ブリエールの丘
第442連隊がマルセイユから陸路ローマ平原を抜けたのは、ヴォージュ地方でブリエール周辺に至ったのは、1944年10月14日の事であった。
そこには国境を死守せんと背水の陣で臨む、ドイツ軍が待ち構えていた。ブリエールは、ビフォンテーヌの森から西に約6.5㎞に位置する人口3万人の小さな街である。とは言え、小さいながらも街道や鉄道が交差する事から、ブリエールは交通の要衝であった。
日系部隊が接近した時、この街は4年にも及ぶナチス・ドイツの占領下にあった。ドイツ軍はブリエールの守備にあたり、街を見下ろす4つの丘に要塞を築き、随所に武器と兵士を潜り込ませた。逆に第442連隊は、何よりも先にこれ等の丘の要塞を奪う必要があった。
1944年10月15日、日系部隊は針葉樹に覆われたブリエールの丘に進軍。複雑な樹海が広がる為、地元のレジスタンスと接触して、道案内をさせた。この辺りは秋になると長雨が続く。経度は樺太並の北緯48度であるため、秋雨即ち氷雨あるいは、みぞれを意味する。その日も雨が降っていた。
雨にドイツ軍の高所攻撃に地雷。現状はモンテカッシーノの戦いに極めて近かった。ただ、一つだけ異なるのは、「ツリーバースト」が加わった事である。ツリーバーストとは、直訳すれば、「炸裂した木」となる。20メートルもある大木の先に敵弾があたり、炸裂した木が凶器となって猛速度で降り落ちた。無論、そんな状況下でも日系部隊に求められるのは、勝利のみ。
ブリエールの丘を開放する為にここにいる。もし、二世達がここを奪取出来ていなかったら、第二次世界大戦の欧州戦線は、もっと長引いたかもしれない。とは言え、二世達は多くの犠牲と引き換えにブリエールの丘を開放した。これが戦争なのである。




