に向けて出発する。
ゴシック・ラインの名称は尖塔が特徴的なゴシック建築から取ったとされている。大理石が露出している為、頂は白銀に輝いていた。その為、滑りやすく下手をすると、谷底に真っ逆さまである。5ヶ月間多量の兵士を投入しても、ゴシック・ラインを攻略出来なかったのは、そうした地理的要因が大きく関係していたと言えるだろう。




